出会いの思い出④【朝霧美晴】

「おっ待たせー!」


 飾り気のない鍋を持参した花柄鍋掴みで寝室に運ぶ朝霧美晴。言いつけ通りベッドで横になる霧島涼介が上体を起こした。


「別に、冷凍食品とかで良かったのに」

「ひねくれ者めー。はい、お口あーんして」

「自分で食べられますよ」

「いいから! 安静にしてなさい! こういうシチュエーションやってみたかったんだー」


 暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏。どうにもならないことはどうにもならないと相場が決まっている。

 湯気の立つレンゲをふーふー冷ます朝霧美晴。その様子を冷めた目で見つめる高熱の霧島涼介。ニコッと笑う顔に温度差を感じつつ、口元へ運ばれたレンゲを口にする。


「どう?」


 じんわりと広がる出汁の旨味が卵と米の甘味を包み込む、優しくもしっかりとした味わい。

 咀嚼を必要としない一口を驚きのまま飲み込んでしまう。今日初めて眉間のしわが取れ緊張の緩んだ霧島涼介を見て、ほっぺたが落ちるとはこういうことかと朝霧美晴は納得した。

 二口めはゆっくり噛み締めるように。米と卵のシンプルな組み合わせに、てろてろに溶けた刻みねぎのアクセント。飽きのこない味。文句なしに、今までに食べたどんなお粥より遥かに美味しい。

 一口ごとに冷まさねばならない、ほんの僅かなロスタイムがもどかしい。


「先輩、本当に料理できたんですね」

「ふっふーん! どうだ参ったかー! 物理的にほっぺた落ちたかー!」


 豊満な胸を張る朝霧美晴。しばらく夢中で食べ進めていた霧島涼介だったが、急に目を伏せた。


「ん、どした? 顔色悪いよ?」

「そりゃあ、体調不良ですからね」


 霧島涼介の視線は半分以上食べ終わった鍋へ。


「……約束、こんな形で使っちゃって……どうせならもっと普通の料理食べてみたかったなって」


 ツンのデレ添え! 朝霧美晴のテンションはうなぎのぼり。馬の耳に念仏は通用しないが褒め言葉は聞こえる。朝霧美晴にブレーキはないがアクセルはある。


「なんだそんなことかよー! 可愛いやつめ! いいよいいよ、なんでも何度でも作っちゃうよー! 1人で食べきれない量作るの楽しいんだよね!」

「ありがとうございます」


 さながら牙の抜けた野獣。翼の折れた猛禽。高熱で寝込む好青年。

 好感度のインフレが進みすぎている気がして逆にスピードを落とす朝霧美晴。ブレーキはなくともアクセルを離せば少しずつ減速する。


「普段もこれくらい素直になればいいのにー。お堅すぎても大変でしょ?」

「だって、給料貰ってるんだから、仕事はこなさないと……」


 少し冷静さを取り戻した朝霧美晴。どうせならと流れに任せて聞きにくいことを質問することにした。


「不思議な巡り合わせだなー。なんできみみたいな真面目くんがウチみたいなゆるゆる会社に入ってきちゃったの?」

「ここしか受からなかった……っていうか、受けられなかったんですよ。就職活動……企業研究とかインターンとか、県外に泊まったり……頑張ってたんですけど……倒れちゃって……家飛び出して一人暮らしで、バイトで学費と生活費稼いで……体のこともお金のことも、元々ギリギリだったのが完全に回らなくなって……」


 錨をずるずると引き上げるがごとく、重たい記憶を引き出していく。どれほど辛い思いをしたのだろう。話すのは事情ばかりで、感情は一言も喋らないけれど。


「今のキミと似た感じだ?」

「……まあ、そうですね」

「そっかあ。もし私と逢うのがもう少し早かったら、なにか変わってたかもしれないのにね!」

「そう……ですね」


 冗談のつもりが真に受けてしまったらしく、遠くを見つめてifの世界に思いを馳せている。どこまでも真面目な子だなあ、と、そんな彼がなんだか愛しく思えてしまう。


「ねえ。キスしていい?」

「…………はい?」


 蔑むような細く鋭い目ばかり見てきたので、目を丸くする彼は新鮮だ。きょとん、という顔はなるほどこういう顔なのだ。


「キミみたいな偉い子はね、ちゃんと報われなきゃダメなんだよ。頑張ったら頑張った分だけ報われないと、誰も頑張らなくなっちゃうもん。でも、神様は世界をそういう風には作らなかったんだよね」

「……いや……なにを言って……?」

「だから、キスしていい? いいよね?」


 霧島涼介に朝霧美晴の影が重なる。

 咄嗟にガードしようと出た手が胸に触れそうになり、どうにか避けて肩を押し止める。筋金入りの真面目くんだなあと、朝霧美晴は目を細めた。


「だ、駄目ですって。俺、体調悪いし……菌とか伝染るから……」

「もう、そういうの抜きで! 据え膳食わぬはなんとやら! いいから唇を貸せい!」


 紳士的なのはいいことだけれど、いい加減焦れったくなってきた。


「それとも、私のこと嫌い? 顔もおっぱいもいい方だと思うんだけど、身長高い子は対象外?」

「嫌いなわけ……ないじゃないですか」


 絞り出すような、彼には珍しく弱々しい声だった。


「ずるいじゃないですか。身も心も弱ってる時に、こんなに優しくされて……好きにならない方がどうかしてる……断れるわけないじゃないですか!」


 初めて感情を爆発させた彼は今にも泣きだしそうで。そんな彼の様子が、かえって微笑ましく思えてしまう。


「ずるい、かあ。確かにずるいねえ。キミみたいないい人を、早いもの勝ちで独り占めなんて、ずるいよねえ」

「そういう話をしてるんじゃ……」

「じゃあこうしよう。もし他にキミに好きな人ができたら、もしくは他にキミを好きな人が現れたら、その時は絶対に拒まない。キミが選ぶ人ならきっといい人だし、キミを選ぶ人なら見る目があるってことだもんね」


 呆気に取られつつも、熱で火照った頭を必死に動かして、なにかを深く考えていた。

 やがて、どこか不安そうに口を開く。


「先輩は良いんですか、それで?」

「うん。キミはいい人だから、みんなで共有しないと世界の損失だもんね!」


 この期に及んでこっちの心配だなんて、逆に心配になってしまう。


「もちろん結婚したくなったらいつでもいいからね! 私、将来の夢はお嫁さんなんだ!」


 やれやれとため息をつく彼に、もう一度迫る。


「だから、今だけは、私だけのものになってくれない?」


 吐息を直に感じる距離で、彼の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「……ずるいって言ってるのに」

「ずるくてもいいよ。キミを独り占めできるなら」


 彼が瞳を閉じたのを合図に、ようやく口づけを交わす。重ねた唇から彼の気持ちが伝わってくる。

 遠慮がちで控えめ。決して自分から踏み込もうとはしない、優しさと焦れったさの混ざり合う初心なキス。

 理解の追いつかない展開に動揺しながらも、今後の社内での身の振る舞いとか、状況に流されてしまった自分を責めたりとか、難しいことばかり考えている。


 腰が引けている彼のうなじに手のひらを添わせる。子供を寝かしつける母親のように。

 もっと深く彼に感じて欲しい。

 もっと深く彼を感じたい。

 ベッドに足を乗せて、彼の隣で横になる。体をくっつけると、弱った身体に籠る体温を近くに感じてぽかぽかする。

 彼の匂いが染み付いた布団ごと、されるがままの彼を抱きしめた。




「世界中みんなが幸せになる方法があればいいのにね。でも、お腹が空かないとご飯を食べなくなっちゃうから、毎日お腹が空くんだろうね」


 何も言わずにそっぽを向いた霧島涼介の頭を撫でながら、その背に話しかける。

 たどたどしいけれどこちらを拒まない態度は、嫌われたからじゃなくて、嫌われたくないから。顔を見せないのも照れ隠しだ。なんとなく、そんな確信があった。

 けれどもさすがに強引すぎたかなあと、朝霧美晴は珍しく反省していた。あまりにも彼の優しさにつけ込みすぎたと。


「地球のみんなを幸せにするのは無理でも、半径1メートルくらいなら、手が届くかなって」


 いつか、この薬指に愛の証が貰える日を夢見ながら、朝霧美晴は霧島涼介を撫で続ける。


「……あの」

「ん?」

「胸……ずっと前から当たってるんですけど……」


 なにを今更。

 なるほどどうやら私はきょとんという顔をしているらしい。


「嫌?」

「いや……」

「ならいいじゃーん! ぎゅー!!」


 彼の頬が赤いのは、熱のせいか、それとも。


「先輩、他の男にもこういうことするんですか?」

「ううん。君だけだよ! キミみたいな優しい人じゃなかったら、今頃どうなってたかわかんないねー」

「自覚あるなら……はあ……なんでもないです」


 わしゃわしゃと、まるで犬と飼い主のような豪快なスキンシップ。朝霧美晴の辞書に遠慮という言葉はない。



「俺の手も、届きますか?」


 環境音にかき消されそうなほど小さな呟き。


「届いてるよ」


 手を止め、彼の気持ちに応えた。




 その日、恋の駆け引きも愛の告白もなく、彼と私は男女の関係を築き始めた。

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