触れ合い
橋本洋一
第1話何気ない出会い
授業を真面目に聞いても意味なんかないと悟るようになったのは、いつだろうと世界史の授業中に自問してみるけれど、その答えは最初からだと気づいてしまう。
記憶を辿ると、小学生から僕は真面目に聞いていなかったのだ。それはサボりなどの怠惰でもなくて内容が分からないという愚かさでもなかった。
授業を聞かなくても勉強なんて簡単だったからだ。だって教科書を暗記してしまえば楽に決まっている。暗記ではなくても、七割ぐらい覚えてしまえば理解はできる。
だから「田中聡くん、第四回十字軍を提唱した教皇の名前は?」と担任で世界史担当の木下先生に前触れもなく指されてしまっても、僕は静かに「インノケンティウス3世です」と答えることができた。
「そのとおり。彼は教会の権威を高めようと――」
木下先生は教え方が上手いけど、こうして予告もなく生徒に質問するので、その点が不評を買っているらしい。
まあ真面目に聞いていないから良し悪しなんて分からないけど。
僕は閉め切った窓から外を見てみる。
七月に入ってから急激に気温が上がっていて、歩くたびに汗が吹き出てしまう。こうしてエアコンの効いた部屋に居られるのは、環境には悪いと思うけど、健康には悪くないと思っている。
校庭には誰も居ない。体育の授業は既に水泳に移っているから、あまり利用されない。
だけど、人の居ない校庭が僕は好きだった。人がたくさん居ると気分が悪くなることの対比で居ないほうがすっきりした心地になるのだ。群衆恐怖症とまではいかないけど、人ごみは苦手だった。
外を見るのをやめて黒板の上にある時計を見た。もうすぐ授業が終わる。そうすれば放課後が待っていた。
今日もあそこに行こうとぼんやりと思って、時計の針が速く進まないかと念じてみる。
まあ念じようが念じまいが時間は平等に過ぎていくのだ。相対性理論? よく分からないから気にしないことにした。
「それでは今日はここまでにします。予習復習を怠らないようにしてください」
そう言ってそそくさと教室を出る木下先生。クラス中に弛緩した空気が漂う。
木下先生はかなり年配の人なのに、僕たち生徒に対していつも敬語だった。人によっては壁を作っている風に見えるけど、僕にとっては居心地が良い距離感だった。
僕が通う私立高校、十字ヶ丘高校には清掃がなかった。清掃員の方々が生徒の代わりに掃除してくれるのだ。
だから部活に入っていない、いわゆる帰宅部の僕は教科書をカバンに仕舞って、そのまま帰るだけだった。
「おい、帰ろうとするなよ」
呼び止める声。振り向くとそこにはクラスメイトの男子、山崎大志が居た。
正確には取り巻きの生徒も数名居るけど。
山崎の睨み付けるような――いや、実際睨みつけている――その目には蔑みがあった。
「お前、暇なんだろう? だったら俺の代わりに雑用に従事しろや」
上から目線の物言いに僕はうんざりするけど、逆らうことなく「どんな仕事?」と短く返した。
素直に従うのも勘に触るみたいで、表情には怒りが浮かび上がった。
山崎の見た目は長身の爽やかなスポーツマンだけど、僕みたいな背の低い痩せた人間に仕事を押し付けるような陰険なところがあった。二年生になってクラスが変わってから、こうしてからまれている。理由は判然としない。知りたくもなかった。
「クラス委員の仕事だよ。資料作りだ。お前みたいな根暗な人間でもできるさ」
その言葉に取り巻きの人間たちは下卑た笑い声をあげた。追従するような笑いは聞いていて不愉快だった。
「分かったよ。どこに行けばいい?」
僕はなんでもない風に答えた。言外に君のしている嫌がらせはなんでもないんだよという態度を取ってみた。
周りの生徒は僕と山崎のやりとりを遠巻きに見ていた。要するに誰も助けてくれないのだった。まあ僕が排他的で、山崎がクラス委員に選ばれるほどの人気者だから、仕方がないんだけど。
「それは自分で探すんだな。ああそうだ。作業が遅れたらお前のせいにするから。分かったか?」
「分かったよ。それで構わない」
僕が比較的に素直に応じると、それも気に入らないのか「お前、生意気なんだよ」と詰め寄ってきた。
「いくらクラスで一番の成績だろうが、そんなの自慢にも何にもならないんだからな」
自慢したこともないのだけど、面倒くさくなったので「分かったよ」と繰り返すように言う。そして目を逸らした。
「てめえ、本当に生意気――」
「おーい、聡。久しぶりに一緒に帰ろうぜ」
さらに詰め寄ろうとしたときだった。教室の入り口のほうから、僕を呼ぶ声がした。
「ああ。あきらくん。久しぶりだね」
僕は半ば山崎を無視して手を挙げた。
「うん? また山崎、聡を虐めてたのか?」
そう言って近づいてくるあきらくん――近藤あきらは山崎を見下ろした。
山崎も大きいがあきらくんはもっと大きい。百九十センチもあるのだ。それに加えて柔道部に所属していて、筋肉質な身体つきをしている。髪をさっぱりとした短髪に整えていて、端整な顔つきで女子からの人気も高い。
あきらくんはスポーツ推薦で入学した数少ない特待生だった。
「あれ? 練習はどうしたの?」
「それが中止になったんだ。だから今日は道場のほうに顔を出す。それで、山崎、お前はまた聡を虐めていたのか?」
ぎろりと睨むあきらくんに怯むことなく、山崎は「暇そうにしていたんだ」と言う。
こういうところはいじめっ子らしくなく、潔いものだから、あきらくんも反応に困るんだよな。
「俺も部活で忙しいんだ。もうすぐ試合も近いからな。野球は一日のサボりがすぐ影響するんだ。だから俺の仕事をやってもらおうとしたんだ」
「てめえの仕事を押し付けてんじゃねーよ」
空気が凍りつく感覚。一触即発な状況に僕も山崎の取り巻きも動くことができない。
先に動いたのはあきらくんだった。
「これから聡は用事ができたんだ。他のヤツに仕事をやってもらえ。行こうぜ」
そう言ってあきらくんは僕に合図をした。僕はそれに従って、カバンを持って付いて行く。
後ろからは怒気を孕んだ視線が僕に突き刺さった。それに敵意があちらこちらから感じる。面倒くさいなあ。
「お前も嫌だって言えばいいじゃねえか」
ずんずんと前を歩くあきらくんに一生懸命歩幅を合わせながら、僕は「波風を立たせたくないんだよ」と言い訳をした。
「波風? お前が周りを気にするタチでもないだろうが」
正解だった。僕は別の角度から釈明してみる。
「僕が我慢すればクラスが平和になるんだ」
「それも嘘だな。お前は周りに関心を持っていないだろう」
それも正解。要するに僕は――
「めんどくさがり屋。無気力な人間。情熱を持たない人種。それがお前だよ」
流石、幼馴染で同じ釜の飯を食べた仲でもある。僕のことを理解してくれるのはあきらくん以外居ないだろう。
「もっとお前がやる気を出せば、周りも一目を置くと思うぜ」
「そんな面倒なことはしたくないよ」
「虐められるほうが面倒だと思うけどな」
あれはあれで面倒な人間関係を構築しなくていい利点もある。まあこれは言い訳というより強がりだけど。
「いいんだよ? 庇わなくても」
僕のこの発言にあきらくんは「馬鹿野郎」とほんの少しだけ怒った。
「お前を見捨てるわけないだろうが。それにしても船橋は何をして――」
「ああ、僕あそこに行くつもりだけど、あきらくんはどうする?」
船橋さんの話が出てきたので強引に流れを変えてみるとあきらくんは「いや、俺はいい」とすんなり断った。
「俺も大会が近いからな。道場で師範に鍛え直してもらわないと。それじゃあまた明日会おうぜ」
「うん。怪我に気をつけてね」
そう言って校門前で僕はたった一人の友人と別れた。
それから僕は高校近くのバス停でバスに乗って、高台を目指した。
ガタンゴトンと揺れるバス。この時間帯はそれなりに混んではいたけど、なんとか座れることができた。
僕はスマホを操作して義母さんにLINEを送った。少し帰りが遅くなるという内容を。
すぐには返事が来ないのは分かっていた。義母さんは忙しい人だから。
バスに乗って二十分。高台のふもとに着いた。夏の手前だからか、日はまだ明るかった。
僕は体力がないから、休み休みで高台を昇っていく。高台はちょっとした小さな山くらいの高さと道のりがあるのだ。
この高台はこの街の名所である十六夜湖の氾濫に備えたものだけど、区画整理が行なわれた今では、その役目を果たしていない。
その代わり、素敵なものがそこに残されていた。
高台の頂上に辿りついた僕の目の前に映っているのは、赤く染まった空と沈み行く夕日だった。
今日の天気が良かったおかげで美しく映えた黄昏が街を彩っていく。
そして十六夜湖の沈む夕日が何度みても綺麗だった。
この光景を見るのが、小さい頃から好きだった。生みの親に連れてもらってから、高校二年生になるまで、何度も見たけど、飽きることはなかった。
夕日だけではなく、高台にはタンポポが群生していて、まるで黄色い絨毯が敷き詰められているようだった。
緑色の木々が清々しい空気を運んでくれているようで、ここに居るだけで幸せになれる気分だった。
「……ふう」
溜息を吐いて、僕は高台に設置してあるベンチに腰掛けた。
こんなにも綺麗な景色を見ていると日常の煩わしい悩みがどこかに行ってしまいそうだった。
まあ気のせいだけどね。
「なんでみんな、仲良くできないのかな」
原因は分からないけど、山崎は僕のことを嫌いだし、もう一人のクラス委員の船橋さんも僕のことが嫌いだ。
だけど――自分から何かを変えようとは思わないんだ。あきらくんの言うとおりの人間だから、面倒くさがり屋だから、解決しようとしない。
「だから僕は駄目なんだなあ……」
声に出して言ってみると、自分の駄目さが際立ってくる。
自己嫌悪に沈んでいく。せっかくの綺麗な景色が台無しになって――
「……君も一人なの?」
か細い声。落ち葉のように軽く、枯れ枝のようにぽきりと折れてしまいそうな印象。
声のした方向に顔を向ける。
そこには一人の少女がこちらを見つめていた。
セーラー服に身を包んだ少女。黒髪をショートカットにしているのに、前髪だけが妙に長い。
だけどとても綺麗な顔が髪の間から見えていた。
背は僕と同じ。女子にしては背が高い部類に入る。
もう夏だというのに、袖が肌を隠すように大きく、スカートも今どきの学生にしては長かった。
そんな少女が僕に話しかけていた。
「……そうだけど、君も一人なの?」
変な子だなあと思いつつ、僕は答えてから質問を返した。
「うん。私も一人きり。あなたと一緒だね」
小さくて聞き取りづらいけど、不思議と通る声だった。まるで世界に雑音がなくなったような感覚。
少女は僕のほうに近づいて、何の躊躇もなく隣にすっと座った。僕は急な行動に対応できずに、座ることを許してしまった。
「……綺麗ね。ここは久しぶりに来たけど、変わってなくて安心した」
安心。今の時点ではこの言葉の意味、重みを十分に理解できていなかった。
「以前、ここに来たことあるの?」
僕が訊ねると少女はこくんと頷いた。
「そうなの。あの湖も懐かしい……」
十六夜湖を指差した少女。
愁いを含んだ横顔を見つめると、ぼくのほうも切なくなってくる。
「あなたの名前、教えてくれる?」
少女は脈絡もなく言葉を紡ぐ。訊きたいこと訊いているって感じだった。
「僕の名前は、田中聡だけど」
変な少女に自分の名前を言うのはどうかと思ったけど、つい答えてしまった。
「君の名前は?」
これもつい訊ねてしまった。
「私は、静。河野静」
そして少女――河野静は言う。
「一人きり同士、仲良くしない?」
こうして不思議な少女と僕は出会った。
出会ってしまったんだ。
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