第10話 貫かれて突き刺さる

 カツカツカツ…と革靴の踵が、古く乾いた木の廊下に足音を響かして、通り過ぎて行った。

 古い本がぎっしり詰まった本棚と本棚の隙間に体を滑り込ませて、その行き先を考える。

 遊戯室のドアがカチャリと開く音がした。

 暫しの静寂。

 遊戯室にいる子供たちを眺めて回している時間だろう。そう多くはない筈だ。小さかったり、来たばかりでまだ何も知らない子たち。


 彼らはまだ、生贄…と言う言葉を知らない。その意味も。だけど、いつかその言葉に出会い、胸に刺さる日が来るかもしれない。その日まで、心が生きていたなら。


 狭い通路を這いながら近づいて来た小さな友人ジョシュアに、唇に人差し指を当てて、静かに…と伝える。彼はそっと隣に身を寄せて来た。震えている。記憶が、忌まわしい嫌悪感が彼を支配している。それが分かるから、彼を邪険に出来なかった。


 足音が、遊戯室から離れて、元来た廊下を戻って来る。

 小さくひっ…と言った彼の、口を押さえた手に、自分の手を重ねる。


 足音は左に折れ、一瞬不規則に乱れた。


 院長じゃ無くて、事務長だな。今日は院長が居ないから、ヤツはやりたい放題する気だ。最悪だ…

 普段は院長の影に隠れている癖に、こう言う日には我が物顔で物色する、飢えて高揚したあの白く膨らんだ顔を思い出すと、吐き気がする。肉が重なり合ったあの腹も、なんだか分からない、甘いような生臭いような体臭も、吐き気がする。

「ほら、前に教えただろう?上手に出来たら、院長に、週末外出許可申請してあげるよ。ほら、口を開けて」

 そんな優しい声色を出すが、拒否したり、我慢出来ずに吐いた子を、張り倒し豹変する。

「反省室に入るか?一生出さないぞ!」

 泣いて、怪我して、傷付いて、あいつに連れて行かれた子は、翌朝すぐ分かる。

 出来るだけ、目を合わせない。

 死にたいって顔してるから。

 僕、生きてるの?って顔してるから。

 そして、その気持ちがよく分かるから。


「ダニエル!」

 中庭で、声がした。

 あいつの声だ。

 ゾッとする。ジョシュアが悲しげな瞳で見上げながらしがみついて来た。

 そんな目で見ないで。僕には何も出来ないから…

 ボールが弾む音がして、止んで、

「地下の奥の部屋の整理を頼んで良いかな」

「はい。事務長先生」

 そう答えたダニエルは、ここに来て一ヶ月。まだ、何も知らないんだ…

 下唇をギュッと噛む。仕方ないんだ…怒らせたら、ここで生きて行けない…仕方ないんだ…ごめん。ごめん。耐えて…ごめん…機嫌を損ねないで…


 そっと身体の力を抜き隙間から這い出ると、本棚に背中を預け、古い、大きな皮張りの本を膝に載せて抱えるようにページをめくる。

 早く、物語の世界の中に入りたい。何も聞かなくて良いように。心から追い出せるように。

 ジョシュアは、僕の隣に真似をして座り、肩に頭を乗せ、耳を塞いでいる。僕はニットのカーディガンを脱いで、彼の頭にかけてやった。何も聞かなくて良いように。何もかも、頭からも追い出すんだ。


 ガタン!と音がして、重い鉄のドアが叩かれる音がして、叫び声がして、泣き声に変わり、それが、永遠に続いている。

 そんな気がしたけど、きっと、気のせいだ。


 規則的にメトロノームの音が響いている。静寂が嫌と言うより、急に聞こえる音が嫌いだ。たから、規則的なメトロノームの音を部屋に響かせている。

 もしかしたら、病名があるのかも知れないが、誰にも知られて無い筈だ。

 メトロノームの音に刻まれた清潔な部屋で、整頓された机で、本を読んでいた。


 随分久しぶりに読んだ。

 言葉は変えてあるのに、生々しく思い出す。

 すべて終わった事の筈だったのに、何も終わってなかった。まさか、こんな所で過去に遭遇するなんて。

 僕が遭遇するなんて。


 丁寧に、本を閉じた。大丈夫。覚えて居るから。

 そっと、藍色の布地に踊る、金色の文字を指でなぞった。

 僕が、忘れないから…

 桃色ネズミも、冠猿も、貫かれて死んだのだ…



 早乙女の運転は、とても普通だった。

 普通に安全運転だったし、乗った時に

「シートベルト!」

 と言われたし。


「今度は、どんななの?」

 車が走り出して直ぐに、咲樹は切り出した。家までの短い時間を無駄にしたく無い。

 ん…?と運転から気を逸らさないように片手間な返事をし、

「知ってるだろう?」

 そう応えた。

「どれかは知らない」

 二巻に出て来るのは、天魚、朝告げ鳥、冠猿、二尾狐。

 チラリと咲樹を見て、正面に視線を戻してから

「壁に突き刺さってたらしい」

 呟くように言った。

「…冠猿」

 咲樹は瞬時に理解した。


 藍色の二巻は、学校のプール沿いの外塀の金網の脇で見つかった。シーズンオフなので人通りは少ない。見廻りをしていた地元のお巡りさんが朝発見して回収され、図書室に戻る前に警察に持って行かれた。

 そして、その直後、そこからそう離れていない道具小屋の壁に長い棒が二本、突き刺さって居るのが見つかった。その棒が一体の人間の体を貫いていた。

 ピンで刺した標本のように壁に留められていた。

「彼を知って居る?」

 ちょっとショックだと思うけど…と前置きされてから見せられた写真に、別にショックでは無いけど…と要人は思った。

 でも質問は知って居るかどうかだったので、

「知ってる」

 と応えた。

 目を見開いて、口から涎を垂らした顔には見覚え無かったけど、コレは、ハウスの管理人だ。

 だった…と言うべきか?

 コレから誰がキレた電球を交換するんだろう…?

 そんなことを瞬時に考えて居る要人を見つめ、倉持はため息をついた。

 子供は残酷だと言うけれど、知り合いの死体写真を見て、こんな反応が普通か?

 勿論、死体らしい写真では無い。それでも、死んでいると分かる筈だ。彼なら。

 さて、どう切り出すべきか…

 連続殺人事件のどちらにも関わりを持って居る少年を前に、倉持は考えあぐねていた。





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