湯煙の秘め事 後編④ 【音羽雅】

 暖かい布団の中で目を覚ました。

 ぽわぽわと微睡む意識の中で、いつもと違う硬い感触を首元に。すりすり、すべすべの肌をその手で撫でて、ようやく昨日のことを思い出した。ついでに、それより過去のことも。


 誰かと同じ布団で朝を迎えるのは、いつぶりだろう。

 高校で家を出て以来、ずっと一人で暮らしてきた。恵まれた容姿のおかげもあり、仕事にもお金にも困ったことはない。毎月、貧乏性の自分にはとても使いきれない額の収入があった。確定申告で引かれるのは勿体ないけれど、通帳の数字を増やすこと以外に使いみちがあるわけでもなかった。

 だからか、大学を出ても、稼ぐことには興味が湧かなかった。今の職場を選んだのも、ゆるい仕事とゆるい社風を兼ね備えていたからだ。適当に仕事して、適当に遊んで、なんとなくいい感じの人生を送れれば、他に望むものは特になかった。


 だから、思いもしなかった。

 そんなゆるい動機で入った会社で、自分が誰かに本気の恋をするなんて。



 肩で顔を持ち上げて、顔を覗き込んでみた。いつも気難しそうで近寄りがたい顔をしていても、寝ているときはかわいいものだ。

 いつまで呑気に寝ているのだろう。私の経歴は知っているはずなのに。それとも、そういう意思表示のつもりだろうか。

 無防備な頬に優しく口づけをした。


 起こさないようにそっと元の位置に戻ろうとして、剥き出しの肋骨に気がついた。

 そっと指を這わせてみる。上質な筋肉が指を押し返してくる。少し迷って、腕ではなくこちらに頭を乗せた。


 ふわり。ほどよい硬さと緩やかな鼓動に加えて、彼の匂いがする。お風呂上がりの石鹸とは違う、男性の匂い。心地よくて、安心して、ふしだらな気分になる匂い。

 我慢できずに、すーっ、と思いっきり吸い込む。頭が痺れてどうにかなってしまいそうだ。寝ている間に事を済ませてしまえば、事故ということにならないだろうか。そもそも、布一枚もまともに身に付けずにフェロモンを蒔いて誘惑してくる方が悪いんだ――


 きゅっ、と暖かい腕で抱き締められる。枕になっていた方は手櫛で頭を、もうひとつは背に。

 それが無意識ではないことに気づいたのは、少しばかり後のこと。


「……あ、え? せん、ぱい……?」

「おはよう、音羽」

「せ……先輩、いつから起きて?」

「あー、んー。キスされた時、だな」


 全身に血が巡り、急速に意識が覚醒する。どくどくと早鐘を打つ心臓、全身真っ赤に染まるほど上がる体温。


「ーーーーっ!! ~~~~っ!!!!」


 声にならない叫びを上げながら、音羽雅はあまりの羞恥に打ち震える。掴んだ浴衣の裾が引きちぎれそうだ。


「お、音羽。あんまり引っ張るな」

「なんでっ……起きてるならなんで言ってくれないんすか!!」

「俺、朝弱いんだよ。音羽に何かされて嫌なわけでもないしな。まあ、少し驚きはしたが」

「言っときますけど、匂いフェチとかそういうのじゃないんで!! 好きな人だから匂いも好きなだけっすから!!」


 霧島涼介の体温も、釣られるように上がる。もっとも、この空間で今一番の熱量を持つ音羽雅には露ほども伝わらないが。


「お、おう。ありがとな」

「っ……そういう意味で言ったんじゃ……」


 男らしい胸板に顔を埋めるようにして視線を逃れる。いい匂いに包まれてくらくらするけれど、隠れる場所は他にない。


「ふふふ、朝から元気だねぇ」


 意識を声の方へ逸らして、なんとか正気を保つ。昨日も今日もこちらを眺めるばかりの先駆者、朝霧美晴。そういえば、昨日あれだけすったもんだしたわりに、今は布団からちっともはみ出ていない。


「お茶あるよ! 備え付けのやつ! 熱いから溢さないようにねー」

「ありがとな、美晴。音羽、体起こすぞ」

「うっす」


 いざ離れるとなると途端に名残惜しくなるが、寝たままでお茶は飲めない。しぶしぶ顔を上げる。すると、こちらを見ていた霧島涼介がさっと目を背けた。


「浴衣、はだけてるぞ」


 自分の浴衣を直しながら指摘する霧島涼介。


「先輩に言われたくないっす」


 自分の浴衣を直しながら、音羽雅は感慨に耽っていた。


「前はどれだけ胸晒しても、興味なさそうにしてた癖に」

「なにか言ったか?」

「別に」


 好きな人に女として見られることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。



 ティーバッグの緑茶をゆっくり啜る。三人で。

 声のない時間が続いても、不思議と気まずさは感じない。穏やかな空気が流れている。昨夜からつけっぱなしのエアコンのおかげ、ではないだろう。


 飲み終えて、空の湯呑みを置いた。二人も同様に。このまま皆で布団に戻るのも悪くないだろうが、そろそろ朝食の時間のはずだ。しっかり者の音羽雅は事前に把握している。


「今日は雅ちゃんから、ね?」

「わかった」


 しかし、カップル二人の朝の儀式マイルールまでは流石に知らない。怪訝な顔をしていると、先ほどのように肩に手を回された。

 違うのは、肋骨のかわりに霧島涼介の顔がそこにあること。


「雅ちゃん、キスしていいよ!」

「……はい?」

「あー、なんだ。ま、深く考えなくていいから、好きなようにしてくれ」


 突然のことに思考が固まる。

 とりあえず理解できたのは、霧島涼介が口づけを要求していることと、朝霧美晴が笑顔でこちらをガン見していること。


「ほら雅ちゃん、遠慮なく! 一思いにやっちゃって!」

「え、あ……ほんとに、いいんすか?」


 わけがわからずに迷っていると、朝霧美晴はくすりと笑った。


「雅ちゃんはいいの? 好きな人を、好きにできるチャンスだよ?」


 ごくり。

 それは朝食なんかより、あまりに魅力的な提案だった。


「……音羽、こう、ただ待ってるのも結構恥ずか――」



 それはとても優しく、そして儚い口づけ。

 大切に想う気持ちと、大切なものを壊してしまうことへの畏れ。シルクの手袋で大粒のダイアを取り出すような、真っ直ぐで、臆病な心の現れ。


 肩へ添えた手に力が込もる。大丈夫だ、とでも言わんばかりに。

 あるいは、触れるか触れないかの瀬戸際を行き来する可憐な焦れったさに、歯止めが利かなくなったのかもしれない。


 求められるだけで幸福で、求め返す余裕なんてどこにもなくて。

 自分の想いが、相手に受け入れられたこと。それだけで、今は胸が一杯だった。

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