第2話仲良くしたい気持ち

 僕は初対面の人間に「仲良くしない?」と言われて「分かりました」などと言えるような警戒心のない性格ではない。

 まあ天邪鬼でもないから「嫌です」とも言えなかった。断る勇気を持ち得ていないのだ。

 はっきり言って認めるのも断るのも面倒だった。

 だからしばらく黙って見つめ合ってしまった。僕は何も言えなかったんだ。


 少女――河野静の目を見つめてみる。ぱっちりと大きな目の形。深い漆黒の闇のように輝いている。

 河野静も僕の目を見つめている。何を想っているのか分からないけど、逸らしたら負けた気がして、離せなかった。


「ねえ。仲良くしてくれないの?」

 焦れてきたのか、再び河野静は僕に訊ねてきた。僕はようやく目を逸らして「いきなりそんなこと言われても……」と呟いた。


 すると河野静はまた僕の隣に座った。立っているのが疲れたのだろうか。

 そのまま、沈黙が流れる。それは居心地の悪い沈黙だった。

 まるで刑事ドラマに出てくる取調べを想起させる沈黙だった。僕は我慢強くないほうだから、すぐに耐えきれなくなった。


「どうして僕と仲良くなりたいんだい?」

 はぐらかしているつもりはなかった。というより当然の疑問だった。

 何の理由もないのに仲良くするなんて気味が悪い。不安で仕方がないのだ。

 同じクラスという理由でさえ、僕は『仲良くする』ことが苦手だったのだ。何の接点もない女の子と仲良くするのは勇気が要る。


「……理由がないと、仲良くしちゃいけないのかな?」

 河野静は僕の胸中を覗いたみたいなことを言った。僕はぎくりとした。

「理由なら、あるよ。私があなたと仲良くしたいから仲良くしてほしいの」

 まるで幼少期の友達の作り方だった。少年と大人の間の青年な僕にとってはちょっと気後れしてしまう言葉だった。


 青年というのなら、女の子に仲良くしてほしいと言われて喜びを感じない思春期の学生はなんていうか枯れている感じがする。

 それでも突然現れた不思議というより不気味と評したほうがいい女の子に対する正しい反応だとも取れるが。


「僕なんかと仲良くしても、メリットはないと思うけど」

 僕は河野静の顔を見ず、真っ直ぐ前を向いて、遠まわしに断ってみる。どんな言葉が返ってくるか、少しドキドキする。

 河野静は前髪を弄りながら、僕の横顔を見つめている。僕は目を合わせないようにした。


「……メリットがあるかどうかで、友達になるのは、おかしくないの?」

 ……案外鋭いことを言う河野静。

「損得で友達になるのはおかしいと思う。だって、友情ってお金で買えたりできるものじゃあないんだから」

 正論だった。それに上手いことを言われた感じもする。僕は驚いて河野静の顔を見た。


 その瞳は幼い子どもと呼べるくらい、純粋なものだった。赤く染まった唇は笑みを作らずに閉じられている。

「……君の言っていることは正しいよ。確かに友情はお金じゃ買えないよ」

 なんだか恥ずかしくなって、言い訳をするように言葉を紡ぐ僕。


「だけど僕の年齢になったら、損得勘定で動くしかないんだ。誰が僕にとって利益になるのか不利益になるのか。そう考えないと身動きが取れなくなっちゃうんだ」

「それはどうして?」

 河野静は不思議そうに僕に訊ねた。それはまるで方程式を初めてみた小学生みたいな表情だった。つまりは幼い知識欲を湛えていた。

 僕はそんな彼女になんて答えるべきか悩んだ挙句、本音で話すことにした。


「人と仲良くするってことは、選択するって事だろう? 例えばAって人間を好きになったら、Aのことが嫌いな人間、Bと仲良くしないってことにつながるわけだ。それが嫌なんだよ」


 例えを使わずに現実の話をするならば、あきらくんは僕と仲良くしているから、山崎を嫌っているのと一緒だったんだ。

「でも、私と仲良くして、誰かを嫌いになっちゃうこと、あるのかな?」

 当然の疑問を河野静は投げかけた。

「今は無いかもしれない。でもいずれそうなるんだよ。仲良くなってしまったら、必ずそうなるんだ」

 今まで生きていて、そうなると確信できていた。今までの人間関係からそう学べた。

「だからなるべく僕は友人を作らないと決めているんだ。人気者でいるよりは嫌われ者でいたほうが楽なんだよ」


 本音で語るのはいつ以来だろう。もしかして初めてかもしれない。こんな見ず知らずの女の子に話すのは傍から見れば滑稽に写るだろう。

 それでもどこか楽になれた気がした。錯覚かもしれないけど。


「今、なるべくって言ったの?」

「えっ? そうだね。言ったけど……」

「じゃあ友達は居るんでしょ?」

 詰問してくる河野静に僕は戸惑いながらも頷いた。


「一人くらいしか居ないけど、居ることは居る――」

「じゃあもう一人くらい居てもいいよね」

 いきなり強引になってきた河野静に僕は戸惑いどころか困惑してしまった。

 だからこんなことを訊いてしまったのだろう。


「どうして君は――友達を欲しがるんだ?」


 僕の質問に河野静は傷ついたような顔をした。その表情を見た僕も心が痛んだ。

「だって、私、友達が居ないから……」

 ずっと僕の顔を見ていたのに、その言葉がきっかけで目を伏せてしまった。


 その仕草に僕は可哀想だとか、同情してしまいそうだとか、自分と共感してしまいそうだとか、色んな想いが巡ってしまった。

 だけど同時に彼女のために何かしたいとは思わなかった。僕に何ができるっていうんだ? 友達の作り方でも教えればいいのか? それとも単純に友達になればいいのか?


 夕日が沈み、次第に辺りが暗くなっていく。空を見上げると星たちが輝こうとしている。

 もう帰らないといけなかった。けれど河野静の問題を解決しないといけなかった。


「なあ。本当に僕と仲良く――いや友達になりたいのか?」

 河野静は「うん……」と頷く。


 僕は諦めたように溜息を吐いた。もしここで断ってしまったら、ここに来るたびに後味の悪い気持ちになってしまう。この思い出の場所に嫌な気持ちを残してしまうのだ。

 それは勘弁したかった。避けてしまいたい気持ちで一杯になってしまう。


「分かった。友達になろう」


 受けるのも断るのも面倒ならば、少なくとも後味の悪いほうを避けたかった。

 自分本位な考え方だと思うけど、自己嫌悪をするほどでもない。


「……本当、なの?」

 驚いたように目を見開いた河野静。自分から言っておいてその反応はないだろう。

「ああ、友達になろう」

 友達になるといっても何をすればいいのか分からないけど、とりあえずはこの場を誤魔化しておきたかった。逃げるという言葉が相応しいけれど――


「……ありがとう」


 河野静は小さな声でお礼を言うと、すっと立ち上がって、それから何も言わずにその場を去ってしまう。

「……えっ? ちょっと――」

 僕の静止を呼びかける声を無視して早足で高台から逃げさるように降りていった。


「……なんなんだよ、一体」

 よく分からない少女だった。友達になろうと言っておいてあの態度はない。

 ……まあいいや。どうせ本気にすることもないだろう。この高台に僕が来れば偶然会うこともあるだろうが、そんな確率は低いだろう。いつも来ているわけじゃないし。


 しばらくぼんやりとしていたけど、そろそろ帰らないといけないと思い、カバンを持ってふもとまで降りていく。

 不思議と、学校で起こった嫌なことや煩わしい人間関係のことはすっかり頭から離れていった。


 家に帰ったのは門限ギリギリの時間だった。

「ただいま帰りました」

 そう言っても「おかえり」と返事がなかった。玄関に明かりが点いていないから、居ないとは思っていたけど。

 LINEで義母さんも義父さんも帰りが遅くなる、というより帰ってこないことは知っていたから、近くのスーパーで料理に使う材料を買っておいた。


 今日の夕食は冷しゃぶだ。豚を茹でて冷やすだけだから料理が得意ではない僕でも簡単にできる。

 テキトーに野菜を切って、盛り付けて、冷蔵庫にあった胡麻ダレをかければ完成だ。


「……いただきます」

 僕以外誰も居ない台所で黙々と食事をしているとなんだか虚しく感じる。

 テレビを点けてみても、虚しさは変わらない。くだらない芸人のつまらない漫才を見ながら、何が面白いのかを考察してみた。


 だけど、やっぱり答えは見つからなかった。

 僕の感受性の問題だろう。昔はもっと素直だったのに、どこで捻じ曲がってしまったのだろうか。


「まあ、原因は分かっているけどね」

 独り言を呟きながら僕は食器の後片付けをした。


 手を動かしながら僕は河野静のことを想った。彼女は高校生だろうか? それにしては見た目は幼い感じがした。もしかすると中学生かもしれない。

 制服を見てどこの学校か分かるほど、学校マニアの変態じゃないので、はっきりとは分からない。

 ネットで調べれば分かることだけど、そんな情熱を僕は持ち合わせていなかった。


 しかし今の段階で河野静のことを考えてもキリがない。そう思い直すと楽になった。僕の生活に入り込む異物でもあるまいし。

 もう一度会う可能性も高台に行くたびにあるかもしれないが、まあ会ってもテキトーに話せばいいだろう。


 だけど――不思議と話したい気持ちも湧き出てくる。あの神秘的な雰囲気の学生を見たのは短い人生の中で初めてだったのだ。

 話したくない気持ちと話したい気持ち。相反する感情が僕の中でせめぎあう不可思議な心象。まるでこれは――


「ま、気のせいだろうけど」

 結論を出さずにいられれば、それはそれで良いんだろう。そう思って、それからは考えずにお風呂に入ってから普通に就寝した。




 それから翌日のことだった。

 雲一つない良く晴れた日の朝。

 いつも通りの時間に登校して、教室に入ると、僕の席がなかった。


 正確に言うと机はあるけど椅子がなかった。

 どうしたものか。そう思っていると後ろから下品な笑い声が聞こえた。

 振り向くと山崎の取り巻きたちが僕を指差して笑っていた。

 おそらく山崎の指示だろう。まったく面倒くさいことをするものだ。


 僕はカバンを置かずに教室を飛び出した。するとひと際大きな笑い声が後ろから聞こえた。僕が帰ったと思い込んでいるようだ。

 多分、椅子は屋上にあるのだろうと思った。十字ヶ丘高校には空き教室がいくつかあるが、それは別の校舎にあるし、そんな面倒な場所に置くほど暇ではないだろう。


 となると置くべき場所は校庭か屋上に限られる。僕は屋上を選んだ。校庭だと目立つし、屋上は誰でも入れるし。

 屋上に来ると案の定、分かりやすいところに置いてあった。まったく、虐めというものはさっぱりとしたものじゃあないな。


 僕が椅子を教室に持ってくると取り巻きの生徒はびっくりしていた。まあこんなに早く見つけるとは思わなかったのだろう。

 取り巻きの中には当然だけど山崎も居た。僕が教室に入ると笑みを消して睨んでくる。


 僕が自分の席に椅子を置いて、そして座るとこっちに近づいてくる生徒が居た。

「あら。椅子を持ってどこに行ってたの?」

 嫌味たっぷりに分かりきったことを言うのは、もう一人のクラス委員の船橋涼子だった。

 茶色い髪をストレートに伸ばしていて、つり目で意地悪そうな表情をしている。背は僕より高い。


「椅子がなかったんだよ。だから取りに行ってた」

「椅子がないなんて、そんな馬鹿なことあるわけないじゃない」

 そう言ってクスクス笑った。本当に可笑しそうに笑っていた。

 僕はそれを無視して、カバンの中から教科書を取り出した。数学の教科書だ。

 そして今日の範囲の復習をし始める。


「……無視しないでほしいな。そういうところが気に入らないわ」

 何の反応もしない僕に苛立ちを覚えているみたいだ。うーん、反応したほうがいいのか、それとも反応しないほうがいいのか、悩ましいことだった。

 この場合は、一言言っておくべきだな。


「別に気に入らなかったら話しかけなければいいじゃん。馬鹿じゃないんだから、分かるでしょう」


 それが船橋さんの逆鱗に触れたらしい。かあっと頭に血が上るのを感じられた。

 右手を振り上げて、勢いよく僕の頬を叩いた。

 ぱあんと教室中に音が響いた。

 じんじんと痛む左頬を無視して僕は冷静に船橋さんを見上げた。

 怒りを込めた目で僕を睨んでいる。はあはあと肩で息をしている。

 頬を叩かれたのは生みの親以来だった。


 あまり、懐かしくは、なかった。

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