第2話 刻の実が手折られたら 狩りの始まり

 騒がし森は、白い靄に包まれ静まりかえっています。

 いえいえ、常の騒がし森は決してこんな風ではないのです。

 あなたがゆっくり景色を眺めてのんびりしたいと望んでも、決してそんな風には居させてはもらえない、騒がし森はそんな森です。

 だけどどうした事か、いつもは目にも賑やかな羽を忙しなく羽ばたかせ飛び回る朝告げ鳥も、母親の腕に抱かれて安心しきった奇声をあげる冠猿も、姿を隠しているようです。

 不思議に思ったら、アトトックの木…刻の実の樹をご覧なさい。ほうら。昨日の日暮れまではたわわな紅い刻の実がなっていたその枝に、今日は何も見えないではないですか。そうです。60日が経ったのです。60日と言えば、水に生まれ落ちた天魚が大人になって空に飛び立つくらいの長い年月です。蕾が花開き青い実となり、紅く色付き芳香を放ち手折られるまで育て上げるほどの年月なのです。

 さぁ。お逃げなさい。

 紅い血を持つ者は、急いで森からお逃げなさい。

 アトトックの千年樹の木の根が届かないところまで。

 紅い刻の実を育てるための、紅い血を流したくなければ。

 紅い血を持つ者は、息をひそめて、でも一目散に逃げ出さなければいけませんよ。


「騒がし森の60日間」はそんな冒頭で始まる。

 咲樹は顎をだらしなく左の掌に預け、右手でその始まりの本をペラペラめくっている。

 全部で4巻ある、なかなか壮大な物語。何度も繰り返し読んだ本だ。

「私、読んだことないんですが、ファンタジーなんですか?」

 五年の詩音が控えめに問いかけると、ページをめくる手を止め、

「ファンタジー…?分類としてはダークファンタジーだけど、実際は…」

 と答えかけた所で、

「お前、今夜ここに泊まる気か?本の事を咲樹に問うなんて、自殺行為だぞ」

 要人が咲樹の手からその本を取り上げると

「泊まって本が取り返せるなら…」

 …と半分本気で言っている咲樹を無視して、本棚のあるべき元の場所に差し込んだ。

 光陽は周囲を見渡し、

「他のチェックは済んだよなぁ。じゃあ、締めるよ」

 そう声を掛けた。

 不貞腐れて役に立たない図書委員長の代わりを務める副委員長は、中々頼もしい。

「私がちゃんとチェックしたもん」

 机に突っ伏してくぐもった声で咲樹が訴える。

 休み時間の度に図書室に入り浸り、貸し出しノートと本棚を照らし合わせてチェックした。各教室の学級文庫も抜かりなく。

 抜かりなさ過ぎて、やりすぎだと苦情がきた程で、それでさっきから不貞腐れているのだ。

「別に手とか突っ込んでないのに。さっと目を通しただけなのに」

 そう愚痴ると、即座に

「それをやり過ぎって言われたんだよ!」

 と要人に突っ込まれた。

 そう。咲樹は学級文庫のチェックがてらに、全児童の机の中をチェックしたのだ。

「きっとどこかから出てくるわよ」

 美春はやはり呑気に咲樹を励ました。

 渋々立ち上がろうとした咲樹の前に、パサリと数枚の紙が落とされた。

「この本がこの図書館に来たのが、8年前。そこから今までの歴代貸出記録。調べてコピーしておいたから、家でおとなしくそれ眺めてろ」

 要人はそう言い捨てて先頭を切って図書室を出て行った。

「やるぅ」

 と光陽が呟き、食い入るように見入る咲樹を美春が

「良かったね」

 と言いながら促した。


「何だ?図書委員は居残りか?早く帰れよ!」

 見回りの先生にそう声をかけられ

「は〜い」

 とお行儀良く応えるのは、光陽、美春の役目で、咲樹はコピーに釘付けだし、要人はウンザリした顔でスルーした。五年生たちはそんな先輩たちの後ろで大人しくしている。

 30過ぎの温和な国語教師森元先生は、国語担当でありながら海外滞在が長く、子供達の知らない外国の話を時々聞かせてくれた。図書館の外国原作の本を選出する時に助言を貰ったこともあって、委員たちからも比較的慕われている。

 彼は図書委員たちがちゃんと校舎から出て行くのを振り返って見届けてから、見回りを再開した。


 校舎の外はすでに薄暗く、心許ないナイター照明の下で野球部が練習をしている。

 チッと舌を鳴らした要人は、肩に担いでいたエナメルバッグを地面に落とすと、サイドのファスナーを引っ張りおろし、スパイクを引きずり出した。

「遅くなって悪かったね。頑張れ」

 光陽はとても友好的に要人を送り出そうとしたが、元々愛想が良く無い上に、今は特に機嫌が悪い要人は面倒臭そうに

「おお」

 と言っただけだった。

 野球部でレギュラー選手の要人にとって、委員会のゴタゴタで練習時間が削られるのはいい迷惑なのだ。

 準備を済ませてチームメイト達の方に駆け出す要人の、照明に照らし出されたシルエットを見送っていた図書委員会のメンバーの中で、

「あ!」

 と声が上がった。五年の桃華が、要人のもっと先。バックネットからレフト線に沿うように植えられている木々の方を指差している。

「アトトック…」

 思わず咲樹が呟いた。木々のシルエットは重なり合い、ひとつの巨木に見えた。アトトックの千年樹のように。

「見つけた…」

 更に、その枝の先で刻の実のように紅く光る物が有る。

 咲樹が駆け出したので、皆も続く。

 近づけば分かる。一本一本はさほど大きく無い杉の木だ。

 その内の一つの枝に、一冊の本が引っかかっていた。

 紅い布の表紙に、金色の文字が踊っている。

「騒がし森の60日間 Ⅲ」そう書かれている。

「こんな所にあったのね」

「イタズラでしょうか…」

 そんな皆の声を背に、木の枝に手を伸ばしかけたまま、咲樹は動きを止めて木を見上げている。

「取ろうか?」

 届かないのかと、手を伸ばした光陽の腕を咲樹が掴んだ。

「コレは、アトトックの刻の実…」

 咲樹はキッと光陽を見た後、皆を見渡した。

「紅く実った刻の実を手折れば、平和な時間は終わり。狩りが始まる」

 影の中で咲樹が言うと、空気がぶるっと震えた気がした。読んだことのない詩音にさえその不気味さが伝わった。

「ただのファンタジー小説ですよ…?」

 無理に笑おうと五年の英志が軽口を叩いたが、声は不安げに揺れた。

「ファンタジーじゃないってば」

 咲樹は声を強めた。

「コレはただの杉の木でしょ」

 と五年の海斗が小さく笑ったが、

「アトトックは、沼杉の千年樹よ」

 そう言われて笑顔を引っ込めた。

「でも、置いておけないよ」

 そう言って、良い?と言うように視線を咲樹に向け、今度こそ枝に手を伸ばし本を拾い上げた。

 ザワッと風が木々を揺らした。

 儚げなナイター照明を受けシルエットしか見えない野球部の、足を運ぶ音が、ボールがミットに収るくぐもった音が、再び刻の実を育む為に根を伸ばし土を震わす音のように、闇に中で響いていた。

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