第9話デパートに行こう
十姉妹デパートは地方ローカルでありながらも豊富な品揃えや駅に近い立地から、多数の地元の人間たちに利用されている。
その多数の人間の一人である僕も少なからず利用している。本や服を買ったり、義母さんが遅く帰るときには惣菜を買ったりしている。はっきり言ってコンビニより安くて美味しい。
しかしあまり縁のない売り場というものも存在している。男性だったら女性用下着売り場だったり、独身男性だったら小学生用の文房具売り場だったり。
豊富な品揃えは百貨店の長所でもあるけど、短所でもある。『万人受け』する商店は大多数を尊重するけれど少数を軽視するきらいがあるのだ。
だから僕はこの売り場に来たことはなかった――
「お客様、こちらの浴衣はいかがですか?」
そう言って営業スマイルで対応してくれる女性店員さんに僕は作り笑顔で「えっと、それでいいです」と応じた。
手渡されたのは灰色で帯が水色のシンプルな浴衣だった。値段は一万円を超えていた。
「試着なさいますか?」
「えっと、支払いが済んだらそのまま着て出ることは可能ですか?」
「もちろん可能です。脱がれたお洋服を入れる袋をご用意いたしますか?」
「ああ、お願いします」
こういう気遣いが顧客を増やす要因になるんだろうなあと感心する。
僕は店員さんから目を離し、先ほどから別の店員さんと話し込んでいる河野ちゃんの様子を窺った。
年頃の女の子らしく、浴衣を選ぶのに時間がかかりそうな感じだった。河野ちゃんは少し変わっているけれど、そこらへんの感性は普通と変わらないらしい。
「それじゃあ着替える前に支払いをしていいですか?」
「はい。こちらのレジへどうぞ」
店員さんに案内されながら、どうしてこんな展開になったのか、思い返すことにした。
数時間前、河野ちゃんの約束どおり、僕は高台に来ていた。
河野ちゃんは夏休みなので制服ではなく私服だった。女子の服にはあまり詳しくないけれど、確か森ガールと呼ばれるファッションだった。丈が長く、袖も長かった。
僕はというと長袖のTシャツにデニムというシンプルな服装。無理しておしゃれする必要はないけど、なんだか気後れしてしまう。
「あ、田中くん。顔の包帯、取れたんだね」
取れたと言っても、まだ青痣は残っている。それでも人前には出られる程度なので外した。
「うん。まあね。鬱陶しかったから良かったよ。これで元通りだ」
「そうね。元通りのほうがいいよね」
何故か河野ちゃんはそこで悲しそうな顔した。理由は今の段階では分からなかった。
僕たちはいつものように高台のベンチに腰掛けた。ベンチの半分くらいは木陰になっていたから、僕は日向のほうに座った。河野ちゃんに日焼けさせるのは良くないと思う。
日向に座ると直射日光が当たって暑かった。夏だから当然だけど、我慢することにした。
「そういえば、なんだか街が騒がしいけど、何かあったのかな?」
僕は何気なく話題を振った。高台に来る前の駅では人がたくさん居て奇妙に思えたのだ。
「知らないの? 夏祭りがあるんだよ」
「夏祭り? ああ、もうそんな季節なんだね。だからたくさん人が居たんだ」
「うん。クラスの人たちが話してた。夏祭りがあるけど塾で行けないって」
クラスの『友達』じゃなくて『人たち』という言い方は、なんだか悲しく思えた。
「ふうん。そういえば河野ちゃんは塾に行ったりしないの?」
「塾に行かなくても家で勉強すればいいから、いいの」
一人で勉強できるタイプか。僕も塾に行かなくても良い環境に居たから気持ちは分かる。
「河野ちゃんは夏祭りに興味ないの?」
これは意図して訊いたわけじゃなかった。ただ会話の流れで訊いただけで他意はなかったんだ。
「興味がないわけじゃないけど、友達が――」
そこまで言っておいて、急に僕を見た。
「な、なんだい?」
「……田中くんは夏祭り嫌い?」
ここでもしも『夏祭り好き?』と訊かれたら「あまり好きではない」と答えたけど、嫌いかどうか問われたので、こう答えた。
「ううん。嫌いじゃないよ」
答えに満足したのか、河野ちゃんは立ち上がっていつもよりも少しだけ大きな声で言う。
まるで世界に宣言するように。
「田中くん、一緒に夏祭り行こうよ」
高校二年生まで生きてきて、女の子、それも年下の女の子に誘われる経験はなかったので、僕は動揺してしまった。
だから反射的に答えてしまう。
「えっ!? 別に良いけど――」
後悔すると思ったけど、意外とそんなことはなかった。むしろ胸がどきどきしてきた。
「ありがとう。それじゃあ行こうよ」
河野ちゃんはそういうと高台から降りようとする。僕は慌てて立ち上がり、河野ちゃんの後を追う。
「ど、どこに行くの? まだ夏祭りは始まらないんじゃないの?」
時計を見るとまだ午後三時半だった。
「行く前に準備しないといけないよ」
「準備? 何を準備するんだい?」
先を歩いていた河野ちゃんはくるりと振り返った。そして真剣な表情で言う。
「浴衣を買おうよ。夏祭りにはそれが必要だよ」
それはもっともだけど、いきなりだったから反対もできずに賛成してしまった。
それから僕たちは浴衣を買いに十姉妹デパートに向かった。
そして現在に至る。
しかし夏祭りに行くくらいで新しい浴衣を買おうだなんて、結構贅沢というか、裕福というか。
僕は一応お小遣いを月に三万ほど貰っている。ここから食費や好きなものを買えているのだ。
だから一万くらいの浴衣は買えないことはなかった。ほとんど浪費していないから、そのくらいの余裕はあった。
「これでお願いします」
「ありがとうございましたー」
会計を済ませて、浴衣とセットになっていた下駄に着替え終えて、しばらく河野ちゃんが選び終えるのを待っている。
「ねえ、田中くん。どっちが良いと思う?」
ぼうっとしていたら、河野ちゃんが二つの浴衣を持っていた。
右手に持っているのは水色の浴衣。
左手に持っているのは黒色の浴衣。
「この二つで迷っているの。どちらが似合うと思うかな?」
無表情でありながら悩む仕草を見せる河野ちゃんに僕は「どっちでも似合うけど」と前置きをしてから指差した。
「黒いほうが僕は好きかな。黒地に緋色が差していて綺麗に思えるよ」
こういう場合は誰かが選んであげたほうがいいと梅田先生が言っていた気がする。
「そう? ならそうするね。すみません、これを試着させてください」
そう言って店員さんと話す河野ちゃんを見送る。
「えっと、彼女さんですか?」
そう話しかけてきたのは先ほど接客してくれた店員さんだった。多分、暇を持て余しているのを見て、話しかけてくれたのだろう。
「いいえ。友達ですよ」
傍から見ればカップルに見えるのだろうか。そう考えても不思議と嫌悪感はなかった。
「友達ですか? じゃあこの後の夏祭りにはみんなで行くんですか?」
「いや、二人で行くんですよ」
そう言うと微笑ましいと言った顔で僕に訊ねてくる店員さん。
「二人きりで夏祭りですか? もしかして告白を考えていますか?」
……まあそのような想像されてもおかしくないけど。
「まだ知り合って間もないんですから、そこまでは考えていないです」
正直に話して気がついた。逆に言えば時間が経てばそのようなことがありえるかもしれないと言外に言っているようなものだ。
河野ちゃんに恋愛感情を持つことはない……そう思いたい。なんていうか、そういう感情を持つのは危うい感じがするのだ。
「そうですか。なら――」
店員さんが何かを言おうとしたときだった。
「田中くん、どうかな?」
声がしたほうを見ると、そこには浴衣に着替えた河野ちゃんが居た。
どこにでも居ない雰囲気を持っている河野ちゃんが普通の女の子のように思えるような空気感を醸し出している。
いや回りくどい言い方はよそう。とても似合っている。色白な河野ちゃんにはやはり黒が似合う。僕の見立てに狂いはなかった。
「……とても似合っているよ」
その台詞をさりげなく言うのに、僕はどれだけの労力を費やしたのかは語るまでもなかった。
「ありがとう。田中くんも似合っているよ。やっぱり細いから浴衣が似合うよ」
珍しく笑顔で言う河野ちゃん。浴衣を着てテンションが上っているのだろうか。
「会計は済んだかい?」
「うん。終わったよ。それじゃあもう行く?」
「そうしようか。屋台も早めに見たいしね」
僕たちはお世話になった店員さんたちにお礼を言って、着物売り場から立ち去った。
エスカレーターで下に降りながら、僕は河野ちゃんの後姿を見ていた。
まさかこんな展開になるとは思わなかった。てっきり河野ちゃんは夏祭りとか行かないタイプの人間だとばかり思っていたから。
「ねえ。田中くんは夏祭りは行く人なの?」
振り返って僕に訊ねる河野ちゃん。
「いや、行かなくなってしばらく経つなあ。多分小学校以来だと思う」
「夏祭りはあまり好きじゃないの?」
「誘ってくれる人が居ないからかな」
「……淋しいね、それ」
「……河野ちゃんは毎年行くのかな?」
僕の質問に河野ちゃんは目を伏せた。
「ううん。私も小学生のときしか行かなかった。だから久しぶりになるのかも」
なのに僕を誘ってくれるんだね。ありがとう。そう言えれば良かったけど、俯いた河野ちゃんの顔が少しだけ愁いを帯びていて、言えなかった。
「この街の夏祭りってどんなことやるのかな? 前に住んでいた街だと屋台しかなかったから楽しみだよ」
エスカレーターを降りてから、河野ちゃんはさっきの空気を払拭するように訊いてきた。
僕もあまり詳しくなかったけど、あきらくんと一緒に行ったときを思い出して言った。
「山車とか神輿とかが練り歩くんだ。特に山車は中に子どもや大人が乗って、太鼓や笛を鳴らしたりしているんだよ」
「そうなの? 結構賑やかなんだね」
賑やかというか騒がしいというか。
デパートを出るとむわっとした熱風が僕たちを包んだ。からっとしているから不快感はなかったけど、それでも暑いことに変わりなかった。
空を見上げる。徐々に暗くなってくる黄昏。だけど街が眠りにつくことはない。なぜなら祭りが始まるからだ。
「河野ちゃん、その前に駅に言ってロッカーに服を仕舞おうよ」
「そうね。そうしましょう」
僕たちは駅に向かって並んで歩いた。
からんころんと下駄だけが音を立てる。
ガラにもなく僕は緊張しているらしい。
店員さんとの会話を引きずっているみたいだった。
「ねえ。田中くん。ワガママ言ってごめん」
もうすぐ駅に着く頃に河野ちゃんが言う。
「ワガママ? 何のことだい?」
「いきなり夏祭り行こうって言って」
「別にワガママじゃないよ」
「でもさっきから黙ってる」
そう指摘されて、本当のことが言えない僕は何も言えなくなる。
「別に怒っているから黙っているわけじゃないよ」
ようやく僕は否定の言葉が言えた。
「何を話そうか悩んでいるだけなんだ」
「私と居ると気まずい?」
「ううん。むしろ落ち着くよ。そうじゃなければ高台に行ったりしないよ」
ストレートな言葉をそのまま伝えるのは気恥ずかしいけれど、今言わないと後悔するから言ってみる。
「落ち着く? 私と居ると?」
そうだよと言おうとして言えなかった。
「――田中くん?」
前から聞いたことのある声がした。
河野ちゃんから目線を外すと、そこには吉野ゆかりさんが居た。
浴衣姿で普段のボーイッシュなイメージよりは女の子らしい印象を受けた。
周りには数人の女友達が居た。
「ああ、吉野さん。久しぶりだね」
そう返すと今度は河野ちゃんが「田中くん、その人誰?」と訊ねてくる。
「この人は――」
「田中くん、その子誰?」
答える前に厳しい声で僕に訊ねる吉野さん。
あれ? なんだか不穏な空気が漂っている感じがしてならない。
「私は河野静。田中くんの友達です」
河野ちゃんはいつもの無表情で答えた。
「私は吉野ゆかり。田中くんの同級生です」
吉野さんは笑っているけど、笑っていなかった。
暑いはずなのに凍りつく空気の中、僕はどうして二人はいがみ合っているのか、必死に理由を求めていた。
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