朝霧美晴は結婚したい!!!
井戸
ただいまの儀式 【朝霧美晴】
ガムを銀紙で包み、鍵とドアノブを続けざまに捻る。
「ただい……」
「おっかえりー!!」
ドドドドドドド、轟音響かせ現れたるは、
「ご飯にする!? お風呂にする!? それともそれとも、結婚するー!!」
スーパーにハイなテンション、出会った当初はたまに煩わしく思うこともあった。だが今はどうか。ドアを開けるまではげっそりとやせ細り、明日どうすれば都合よく休みが取れるか、あるいは会社に隕石を落とせるかなどと考えていた。朝昼二度の食事と上司からの
底抜けに明るい彼女の笑顔。そしてそれが自分に向けられた、自分だけのものだという事実。気力どころか体力さえ湧いてこようというものだ。近隣の住人は全て引っ越した。
「お前が欲しい」
「はふっ?」
オリジナリティに溢れた効果音が、薄く紅の塗られた唇から躍り出る。
霧島涼介は理解していた。自分から動かねばならぬと。朝霧美晴がこの胸に飛び込めば最後、今まさに閉まろうかと動くドアに脊髄か後頭部がやられることとなろう。バスケ部の出、筋力にも体幹にも自信はあるが、ロスタイム込みで絶対絶命フルスロットルを超えた今、人並みの身長に人並みの体格に人並みならぬ胸囲を持つ彼女の全体重を受けきれるはずもない。
なによりも。激務の中、むしろ忙しくなればなるほど、朝霧美晴の笑顔を、朝霧美晴の元気な声を、朝霧美晴に赤子のように甘える自分を頭の片隅に強く思い描いていた。乳酸が溜まる勢いで脳を酷使した今、我慢という選択肢も我慢を選ぶ理性も残っていなかった。
放り投げそうになったビジネスバッグに弁当箱が入っていることを寸前で思い出し、何事もなかったかのように足元に置く。キラキラ輝く目が、はやく、はやくと口ほどにものを言う。大きく開き待ち構える腕はメシアのよう。全てを委ねてしまいたい衝動を抑え、汗と埃に塗れたスーツを叩いた。
必要な儀式を全て終えて、背と首の後ろに手を回す。
そして、夢を叶えた。
他の全てを忘れ、没頭。至福の時間を共にする。
たっぷり堪能して、名残惜しそうに離れるところまで一緒だ。
「リョウくん、明日も仕事だもんね。よし、ご飯食べよっか!」
「ビーフシチュー?」
「ひゅい!? なんでわかったのっ!?」
「そういう味だったから」
「わわ、すごい! ほんの一口味見しただけなのにー!」
それすなわち、終電帰りのこの刻まで食事を採らずに待っていてくれたということ。まだ籍を入れていないのが不思議でならない。
「遅くなるって聞いたから、じっくりコトコト煮込んでたんだ! とろとろお肉、美味しいぞー」
「煮込んでたって、何時間も?」
「えへへー。偉いでしょ!」
褒めて褒めてと、尻尾があったら扇風機がごとく振り回していただろう。さらさらのロングヘアに手を滑らせると、目を閉じて心地よさそうにしている。歳は3つ上だが、どこまでも可愛いひとである。
「ありがとな、美晴。俺のためにいろいろと」
「ふふふ。それはお互いさまでしょ?」
もう一度、今度は軽く触れる。くちゅ、とみずみずしい音。
不意打ちに心臓が跳ねる。まるで恋を知らなかった頃のように。
「涼介のは、ガムの味。キシリトールがたっぷり入った、爽やかな味」
ぎゅ、と。当初の想定よりだいぶ緩やかな速度で、朝霧美晴が霧島涼介の体を包み込む。
「ありがとうね。疲れてるのに大事にしてくれて。そういうところも大好きだよ」
労わるように優しく這う指が、妙に艶めかしくて、溺れそうになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます