第8話 図書室で殺さないで


(お腹空いた…)

 朝練の後はお腹が空く。

 授業前に食べる用のお弁当を持ってきているチームメイトもいるけど、要人にはそんな物を作ってくれる人はいない。

 目の前にはりんごが有って、手を伸ばせば届きそうだけど。流石に良識が邪魔をする。もう、12歳だ。

 りんごは艶やかな赤で、無造作に置かれたうねった布の上にポツンと存在している。

 何とは無しに、アトトックの刻の実を連想した。アレは、本当はどんな姿なのだろう。

 あの赤が、生き物の血を吸って作られた色だと思ったら、食欲が失せるかと思ったが、そうでも無かった。

 そんなにヤワじゃ無かった。

 無理…と言いながら嫌悪した顔の美春が脳裏に浮かんだ。

 人間は、いざとなったらなんでも口に入れられる者が生き残る。

 現代人は皆その強者たちの子孫の筈だが、隔世の遺伝子か、環境か。何が、人類をヤワにしたんだろう。

 都会育ちの兵士は、不衛生な物を受け付けられなくて戦場で餓死する。って、何かで読んだ。

 生存本能より勝るものがあるんだ…俺は必死で生き延びるけど。

 ふぅ…とため息をついて、りんごを中心にぐるりと輪になり、真剣な顔をしてそれを見つめているクラスメイトたちを見渡した。

 要人も、その内の1人だが。


 その時教室の戸がノックされ、顔を出した品川先生が、東雲先生を呼んで耳打ちした。その視線がこっちを見ている…と要人は感じた。

「私の授業中ですが」

「勿論分かっているよ」

「美術の時間を軽んじていませんか」

「先生の授業は勿論尊重しています。ですが、警察の要請なんです」

 品川先生のその一言で仏頂面の美術教師は黙り、

 あぁ、やっぱり…

 と要人は思った。



 品川先生は視線を要人に戻し、促すように頷いた。

「掛川、品川先生と行きなさい」

 東雲先生は不機嫌な顔のまま要人を促したが、

「早く戻って来なさい」

 そう付け加えた言葉には、若干の優しさが含まれていたのかもしれない。

 だが、立ち上がった要人が席を離れる瞬間手を伸ばし、今日の退屈なデッサン授業のモデルだったりんごをさらい取って、間髪入れずにかじりついたのを見て、顔を赤くした。

 爆発する前に…と品川先生に促されて素早く教室を出る。

 真っ赤な顔で怒りに絶句して立ち尽くす妖怪を残して。

「衛生的じゃない」

 品川先生は渋い顔でそう言ったが、横を歩きながらその顔を見返した要人は、先生は生き残れないタイプか…いや、飢餓状態になったら変わるのかな…と考えていた。

 要人は生き残る。何を食べても。生き残って、変貌する人類を眺めたい。誰が諦め苦しみながら死んで、誰が必死にあざとく生きようとするのか。どう変わるのか。表向きじゃない、本質を見てみたい。そうしたら、人を本当に信頼出来る気がする。

 りんごは、すかすかで水気が無く、空っぽの味がした。刻の実は、どんな味がするんだろう。絶望か悲しみの味だろうか。それとも、全てを飲み込んで壮絶に美味なんだろうか…?



 さて。図書室と言うのは、独特な場所です。良識のある親に育てられたなら、活字は人の思想であり何人なんびともそれを踏み付ける権利を持たない。…と知っているでしょう。

 四方を重厚な書物で満たされた小さな部屋で…いえ、部屋の広さは関係ない。本と先人たちの思いに満たされたその小さな部屋は、紛れもなく図書室でした。

 私たちは長いこと、そこを拠り所にしていました。本棚の陰に身を潜め、活字の世界に逃避し、連れ去られる仲間たちの悲痛の声を耳の、頭の、いや、心の中から追い出して居たのです。そうでもしないと、心が死んでしまうから。選ばれなかった幸運にほっとする自分を許せなくなるから。私たちははたして許されるのか?許されるとしたら誰に?

 神ではない。彼がこの試練を与えた張本人だとしたら、彼に救いを求めることなどしない。

 心が死なないように、ここから出られる日まで、忘れない。決して忘れない。だから私は、先人たちに習って、この思いを活字にすると決めたのです。必ず、ここから出て、活字にすると。だから、どうか、私たちを、図書室で殺さないで下さい。


「なんだ…これは」

 早乙女 千鶴は、本のあとがきに目を走らせ、思わず声を漏らした。


 騒がし森の60日間 Ⅳ そう書かれた白い背表紙に目をやり、もう一度後書きに目を戻した。

 その更に最後に印刷された文字を見る。日付と共に書かれた文字。

「初版本か…」

 そう呟き目を閉じた。

 早乙女 千鶴。字面は女性らしいが、本人は女性らしい…とは真逆にいる。

 黒いパンツスーツに中は特徴の無い白いシャツ。辛うじて後ろで一つに束ねた長い黒髪が性別が女であることを主張しているが、もしかしたら長髪の男性?と頭をひねった人も過去に居たかも知れない。しかも多数。

 更に、今は学校内という事で、いつもの踵の太いローヒールの靴ではなく、学校備え付けの来客用スリッパだ。


 目を閉じたまま、そういう事か…と鼻で笑い、それから少し離れて立っている少女に目を向けた。

 自分の所作を決して見逃さないように見張るような目。なかなか良いぞ。そう千鶴は思った。

 騒がないのも良い。うるさい子供は苦手だ。


「どうしてコレがココに?」

 早乙女が自分を見たと思ったら質問を投げてきたので、咲樹は、早乙女と目を合わせた。今までほぼ、手の動きを見ていたから。

「私が入学する前から有りました」

 その答えに、発行年月日をもう一度見る。今から8年位前。この子は6年生だから、その頃にはもうあったという事は、発行して1、2年の内にここに来たのか…

 この本が、小学校の図書室に…?

「読んだ?」

 勿論頷く。まぁ、当然だな…と早乙女も思う。

「他に誰が読んだか判る?」

「全員?」

 聞き返されたので、そりゃあ無茶な質問か…と

「いや…わかる範囲で…」

 言い直そうとした横から、咲樹は鞄からプリントされてクリアファイルに挟まれたA4の数枚の紙を差し出した。

 8年前からの年月日と、氏名が書いてある。

「何コレ」

 思わず早乙女が呟くと

「本が無くなった時に、調べました」

 そして、

「図書室内で読んだだけの人は分からないけど、この3年間でそんな人居たら気付きます。図書委員の6年の4人は読んでます。5年は2人読んでいて、1人は走り読み。多分理解していない。あと1人は読んでないです。もっと古い情報は無いですけど…」

 そんなに古い情報が必要ですか?事件は今起きているのに。…と目が言っている。

「充分」

 最近の貸し出し名は5ヶ月前で、河口海斗。資料で見た名前。5年生図書委員だ。

 2週間ごとに1巻ずつ借りている。ちゃんと読んだ方の子だろう。

「あまり人気が無いね」

 早乙女がそう呟くと、ちょっと憮然とした顔になり、

「子供向けじゃ無いから」

 そう答えた。

 早乙女は咲樹をじっと見つめた。この子は分かっているんだな…コレがファンタジーじゃ無いこと。


 図書室のドアがノックされ、咲樹の担任の桃谷先生が丸っこい顔を出した。

「あの…そろそろ宜しいでしょうか?森園さんを帰さないと…」

 若い…と言っても新任って年でも無いのに、気弱で真面目で頼りない担任だが、咲樹は彼女を嫌っていない。

「あぁ、時間を取らせてすみません。今日はコレで終わりにしましょう。彼女は私が送ります」

 え…と桃谷が躊躇して咲樹を見たので、頷いてみせた。それで素直に引くなんて、やっぱり頼りない。でも、咲樹が言うなら…と言う彼女の判断に、咲樹に対する信頼を感じられた。図書室の鍵締めは桃谷に任せて部屋を出る時に、

「要人は?」

 と聞いてみた。

「まだ、話しているのよ」

 桃谷はそう言ってチラッと抗議するように早乙女を見た。

 勿論気にも留めない。そっちは担当外だ。


 2時間目の途中からだから、もう、3時間くらい経つんじゃ無いか?

「長いな…」

 思わず呟いたけど、早乙女は勿論知らん顔をしていた。

 咲樹も、答えを求めた訳じゃないので構わない。

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