昼ご飯の肴 【音羽雅】

「ほい、お茶どーぞ」

「ありがとう……って、今は業務時間外だぞ」

「あ、すんません。つい癖で」


 社員食堂で広げられた愛妻弁当が周囲の視線を喰らう。主に独り身の。

 知らぬ間に敵を増やす霧島涼介に熱いほうじ茶を差し出すは、音羽おとばみやび22歳。新卒採用を軽やかに潜り抜けたイマドキ女子で、この一年は主にお茶汲みを生業としている。


「お茶汲み、嫌なら上に申し出るが」

「いやいや、なに言ってるんすか。8時間のうち3時間もお茶淹れてるのに普通にお賃金貰えるとか神でしょ? 新人のうちに経験積むとか、そういうのは意識高い人がやればいいっすから。先輩だって、適材適所ってよく言うっしょ?」


 音羽雅は現金なやつである。

 幼少期を極貧家庭で過ごし学校でも何かと不遇な目に遭ってきたとかそういう事情は一切なく、ただ少し贅沢な生活を送るためだけに、大学時代には夜の蝶として活躍していた。

 その面影は、薄化粧を着て輝く美貌や、ぴっちりビジネススーツからこんにちはするずっしり質量を持つ肌色に色濃く残っている。ボタンが留まっていないのは、留めないのか留まらないのか。


「おい、胸隠せよ」

「いーじゃないっすか減るもんじゃないし。スーツがキツいんすよ。お昼休みくらい楽にさせてくださいよー」


 持つ者と持たざる者は互いに相容れぬものだが、持つパートナーを持つお陰で、霧島涼介はその辺りの事情には時に同姓より詳しかった。その知識量は、事情を知らぬ者が聞けば5メートルは距離を置くほど。


「全く……その格好でうろつくんじゃないぞ」

「さっすが先輩! 話がわかるぅー」


 うろつくなという命令通り、音羽雅は盆と質量を机に預けて座る。10を超えるほうじ茶のお茶請けはコンビニ弁当。音羽雅もまた独り身の一人だった。


「あ、そうそう。クリスマス会来ませんよね?」

「来ないと思うなら聞くんじゃない」

「一応っすよ一応。言質だけ取っとこうと思って」

「確かに確認は必要だな。言い方キツくて悪い」

「謝ることないっすよー! ビンゴの相手が減ってラッキーっすわ」

「現金なやつだな」

「アタシ、リアリストっすから!」

「リアリストのお前に聞きたいんだが、プレゼント、なにがいいと思う?」

「くれるんすか?」

「あいつのだ。貰い慣れてるだろ?」

「金目のものならなんでも嬉しいっすよ。金になるんで」

「質屋に行く前提で考えるんじゃない」

「一番ロスが少ないのは現金っすね」

「聞く相手を間違えたらしい」

「冗談っすよー。結局、アタシがどうこう言うより、先輩が自分で考えたものの方が彼女も嬉しいんじゃないっすか?」

「それもそうか」


 男女二人が水入らずの会話、傍から見ればカップルのよう。愛妻弁当とコンビニ弁当という格差、そして大量のほうじ茶が隣にあることを除く。


「旨そうなお弁当っすね。卵焼きひとつください」

「駄目だ」

「ケチケチしないでくださいよぅ。ふたつもあるんだしいいじゃないっすかー」

「この弁当を作るために、あいつがどれだけ早起きしたと思ってる。今日も4時間しか寝てないんだぞ」

「先輩が早く寝かせてあげないからっしょ?」

「……とにかく、駄目なものは駄目だ」

「あは、図星だー。先輩、いっつも性欲満たされてそうな顔してますもんね」

「どんな顔だ」

「後輩のおっぱいに興味はないけど、目のやり場には困ってる顔?」


 図星である。

 欲求不満と無縁の生活を送るが故に、夜の蝶の面影を今も纏い続ける音羽雅にも動じない。 霧島涼介に自覚はない。


「彼氏に尽くして、体の相性もバッチリで、いい彼女じゃないっすか。なんでまだ結婚してないんすか?」


 音羽雅は素朴な疑問のように尋ねた。


「結婚となると、いろいろ考えるべきこともある。今すぐに、というわけにもいかないし、急ぐこともない」


 朝霧美晴は霧島涼介の彼女であって妻ではない。

 霧島涼介にとっては些細な差異。


「ふーん。まあ、好きにすればいいと思いますけどね」


 ずずず、とほうじ茶を一口。飲み口に薄く紅がついている。


「けどあんまり悠長にしてると、、見つかっちゃうかもしれませんよ?」


 意味ありげな発言に、意味ありげな声質に、意味ありげな微笑みのセットだった。


「どういう意味だ」

「だって先輩の彼女、先輩には勿体ないじゃないっすか。先輩くらいのスペックなら、精々アタシでトントンっすよ」

「音羽」

「なんなら1回デートでもしてみます? 先輩がどんだけ恵まれてるか、これでもかって思い知らせ――」

「おい、音羽」


 語気は強いが怒っている雰囲気でもなく、実際そこまで深く考えていない。


「自分を悪く言うもんじゃない。お前と釣り合うなら、相当だろうさ」


 が。特別意識したわけでもない、軽いフォローのつもりで付け加えた一言は、反芻すると絶妙に重い。

 ボディブローのようにじわじわと押し寄せる気恥ずかしさと狙ったかのような沈黙に、霧島涼介は目のやり場に困る。


「なーに自分で照れてるんすか」

「いや……流石に今のはキザだった。忘れてくれ」

「一生忘れねーっすから。素敵なお言葉ありがとうございます、先輩」


 顔を見ていないせいで、音羽雅の頬がほんのり染まっていることにも気づかない。霧島涼介の後ろで音羽雅の美貌に魅了された野次馬が群れを成しているが、それにも気づかない。鈍感なのは主人公の条件である。


「お礼に一回ヤっときます?」

「先約があるもんでな。お前もいい人探してこい」

「ちぇー。先輩なら安くしとくのに」

「金取る気かよ」

「パートナー持ち相手なら、金のせいにした方が後腐れないんすよ」

「リアルに聞こえてくるからやめろ」

「アタシ、リアリストっすからね」

「……おっと、話してたらもうこんな時間か。お前も早めに戻れよ」

「はいはい。戻ったところでどーせお茶汲みっすけどねー」


 慌てて解散する野次馬たち。霧島涼介は、今日は混んでるなとしか思わなかった。



 音羽雅はボタンを留め、すっかり冷めたほうじ茶を飲みながら呟く。


「今回も進展なし、と」


 武器を仕舞った夜の蝶、リアリストは略奪愛の夢を見る。

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