湯煙の秘め事 後編③ 【朝霧美晴・音羽雅】

「それじゃ、電気消すよー」


 テレビゲームとボードゲームとカードゲームをひとしきり遊び倒し、気づけばよいこは寝る時間。

 朝霧美晴が今や過去の遺産になりつつある伝統の電灯の紐を引くと、部屋の明かりはゲーム機の充電ランプとスマホを残すのみ。


「そーいや、卓球とかやらなかったっすね。浴衣で女子といえばの必須イベントなのに」

「その裾じゃ無理だろ。それに、あまり激しく動かすと痛いって聞いてるが」

「あー、その辺の知識は美晴さん仕込みだったんすね。妙に詳しいと思ったら」

「うん! きっちり仕込んだからね!!」

「うわー意味深」

「まあ、それはともかく」


 電気を消す役目を終えたので、朝霧美晴は霧島涼介の待つ布団の中へ180cmの大きな体を潜り込ませている。


「音羽、どうした? 入らないのか?」


 対し、音羽雅は枕元でなにやらぽちぽちやっている。クッキーを焼いているようだ。


「……やっぱり、アタシは畳で――」

「なら、布団貰ってくる」


 のっそりと180cmの体を這わせ、脱出を試みる霧島涼介。


「わー! 雅ちゃん、リョウくん押さえて! 横からぎゅっと! 柔らかいもので顔を押さえつけられると大人しくなるらしい!!」

「嫌ならいいんだ。無理しなくていい」


 珍しく茶々を無視する霧島涼介。男らしくも気配りを忘れない対応だ。


「嫌なわけ、ないじゃないっすか」

「そうか。なら――」

「なんで……そんな言い方するんすか……」


 記憶に新しい声だった。

 大抵のことはサバサバと切り返し、平然と下ネタを放り投げる音羽雅の、霧島涼介が今日まで知らなかった表情。


「お、音羽! すまん。悪かった」

「悪かった、って、なんで泣いてるかもわからないくせに」

「そ……それは……」


 霧島涼介の数少ない欠点のひとつ、それは女心が読めないこと。

 基本的に善良で良心的で気が利くタイプなのだが、心の機微、とりわけ他人の恋愛感情を探知する機能が完全にショートしている。そうでなければとっくに音羽雅の好意に勘づいただろう。


「二人の邪魔にならないかなって、今も不安で仕方ないんすよ。明日からどんな顔して会えばいいのかって、今もずっと悩んでるんすよ」

「……そうだな。今日は、いろいろありすぎた」

「頭のなかぐちゃぐちゃで、もうわけわかんなくて……おかしくなりそうなんすよ……せっかく、認めてもらえたのに……今日死んでもいいってくらい、楽しかったのに……」


 電子機器が手を離れ、裏向きで着地する。その上から、雫がぽたり、ぽたりと。


 薄明かりのなか。

 そっと、肩に手を添える。怯えたようにびくりと跳ねる。もう片方の手で手をとる。きゅっ、と弱々しくも確実に握り返される。


「俺も、未だに信じられないよ」


 肩から髪へ。優しく髪を撫でながら、自分の懐へ誘導する。


「あれだけ会社で惚気話を披露してたのに、誰がどう考えても脈無しだろうに、一途に想い続けてくれたひとがいるなんて。それも、音羽ほどの女性が、選ぼうと思えばいくらでも選べる立場の女性が」

「……それは、あのとき聞いたっす」


 自分の浴衣に涙を吸わせながら、霧島涼介は本心を述べる。上っ面ではない本気の言葉を。


「そして、なにより。美晴以外の女性に気持ちを伝えられて、自分がこんなに嬉しく感じていることが、今も信じられない」


 上っ面を取り繕うなら、絶対に出てこないことばだった。


「……どういう、意味っすか?」

「そのままだよ。今まで、美晴以外の女性に魅力を感じたことなんて一度もなかった。美晴さえいればあとはどうでもいいとさえ考えていた。なのに、今は、音羽を泣かせたくないと、嫌わないでほしいと、失いたくないと、本気でそう思っている」


 あまりのことに、音羽雅は言葉を失った。


「覚悟しておけよ。絶対に逃がさないからな。いいや、逃げられないようにしてやる」

「わー大変だ! 雅ちゃん、逃げるなら今のうちだって! じゃないとリョウくんに幸せ中毒にされちゃう! リョウくん依存症になっちゃう!!」

「人を違法ドラッグみたいに言うんじゃない」

「うん! リョウくんは合法ドラッグだもんね!」

「直すのはそこじゃない」


 大胆な告白の後だというのに、この二人は変わらぬ調子。

 変わらないことが、なによりも嬉しかった。許されないと自分で巻いた鎖の束を、二人の方から引き千切ってくれた。


「もう、なってるっすよ」

「ん、なにか言ったか?」

「なんでもねーです。このおっぱい星人」

「否定はしない。が、誰でもいいってわけじゃない」

「アタシのは?」

「……言わせるな」


 胸に顔を埋める。筋肉の詰まった男らしい胸板だ。上半身全体で、霧島涼介の体温を感じる。


 ドラッグというものは、一度でも味わえば後には退けなくなるものだ。今日一日で既に堪能してしまった自分には、もう後戻りはできない。

 それでもいいと、ぼんやり思う。



「一件落着したところでリョウくん。こっちの一件になにかフォローは?」

「あー、すまん。一途ではないかもしれないが、美晴のことも本気で愛してる」

「ほんとに?」

「疑ってるのか?」

「まっさかー。リョウくんは昔からそういう人だったよ」


 霧島涼介は露骨に嫌そうな顔をした。暗くて見えづらいが、それでも視認できるくらい露骨だった。


「どういう意味だ。頻繁に他の女に目移りするような、ってことか?」


 暗がりのなか、首を横に振る朝霧美晴。長い髪がさらさらと天の川のように流れる。


「不器用なくらい、真面目で正直。嘘はつかないつけない許さない。涼介は昔からそうだったよ。誠実に伝えたら、誠実に応えてくれるし。でも、ちょっとでも裏があったら、すぐに見抜いて突き放すの。真面目なぶん、その辺シビアだよね、涼介は」

「……そうか?」

「うん。正義は正義、悪は悪。悪いこと考えてたり、なにかやらかして隠そうとすると、すんごい目をするんだよね。悪人は目で殺す!」

「『目で殺す』は、悩殺する、魅了するって意味だろ。わざわざややこしくするんじゃない」

「よーするに。その涼介が真っ正面から受け止めたんだから、私は安心して雅ちゃんを信頼できる、ってこと」


 朝霧美晴の眩しい笑顔は暗がりでも顕在だ。


「幸せになろうね! リョウくん! 雅ちゃん!」




「……先輩、もうちょいそっち寄れません?」

「雅ちゃん、これ無理だね! うん! どう頑張ってもはみ出るね!!」

「だから言ったろ……」

「先輩は美女二人に挟まれてる上に暖かいんだからいいでしょ。暖房のおかげで寒くはないけど、寝返り打った瞬間に出るっすね」

「これは上下で重なるしかないかな?」

「流石に二人分の体重は支えられんぞ」

「なんで下なんすか。……アタシとしたことが、先輩のガタイがいいのを忘れてたっす。あれだけ抱き心地を想像してたのに」

「どんな想像だ」

「うるさいっすよ。えい」

「わぷ!?」

「……おー、ほんとに大人しくなった」

「雅ちゃん、筋がいいね。すぐにリョウくんを飼えるようになるよ」

「先輩も男だったんすね」

「男は⚪袋を掴めって言うしね!」

「胃袋でしょ。美晴さん、たまに下ネタえげつないっすね」

「リョウくんには内緒ね!」

「内緒もなにも、真下にいるんすよね」

「ぷはっ、音羽! 危うく窒息するところだったぞ」

「あ、忘れてたっす。すんません」

「まったく……ほら。腕貸してやる」

「わーい! 腕枕ー! 私、腕枕だーいすき!!」

「これなら事故で溺れ死ぬことはないだろ。音羽も、遠慮するな」

「うっす。……あ、これすげー……贅沢だ」

「贅沢?」

「体温とか、匂いとか、脈とか、全部感じる……ひゃっ! 動いた!」

「腕だからな。この体勢だと、軽く撫でてやるくらいしかできないが」

「あっずるい! リョウくん私も!」

「ほら」

「……えへへー。なんだかぽわーってしてくるね」

「落ち着く……あー、急に眠くなってきました」

「おやすみ。美晴。音羽」

「おやすみー」

「おやすみなさい、先輩」



 三人の人生史に残る波乱万丈の一日は、こうして終わりを迎えた。

 そして、三人で迎える初めての朝がやってくる。

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