5 Beautiful Name
「香りって字を『か』って読むのは、音読みだっけ?」
「いや、訓読みじゃないかな」
「じゃあ、これはダメね」
「それだと
首を伸ばしてのぞきこんだ優駿は、苦笑して言った。音読みと訓読みを組み合わせたいなら湯桶読みでもかまわないはずだが、舞はあの一件以来、重箱読みにこだわっている。
ちなみに診断では、胎児は女の子だということだ。
「ねえ、どれが志賀って苗字に合うと思う?」
「そこはあまり気にしなくてもいいんじゃないか。将来、結婚したら変わるんだろうし」
「わからないわよ。そのころは夫婦別姓になってるかもしれない」
「婿を取るって可能性もある?」
「そうよ。それにたとえ変わるとしても……」
「最低でも二十年近くは、その名前で生きるんだもんな」
優駿が先取りすると、志賀舞はこたつの向こう側で嬉しそうに微笑んだ。長かった髪を肩の辺りまで短くした彼女は、顎の線が少しふっくらとしたように見える。
「それはそうと、終わったのか? そっちの分」
「うちは親戚少ないからね。友達はみんな、メールで知らせたし」
「じゃあ、ちょっと手伝ってくれよ」
「えーっ?」
わざとらしく口をとがらせてみせながらも、舞は手を伸ばし、こたつの上に積まれたハガキを一枚引き寄せる。送らなければならない宛先のリストは、両親の年賀状用の住所録をプリントアウトしてもらったものだ。
ハガキの裏面には、青い空と白い砂浜を背景に、タキシード姿の優駿とウェディングドレスの舞が笑っている。その隅には「We got married.」の筆記体が軽やかに跳ねていた。
結婚式は、舞が安定期に入るのを待って、グァムで挙げた。両家の親しか招かなかったので、祝儀はあまり集まらなかった。舞が産休を取って収入も減り、新居にも移れず、今まで同棲していた窮屈な1DKに引き続き暮らしている。リサイクルショップで買ったベビーベッドの置き場所にも困るありさまだ。
それでも二人は、ごくありきたりな言い方だが、幸せだった。
「そう言えば、お義父さんとお義母さんへのプレゼントもそろそろ決めなきゃだよね」
丸みのある文字を一画ずつ、リストから書き写しながら、舞が言う。
「銀婚式だっけ?」
「いや、三十周年だから……」
「あっ、真珠婚式か」
「再来月な。母さんは、元気な孫が産まれてくれればそれが一番のプレゼントだって言ってたけど」
「再来月」
そうつぶやいて、新妻は下腹部に左手を添えた。その薬指には、今はダイヤの婚約指輪ではなく、よりシンプルなプラチナリングがはめられている。優駿の左手の薬指にあるものと同じだ。
ハガキは書きかけのまま、舞はいくつかの名前を胎児に向かって呼びかけ始めた。あっ、蹴った、この名前がいいのかな、と優駿を見て、キラキラ光る目で笑う。
子どもは自分の名前を選べない。こちらから一方的に押しつけるしかないのだ。そう思ったけれど、優駿は黙って笑い返した。
宛名を書き終えたハガキを裏返して、優駿は結婚報告の写真を眺める。その下端には、白い砂浜をバックに、差出人の連名が印刷されていた。
――SHIGA Yushun & Mai (nee KANO)――。
重箱読みの名を与えられた娘が成長して、結婚を考えるころには、音読みも訓読みも無関係な時代になっていることだろう。娘はこのハガキを見て、どうしてアルファベットなのよ、カッコつけちゃって、と無邪気に笑うだろうか。
「
志賀未来。ふと優駿の口を突いて出た名前を、舞は復唱した。それからおもむろに夫の手を取って、自らの腹部に当てる。
未来、未来ちゃん、と交互に呼びかけて、二人は娘からの返事を待った。
(了)
訓読みジュリエット 二条千河 @nijocenka
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