第6話虚しい反撃
プールでの事件から数日が経った。
それから目に見えた虐めは起きていない。
というより、みんな僕のことを腫れ物扱いしていた。火傷の痕を見られて腫れ物扱いされるというのはつながりがあるようで、なんとなく嫌だった。
虐めに参加していないクラスメイトも僕のことを可哀想な目で見ている。それは同情と言えば良いのだろう。
しかし同情される側からすれば、同情も見下しと変わりはないのだ。どちらもするほうが優越感を感じるという点では似ている。
あのとき、ジャージさえ脱がなければこんな視線を感じることがなかったと思うと少し後悔している。
別に同情されたいから脱いだわけじゃなく、酸素不足で朦朧としていた思考のままで脱いでしまったのだ。
それを――とても後悔しているんだ。
後悔先に立たず。その言葉をこんなにも痛感したのは初めてではないけど、それでもこれは痛恨の極みであることは間違いないだろう。
しかし反省はするものの、どう対処すれば良いのか分からない。時が巻き戻るわけでもあるまいし、戻ったところでまた同じことの繰り返しになるだろう。
僕は何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのだろう。自分が自分で嫌になる。
そんな感情に支配されながら、迎える一学期の最終日。つまり明日から夏休みになる日のことだった。
いつもより遅い時間に登校して教室に入ると、なんだか空気が違っていた。
クラスのみんなの視線がねっとりと僕に集まっている。可哀想だという視線と見下している視線の両方が僕に注がれる。
なんだろうと思いつつ、自分の席に着こうとして気づく。
僕の机の上に白い花びんが置かれていた。
薄手の花びんだけではなく、ちゃんと菊の花と水が入れられていて、なんていうか、ベタな虐め方だなあと逆に感心してしまう。
花びんの下には紙が置かれていて、そこには『ただれ男』だとか悪口がびっしりと書かれていた。
今日まで虐めがなかったのは、この日のためだったのか。そう考えると納得してしまった。
くだらないことをするなあとしばらく呆然としていると後ろから声をかけられた。
「おい、ただれ。何ぼうっとしてるんだ? 自分の席に着けよ」
振り返ると、そこにいたのはやはり山崎だった。いやらしい笑みを顔に貼り付けて、僕を見下している。
僕はカバンを机の横のフックにかけた。そしてそのまま席に着いた。
その瞬間、山崎と取り巻きが弾かれたように笑い出す。下品な笑いだった。
僕は誰にも見られないように机の中に置いてあった細いボールペンをポケットに入れた。キャップ付きのタイプだったので、キャップを外すのを忘れなかった。
「おいおい、素直に座ってんじゃねえよ。なんかリアクション見せろや」
煽る山崎に僕は無反応を貫いた。これから起こることに備えていた。
正直に言うと僕は怒りを覚えていなかった。悲しくもなかったし、悔しくもなかった。ただこれ以上エスカレートすると僕の学校生活が悲惨なものになる。
だからここで決断すべきだった。悩みはしなかった。
「ちょっと! 何してるの!?」
覚悟を決めた最中、教室中に響く大きな声が入り口のほうから聞こえた。
その声の主は――吉野さんだった。
振り向くと真っ青な顔で山崎を睨みつけている。カバンを持っているところから、たった今、登校してきたのが分かった。
「なんでそんなことするの! いくらなんでも陰湿だよ!」
そう言って山崎のほうへ歩みを進める吉野さんに、山崎はせせら笑った。
「陰湿? どこがだよ? みんなが居る前で虐めてるじゃねえか」
ある意味堂々としているけど、虐められている側からすれば、あまり関係のないことだった。というより虐めはどんな形であれ、人間のマイナスが表れるものだ。
「なんで田中くんを虐めるの? 田中くんが何をしたっていうの?」
吉野さんの詰問に軽く笑う山崎。
「こいつが気にいらねえだけだ。それ以外に理由なんてねえよ」
そっか。やっぱりそうなのか。
だったら、もういいかな。
「ふうん。まあその程度の理由なんだね」
僕が喋るとクラスがしーんと静かになった。
取り巻きの連中もこちらをただ見ている連中も、吉野さんも山崎も黙ったまま、僕に注目している。
「そんなくだらないことを繰り返しているんだから、もっと大層な理由があると思ってたけど、薄っぺらいんだね。君の人間性と同じで」
わざと挑発するようなことを言う。
「なんだと? お前、今何を言ったんだ?」
怒気を孕んだ声で威嚇する山崎。
それに構わずに僕は続けて言った。
「図体ばかりでかくて、やることは小さい。君の内面を表しているようだったから、薄っぺらいと言ったんだよ。それすら分からないのかい?」
山崎の沸点は低い。その証拠に今にも殴りかかりそうになっている。
さらに続けて煽ってみる。
「ああ、馬鹿だから分からないんだね。ごめんね。知性の低い人間の思考回路がよく分からないんだ。理解が遅れてごめんね」
その言葉がきっかけだった。
「ふざけんなよ! てめえ!」
僕のほうに歩みを進めようとする山崎。しかしそれを取り巻きが身体を掴んで留めた。
「山崎くん! 今は不味いって!」
「もうすぐ木下先生来るって!」
そういえばホームルームをやっていない。だったら急いでやらないとな。
もしかしたらあきらくんが来るかもしれないしね。
「……ちくしょう」
山崎はうな垂れてしまう。取り巻きの連中の言葉でほんの少しだけ冷静になってしまったのだろう。
「あはは。良かったね。言い訳ができて」
そこを――逆撫でしてみる。
「あぁん? 今なんて言った?」
「どうやら頭だけじゃなくて耳の聞こえも悪いのかな?」
僕はわざと微笑んでいる。そんな僕を吉野さんは信じられないといった顔で見つめる。取り巻きも同じような顔だった。
「僕を殴りたいんだろう? だったら殴ればいいさ。まあそんな度胸も――」
その言葉がきっかけだった。取り巻きの連中の腕を振り払って、僕目がけて近づく山崎。
そのままの勢いで、一発殴られた。
痛いと思う間もなく、床に叩きつけられる感触を味わう。
そしてそのまま、何度も殴られた。
回数を数える余裕もなかった。
激痛で飛びそうになる意識を何とか保っていた。
「おい! やめろよ山崎!!」
「こいつ死んじゃうって!!」
取り巻きの連中が抑えてしまい、僕は殴打から解放される。
口を切ってしまったようで、鉄の味がした。
クラスの様子を把握できないけど、先生が呼ばれるのは時間の問題だった。
だから急ぐ必要があった。
「まだ足りないね……」
僕は虚ろな目で山崎を見つめた。
「こんなんじゃ正当防衛にもならない。もっと来なよ。そうしないと君に暴力を振るっても正当化できないじゃないか」
ゆっくりと立ち上がる僕をクラスの人間はおぞましいものを見ているようだった。
山崎の表情にも怖れが出てきたけど、それでも怒りが勝っているらしい。図体のでかさは力があることと同意だった。
そういえばいつの間にか吉野さんが居なくなっていた。
「てめえはなんなんだよ……頭おかしいのか? ちくしょうが!!」
そう言いながら、再び僕に殴りかかる山崎。
僕は隠し持っていたボールペンをポケットから素早く取り出した。
そして山崎の拳に狙いを定めて――突き刺した。
「ぎゃあああ――!!」
教室中に響き渡る濁った悲鳴。後ろにひっくり返り、のたうち回っている。
どよめくクラスメイト。それに構わずに誰かの椅子か分からないけど、そこに座って痛がる山崎を見つめる。
「痛いかい? 僕はもっともっと痛かったんだよ?」
口元が歪み、笑顔になるのを止められない。
痛みで七転八倒している山崎に僕はさらに言った。
「確か野球部だったね。まあしばらくはボール握れないと思うけど、気にしないでね。僕だって多分青痣で人前に出られないから、お互い様だね」
笑顔でありながらも同時に虚しく感じていた。やはり暴力の快楽というものは一過性に過ぎなかった。
辺りを眺めてると取り巻きの連中は固まっているし、静観していた人間も僕を化物のように見つめている。
そして――視線の先に船橋さんが居た。
顔面蒼白で怯えている。ガチガチと歯の根が鳴っているのが想像できた。
まさか僕がこんな風な反撃をするとは思えなかったのだろう。
しかしここまでだった。これ以上行なうと今度は僕が悪者になってしまう。
いくら途中経過で優位に立っていても、最終的に負けてしまったら意味がない。
だからこれ以上は何もしない。
「――田中くん! 近藤くんを連れて――」
どうやら吉野さんが居なかったのは、あきらくんを連れてくるためだったみたいだ。
「なに、これ……」
吉野さんの呆然とする声が聞こえてくる。
「おいおい。結局こうなっちまったか」
もう慣れているのだろう。つまらなそうな感じで僕に近づいてくるあきらくん。
「こうなるのが嫌だったから、虐めるのをやめろって言ったのに。まったく馬鹿なヤツだよ山崎は」
そう言って僕の肩を掴んで、無理矢理顔を近づけるあきらくん。
「うん。腫れているが痕は残らないだろう。安心しな」
「別にそんなことはどうでもいいんだけど」
「お前の顔に傷がつくと梅田さんがうるさいんだよ。それにしても、結構えぐいことするのなお前」
未だにうずくまっている山崎を見つめながら、溜息を吐くあきらくん。
「向こうが悪い感じにしておいて、それでいて相手に多大なダメージを与える。小学校のときから変わらないな。だからお前は怖いんだよ。無気力なままで居ればいいのに」
「なんだい。それが暴力を振るわれた末に反撃を試みた人間に対する言葉かな?」
「明らかにお前が悪いと思うぜ。暴力を振るわせたんだろうが」
あきらくんは呆れ果てているみたいだ。
「まあ虐めを行なった山崎が悪いな。今度から虐める相手は慎重に選んだほうがいい。まあそんな機会はもうないだろうけどな」
そんな感想を述べているとようやく先生たちがやってきた。
僕たちの様子を見て驚きの声を上げた。
まあ大柄な生徒が手にボールペンを突き刺さっていて、それを青痣だらけの小柄な生徒が見つめている。文章にすると恐ろしいと自分でも思う。
それからが大変だった。
救急車がやってきたり、職員室に呼ばれたり、事情を説明させられたりと夏休みに入る日だというのに、一日中拘束されてしまった。
まあその前に傷の手当をさせてくれたのは助かったけど。
「これが聡くんのやり方なのね。本当に残酷よね。同じ血が通っているとは思えないくらいよ」
梅田先生は無表情に言いながら治療してくれた。それに対しては何も言わなかった。
結局、悪いのは山崎のほうになった。虐めをしていた事実は変わらないし、目撃証言もあるのだから。
「殴られて意識が失いそうになったので、咄嗟にボールペンを振るったら偶然刺さってしまった。詳しい状況は覚えていません」
その言葉を終始一貫で通した。他の生徒、特に取り巻きの連中は何か言うかと思っていたが、何も言わなかった。おそらくは僕の報復が怖いのだろう。
だけど一番残念に思えたのは、吉野さんのことだった。
僕のことを庇ってくれた優しい人だったけど、一緒に職員室に来て証言してくれた優しい人だったけど、最後にこう言われた。
「田中くんは最低だね。わざと虐められてからあんなことするなんて」
遅い時間に解放されて、誰も居ない廊下で真面目な顔で言われて、少しだけ悲しかった。
「そうだね。わざとやったんだ」
「認めるんだね。君は最低だ」
吐き捨てるように言われて、吉野さんはさっさと帰ってしまった。
だけど僕が反撃を決意したのは、吉野さんが庇ってくれたからだよ。
そんな一言が言えれば良かったけど、逆に傷つけるだけだから言えなかった。
こうして高校二年生の一学期がようやく終わった。
なんとも後味の悪い終わり方だった。
まあいいさ。山崎のことはどうでもいい。
これから夏休みをどう過ごそうか。
そればかりが頭を占めていた。
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