第5話秘密の暴露
空から降りそそぐ陽光がプールの水に乱反射して眩しい。僕は日陰でぼんやりとクラスメイトが泳いでいるのを眺めていた。
学校指定のジャージで肌を露出していないから、日焼けすることがないけれど、やはり暑かった。
僕は水泳の授業は受けない。その代わりにレポートを書くことになる。そう言っても簡単な内容をテキトーに書けばいいので、そこまで難しくない。
普段だったらこんな風に見学はしなくて良かったけど、今学期最後の授業だから一度くらい見学しなさいと体育の先生に言われて、おとなしくプールサイドの横に備えられた屋根のところに座っていた。
僕の他には一人だけ女子生徒が居た。同じように座って、たまに寄ってくるクラスメイトに話しかけられていた。
僕には話しかけてくれる人がいないので、見学しているフリをしながら、昨日の会話を思い出していた。
あのとき――河野ちゃんは『自分がないの?』と言った。そして『それで生きているの?』とも言った。
言われてから気づいたけど、無気力とか面倒くさがり屋とか以前の問題かもしれない。
ようするに僕には自分がないんだ。自分というものがないから、虐められてもツライと思わないし、自分の成績も関心がないんだ。
それにとうとう気づいてしまった僕は一体どうすれば性格を改められるのだろう。
いや、元々無いものを改めることができない。一から創るしかないのだけど、その方法が分からないのだ。
しかし、普通に生きていれば自分なんてものは形成されるのに決まっている。だから河野ちゃんは『生きていない』と言ったのだ。
これは僕の想像だから河野ちゃんがそう思っているのか判然としないけど。
だけど生きているってどういうことなんだろうか。友達と一緒に遊んだり、恋人と愛を育んだり、家族と団欒したりすることが、生きているってことなんだろうか。
違う――と思ってしまう。人と関わらなくても、一人きりで生きていけるはずだ。それは仙人のような生き方をしなければならないけれど、それでも充実はしているだろう。
僕のたった一人の友達――河野ちゃんを含めると二人になってしまう――あきらくんは自分の『道』を極めるために毎日精進している。あきらくんの『道』とはどんなものか詳しく聞けなかったけど『最低限、人との関わりを保ちつつ、一人でも幸せに生きること』だった気がした。あきらくんは人気があるのにどうして世捨て人のように生きたいのだろう。
今度訊いてみようと思った。
それから、河野ちゃんは去り際にこんなことも言ったっけ。
『私も生きていない気がするの』
そう言って、河野ちゃんは人差し指で頬を掻いた。そして続けて言った。
『私と田中くん、似たもの同士だね』
それは違うよと言いたかった。僕なんかに似ていてもろくなことなんてないんだ。
梅田先生はやり直しが利くって言ってたけど、とっくの昔に取り返しのつかないくらいに壊れているんだ。
壊れて欠けて、だから動作不良を起こしているんだ。
案外虐めの理由はそこにあるのだと思う。人間は異物を取り除いて綺麗にしたい欲望があるのだから。
この場合の異物は僕なんだ。僕は悪くないと大きな声で叫びたいけど、そんなの何の説得力になりはしない。
だから僕は甘んじて虐めを受け入れている。何でも素直に聞く。どんな雑用を押し付けられても我慢しているんだ。
「えっと、田中くん? 大丈夫?」
そんなことをつらつら考えていると、不意に声をかけられた。
ハッとして声のするほうへ顔を向けると、心配そうに僕を見つめる女の子が居た。
同じように見学しているクラスメイトの女子だった。確か名前は吉野ゆかりさんだ。
髪はセミロング。女の子なんだけど、どことなく美少年を感じさせるような中性的な容姿をしていた。背は低め、声も少年のようだった。そういえばあきらくんから聞いたことがある。吉野さんは女子にモテるって。
そんな吉野さんは僕のほうを見ている。彼女は虐めに参加していない。一回だけ目が合ったことあるけど、可哀想だと思われている目線を感じたのが印象深い。
「うん。大丈夫だけど。どうかした?」
なるべく優しい声で答えると、吉野さんは「なんだか辛そうにしてたから、声をかけたんだ」と何かに言い訳するような感じだった。
「ありがとう。平気だよ」
「そっか。それなら良いんだ」
ハキハキとした受け答えに好感を抱く。これなら女子に人気が出るのも当然だと思う。
まあ僕は女子じゃないから良い人だなぐらいしか思わないけど。
「……ねえ。田中くん」
おずおずと吉野さんは切り出した。
「なんだい?」
「えっと、田中くんは、その……」
訊きづらいことを訊こうとしてるのは分かるけどはっきりと言ってほしかった。回りくどいのは面倒だから嫌いだった。
吉野さんは言葉を切って、深呼吸してから、意を決したように早口で言った。
「どうして田中くんは虐められているんだい? 何か理由があるのか?」
言葉遣いも男の子っぽいんだな。
「……虐められている人にそんなことは普通言わないと思うけど」
わざと意地悪な言い方で返すと吉野さんは顔を真っ赤にしてしまう。恥ずかしいとでも思ったのだろうか。
「えっと、ごめん……私の配慮が足らなかったね……」
悪いと思ったらすぐに反省する。それは美徳であると思う。
「いいんだよ。虐められているのは事実だからね」
この場合は笑顔で応じたほうがいいだろうと、にっこり微笑んでみると吉野さんは「そ、そうなんだね」と苦笑いした。
うーん、対応が間違ったかな?
ちょっと空気が固まってしまったのでほぐそうと話を戻してみる。
「理由か。それは分かるよ。まあ僕は悪くないけど、向こうも悪くないからね」
僕の発言に怪訝な表情をする吉野さん。
「それってどういうこと? 理由があるのなら、どちらかが悪いってことでしょ?」
「そうじゃないんだよ。まあ虐めを始めたほうが悪いっていうなら、山崎と船橋さんが悪いってことになるけどさ」
問題を複雑にしているのは僕のほうだけど、こればっかりは仕方がない。
吉野さんは眉をひそめた。
「よく分からないけど、ツラくないの?」
「ツラいけどさ。誰も助けてくれないんだからどうしようもないじゃない」
このかなり皮肉を込めた言葉に吉野さんは傷ついた表情を見せた。
「……ごめんね。良くないって思ってるけど、どうしようもなくて……」
吉野さんは悪くもないのに言い訳というか釈明というか、そんな言葉を口にする。
「別にいいよ。我慢すればいいんだから」
そっけなく言うと、吉野さんの目から涙みたいのがほんの少し流れ出た。
「私、今度みんなの前で言ってみるよ」
「そんなことしなくていいよ。虐めの標的にされちゃうよ」
僕は吉野さんとの会話に飽きていた。虐めを解決できるような人間に見えないし、むしろ悪化させるような気がしていたのだ。
「でも、そのままは良くないと思う」
吉野さんがそう言ったときだった。
僕のほうはなんて返事をすれば良いのか考えていた最中だった。
「おい田中。お前結構元気そうじゃないか」
僕の名前を呼びながら近づいてくる音。
僕は吉野さんから目を切って、近づいてくる人間に目を向けた。
そこには数名の取り巻きを引き連れた山崎の姿があった。
「吉野さんと結構面白そうな話をしているじゃあないか。俺も混ぜてくれよ」
横目で吉野さんをちらりと見ると顔色が真っ青になっている。体調が悪くなったのではないと分かっていた。
「嫌だよ。久しぶりにクラスメイトと会話してるんだから邪魔しないでよ」
わざと挑発して吉野さんから注目を外す。そうすれば虐めの対象にはならないだろう。
周りを見てみると、みんながこちらを見ている。体育の先生はどこだろう。
「相変わらず生意気だな。守山先生なら居ないぞ。用事ができたそうだ。時間になったら終わっていいそうだ」
職務怠慢だなあと頭の片隅で思った。
「だから――ここで何しようが誰にも見られることはないんだ」
残忍な笑みを見せる山崎にクスクス笑う取り巻きの生徒。
はあ。これじゃあどうしようもないな。
諦めてなすがままになろうとしたとき。
「やめなよ! 山崎くん!」
そう言って立ち上がったのは吉野さんだった。大きな声を出して僕の目の前に立ちふさがる。
「ああん? 吉野、お前そいつを庇うわけか? どうなるのか分かってるのか?」
「――っ! だけどこれ以上は、駄目だよ」
まさか庇われるとは思わなかった。
「なんで田中くんを虐めるんだい!?」
「なぜって、気に食わないからだ」
吉野さんの訴えに山崎はせせら笑った。
「自分が多少成績が良いからって調子に乗ってるし、こうして体育の授業を受けずに特別扱いされているしな」
そう言って山崎は吉野さんに退くように身振りで示した。
「いいよ。吉野さん。退いて」
僕はゆっくりと立ち上がった。吉野さんは可哀想なくらい、悲しそうな顔をしていた。
「田中くん、いいの?」
それに答えずに僕は山崎に向かい合った。
「まずは誤解を解いておこうかな」
僕は面倒だったが、山崎に向かい合わないといけないと思った。それは自分のためではなく、立ち向かってくれた吉野さんのためだった。庇ってくれた心意気に報いないといけなかった。
「誤解? 俺の言ったことが正しくないって言いたいのか?」
「そうだよ。君は間違っているよ」
僕は山崎の目を見据えた。
「僕は別に自分の成績が良いからって調子に乗ったことはないよ。成績なんてどうでもいいと思っている」
それから僕は『アレ』を見せるべきか迷っていたが、結局は見せないことにした。
「特別扱いされているのは、僕の身体が弱いからだよ。仕方がないから体育の授業を休んでいるんだよ。その代わりに僕はレポートを――」
「うぜえなあ。お前は」
イライラした声を出したのは山崎だった。
「お前はいつも上から目線で話しやがる。そういうところも気にいらねえ。不愉快極まりない!」
山崎は僕に近づいて胸ぐらを掴んだ。
「今まで手を出さなかったから安心しているだろうが、そうはいかねえ。お前が悪いんだからな」
山崎は右手を強く握って拳を作り、それを僕の顔面に叩き込んだ。
「きゃああああああ!!」
吉野さんの悲鳴が遠くのほうで聞こえた。
プールサイドに叩きつけられて、ようやく痛みが全身に走る。
何するんだ、痛いじゃないか。
そう言いたかったけど、声が出なかった。
山崎は僕の身体を持ち上げると、そのままプールに落とされた。
ざぶんとプールに沈んでいく。意識がないのに、危険だと思った――
「田中くん! しっかりして!」
一瞬気を失っていたらしく、いつの間にかプールサイドに横たわっていた。
目の前には髪の濡れた吉野さん。どうやら助けてくれたらしい。
「ありがとう、吉野さん……」
「田中くん!? 良かった……」
ほっとした表情を見せる吉野さん。
「ふん。今日はこのくらいにしてやるよ」
そう言って山崎が見下しているのが分かった。
僕は上体を起こして、ジャージを脱いだ。無意識の行動だった。濡れたジャージが不愉快に思ってしまったからだろう。
「田中くん、それって……」
吉野さんが僕の腕を指差していた。声も震えていた。
「うん? ああ、これ?」
僕は何でもないように言った。周りが僕に注視していることに気づいていた。
山崎の顔も驚愕に歪んでいた。
「火傷の痕だよ。全身に広がっているんだ」
醜く肌が爛れている。だから僕は体育に参加できなかった。どうしても肌を見せなければいけなかったから。この火傷のせいで運動ができなくなったから。
だけどもうどうでも良かった。こんなことをするクラスメイトに配慮することなんて何もないから。
「醜いでしょ。これって結構嫌なんだ」
吉野さんに微笑むと立ち上がって、歩き出す。出口のほうへ行くためだ。
誰も何も言わなかった。それが居心地悪く感じた。
とうとうバレてしまったと少し反省した。
じりじりと照りつける日光が気にいらない。
途中で船橋さんが見えた。
嫌悪感丸出しの表情が僕の心を苛む。
これからの学校生活がどうなるのか分からないけど、良くはならないだろうと予想できた。
はあ、面倒だなとぼんやり思った。
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