第12話一生、守ります
「義父さん。ちょっと今、良いですか?」
「なんだい聡くん。俺は今忙しいのだが」
「すぐに済みます。家に友達を泊めて良いですか?」
「友達? 近藤くんのことか? それなら許可は要らないぞ。今どきの若者にしては礼儀正しいからな」
「いえ、違う友達です」
「……珍しいな。聡くんに友達ができるなんて。そして何か理由があるのか?」
「良く分かりますね。流石脳外科医ですね」
「関係ないだろう――と言いたいが、関係しているのは否定できないな。脳と精神は切っても切れない間柄にあるからな」
「……理由は聞きますか?」
「いや聞かなくても分かる。また誰かのために動くんだな、聡くんは」
「誰かのために動くんじゃなくて友達のために動くんですよ。でも理解してくださって嬉しいです」
「俺は聡くんのやることを肯定もしない。否定もしない。ただ理解はできる。それだけだ」
「それが嬉しいです。ありがとうございます」
「あいつには俺から言っておく。それではこれから手術があるから切るぞ」
「ありがとうございました。それでは」
僕は電話を切った。
そしてリビングで僕と義父さんの会話を聞いていた河野ちゃんと吉野さんに「許可が出たよ」と報告した。
吉野さんはホッとした様子で。
河野ちゃんは所在なげに下を向いていた。
「しばらくここに居ていいよ」
「……ありがとうって言えばいいのかな」
僕は「そんなのいいよ」と頬を掻いた。
「僕が勝手に連れてきただけだから。気にしないで」
「……ありがとう。そしてごめんなさい」
憔悴している河野ちゃんに僕は何か言おうとしたけど、その前に吉野さんが「謝ることないんだよ」と慰めた。
「だって、私たち友達じゃない。私も田中くんも迷惑だなんて思ってないよ」
すると河野ちゃんの大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出てきた。
「ど、どうしたの静ちゃん!?」
「どこか痛むのかい? 吉野さん、薬箱持ってくるから――」
おろおろしてしまう高校生に対して「違うの」と涙ながらに言う女子中学生。
「こんなに優しくされたのは、久しぶりだから」
その言葉に――僕たちは心を締め付けられた。締め付けられて痛んでくる。
この少女は実の親から暴力――虐待を受けていて、それを助けてくれる人が居なくて、孤独で、淋しくて、生きていたんだ。
「大丈夫だよ。静ちゃん」
吉野さんは河野ちゃんに近づいて、優しく、強く、抱きしめた。
身体中の傷を無くすように。
身体中の痛みを和らげるように。
女性らしい気遣いを持って、抱きしめた。
「もう君に暴力を振るったりする人はいないよ。もう君を傷つける人なんていないよ。だから安心して。ここは安全だから。怯える必要もなければ怖がることもないんだから」
すると、河野ちゃんは吉野さんを抱きしめ返した。
「もう、私に痛いことしないの?」
「うん。絶対させない」
「もう、私に嫌なことしないの?」
「うん。絶対させない」
「じゃあ、もう――我慢しなくていいの?」
吉野さんは河野ちゃんをさらに強く抱きしめた。
「うん。我慢なんてしなくていいよ」
それを聞いた河野ちゃんは――
「う、うう、うわあああああ!」
声を上げて泣き出した。
今までの苦しみを吐き出すように。
今までの悲しみを取り除くように。
大声を出して、泣き出した。
「つらかったね。でも、もう安心していいから。大丈夫、大丈夫。安心してね」
吉野さんの瞳にも涙が浮かんで、そして流れ始めた。
二人の泣く姿を見て、僕はこれで安心だと思いたかった。でもそれだけじゃあ解決できない。これからやるべきことがたくさんあった。あの酷い父親からどうやって河野ちゃんを引き離すのか。これからの河野ちゃんの生活のこと。それに伴う生活費や諸々の生活必需品の調達。
さしあたって河野ちゃんから事情を訊かねばならない。でもこんなに大声で泣いている少女から聞き出すのははばかれるし、何より今は休ませてあげたい。
僕は二人を置いて、信頼できる大人に電話をかけることにした。
義母さんは忙しいから、梅田先生だな。
僕は家の電話で梅田先生に電話をかけた。
コール音が五回ほど鳴ってから通じた。
「もしもし。聡くんかな?」
「ええ。そうです。今大丈夫ですか?」
「今は忙しい――って言えれば良かったけど、生憎暇なんだよねー。それで、何の用?」
「梅田先生は虐待に遭った女の子に何をしてあげられますか?」
「はあ? 唐突に何を言っているの君は?」
僕は簡単に事情を説明した。
「……まさか、そんなのに関わっているなんて夢にも思わなかったわ」
「僕もです。まあ変わった女の子だなあって思ってたんですけど、まさかと思いました」
「それで、聡くんはどうしたいの?」
そう訊かれて、僕は言葉に詰まった。
「父親からその河野ちゃんを引き離したいの?」
「そうですけど――」
「それじゃあ河野ちゃんはどうやって生活していけばいいのよ?」
「それは、考えていないです」
「もしも引き離してしまったら、多分、その子は養護施設に入れられるわよ。聡くんと近藤くんと同じようにね」
「それは困ります。なんとかなりませんか? 梅田先生」
「ならないわよ。まあ養護施設ではなくとも親戚をたらい回しされるのが容易に想像できるわ」
親戚をたらい回しか……思春期の少女にそれは辛すぎる。
「聡くんみたいに優しい親戚に引き取られるのはまだ幸運なケースよ。現実には愛情の欠片もない家庭に放り込まれるのよ」
「それはどうしてですか?」
「考えてもみなさいよ。子どもが居る家庭だったら実の子どものほうを可愛がるじゃない。子どもの居ない家庭でも夫婦同士が愛し合っているのにそこに異物が紛れ込んだらどうなると思うかしら?」
「…………」
「電話なんだから沈黙しないでよ。異物は排除されるわ。まるで人体の健康を保つための抗体のように。それが分からない聡くんじゃないでしょう」
分からなくもないけど、分かりたくない事実だった。
「聡くん。考えなければいけないのは、それよ。考えるべきは現在じゃなく未来であり将来であるのよ。それも立ち止まるような現実は論外であるってことも頭に入れておいて」
「つまり、これで良いって現状はないってことですか?」
「そうね。人生にはゴールなんてないのよ。到達点ではなく通過点だらけなの。だから敢えて厳しいことを言うわ」
そこで梅田先生は一瞬だけ沈黙を作った。
「あの子を――一生守れるの? 今すぐ決めなさい。それができないなら見捨てなさい」
その現実に僕は足元が崩れる感覚がした。
一生守れるなんて、今の僕にはできない。お金とか構想とか未来とか、そんなことを用意したり計画したり見据えたりするような力が僕にあるわけがない。まだまだ子どもの、一介の高校生なんだ。
それらに加えて僕には覚悟がなかった。人一人背負う気力もない、非力な人間なんだ。
友達のあきらくんは言った。『めんどくさがり屋。無気力な人間。情熱を持たない人種』それが僕の本質なんだ。
それが――いきなり選択しろなんて無理難題もここに極まれりだ。何もできない、何も選択しなかった自堕落な人間に、あんな親に虐待されている可哀想な女の子を『守れ』なんて――
「どうするの? 守るの? 見捨てるの?」
非情な声が僕を苛む。時間が欲しかった。考える猶予も欲しかった。
だけど、僕は既に選んでいたのかもしれない。梅田先生に言われなくても、心の中では決まりきっていることだったのかもしれない。
僕は正義のヒーローじゃない。でも悪の怪人でもなかった。ただの一般人だ。何の力も持たない一個の人間だ。
だから、ここで、僕は選んでしまった。
いや、言い方をやめよう。僕はこれを選びたかったんだ。
「守らせてください、一生」
僕は勢いのまま、言葉を紡ぐ。
「守らせてください。河野ちゃんを。あの子の痛みも恨みも悲しみも苦しみを背負わせてください。一生かけてそれらを無くしていきます。あの子の心を守らせてください。毎日笑顔で居られるように努力します。あの子がこれ以上後悔しないように素敵な日常を送らせてください。そのために僕は生きていきます。あの子のためにずっと頑張らせてください。そして自然と笑えて、時には怒って、ちょっぴり泣いて、そして最後には笑いになるようにしますから。そのためなら僕は苦労してもいい。一生をあの子に捧げてもいい。僕は今――覚悟しました」
僕の言葉、嘘偽りのない言葉を聞いて、梅田先生は「どうして?」と問いかける。
「どうしてその子のために、そこまで言えるの? 会って間もない女の子でしょう?」
その答えは既に知っていた。だから泣きそうになるのを堪えて言う。
「河野ちゃんは僕と一緒だからです。僕と一緒で誰も頼れる人が居ないから、優しくしてくる人が居ないから、だからそういう人になるんです。僕がならなきゃいけないんです。同情じゃないんです。僕の心からの望みなんです」
そして最後に僕は宣言した。
「河野ちゃんを一生守らせてください。そのために、僕は生きていきます」
僕の言葉を聞いて、梅田先生はふーっと溜息をして、そして言った。
「よく言ったね。やっぱり聡くんは優しいね」
それは――先ほどの厳しい声ではなく、慈愛のこもった、優しい声音だった。
「聡くんの覚悟はよく伝わった。うん、私も協力するわ」
思いがけない言葉に、僕は息を飲んだ。
「本当、ですか? どうして――」
「当たり前でしょう? そこで協力しなかったらどんだけ私冷血だって話よ」
今までの緊張していた空気が一気に弛緩する気配を感じた。
「私は全面的に聡くんの味方よ。困ったことがあるなら私に話しなさい」
「ありがとう、ございます――!」
僕は喜びで叫びそうになってしまう。やっぱり梅田先生――弥生お姉ちゃんに話して良かった。
「それじゃあ細かいことは明日そっちに行くから直接話しましょう」
それを最後に僕たちは通話を終えた。
これで安心、とまではいかないけど、なんとか味方ができて嬉しかった。
そう思って振り返った。
そこには、河野ちゃんが居た。
そして吉野さんも居た。
二人とも目をうるうるさせている。
「……いつからそこに居たんだ?」
僕の問いに答えたのは、吉野さんだった。
「えっと、その、『守らせてください、一生』のところからかな」
……一番聞かれたくないところからだった!
「あの、その、あれは――」
「田中くん、私を一生守ってくれるの?」
しどろもどろになる僕に河野ちゃんはじっと見つめてくる。その眼差しに嘘なんて吐ける人類は居るのだろうか?
「――うん。本気だよ」
ようやく言えた言葉。それに照れて、目線を外した瞬間だった。
身体全体を、暖かい感触で、覆われた。
脳の理解が遅れて、そして知覚する。
河野ちゃんが僕に抱きついていた。
しかも正面から。
「河野ちゃん!?」
「嬉しい、嬉しいよう……」
河野ちゃんが僕の胸で泣いている。
「守るって決めたのに、また泣かせちゃったよ。ごめんね」
頭を僕は優しく撫でた。さらさらしていて、心地良かった。
「田中くん。私も力を貸させてほしい」
吉野さんがそう言ってくれたので、僕は「うん。お願いします」とだけ言った。
こうして僕は女の子を守る決意して、女の子を一生守る覚悟を決めた。
それは重い決断だったのかもしれない。
それでも僕は守りたかった。
自分と一緒の女の子を守ることで、自分も救われたかったのかもしれない。
そう考えたら自己中心的な思惑があったのかもしれない。
けれどそんな蛇足的思考なんてどうでも良かったんだ。
守りたかったから守る。
それだけでいいじゃないか。
これから大変になる日常を僕は歩いていく。
今までと違うのは――
僕の隣で歩いてくれる人が居ることだった。
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