4 重箱

 優駿の母は、意外にも、二人の提案にあっさりと同意した。じゃあお父さんには挨拶に来ることだけ伝えておくわと、電話口で気軽に話す声の調子は、また何か頬に入っているような感じがした。



 数日後、舞の体調の波を見計らい、連れ立って実家を訪れた。


 父は初めて見るポロシャツを着て、居間のソファに座っていた。近頃めっきり寂しくなった頭頂部が、整髪料で強引に立ち上げた髪で覆われていて、息子としては笑うべきか恥じるべきか反応に窮した。


 一方の母は薄いニットのアンサンブルで、スカートをはいて、ひどく赤い口紅をしていた。ひとまず、どちらに対しても、見て見ぬふりをしておくことにする。


 ローテーブルの上はきれいに片づいて、レースのクロスが新調され、漆の盆に個包装のフィナンシェが並べられていた。普段なら野球中継かゴルフか競馬か、でなければ借りてきた映画のDVD、とにかくいつも点けっ放しのテレビも電源が切られていて、ちょっとした動作の立てる音が妙に耳につく。


 前に来たときはタコ足で、今日はフィナンシェ。極端なんだよ、と、優駿はこっそり舌打ちをした。改めて挨拶に、と申し入れた以上、改まった雰囲気を作ってもらうことに異論はないのだが。


 どうせやるなら床の間のある座敷で、座布団でも敷いて対面すればいいのに、と思う。もっとも、一階の和室は父のオーディオ機器やら二階に運ぶのが面倒で春先から放置してあるポータブルヒーターやらが占領し、どう工夫しても改めようがなかったのだろう。居間の隣にあるその部屋の引き戸は、いつも開けっ放しなのだが、今日はぴたりと閉め切られている。


 L字形に並べられたソファで、二人は優駿の父と斜めに向かい合った。母の方は、ローテーブルにお茶を置いたらすぐにダイニングへ引っこんで、一人で食卓のイスに座っていた。


 もう何度も会っているのだが、彼女を父に紹介し、もう知っているのだが、妊娠と婚約を報告した。彼女は両手を重ねて丁寧にお辞儀をして、不束者ですがよろしくお願いいたします、と言った。父は卒業式の男子中学生よろしく、膝に拳を置いて肩を張った状態で、こちらこそ不肖の息子をよろしくと、早口言葉のように舌をもつれさせながら答えた。


 そうしてどうにかけじめとしての挨拶が済むと、父はわかりやすくほっとした表情になって、冷めかけた茶を啜った。それから、体調はどうか、とか、仕事はいつまで続けるつもりなのか、とか、住まいはどうするのか、といったことを、とりとめもなく尋ね、しかし最後には、


「これから何十年も、二人で生きていくんだ。どんな問題も二人で力を合わせて乗り越えていくしかないけれど、相談ならいくらでも乗るから、いつでも言ってきなさい。麻衣ちゃんも、遠慮するんじゃないよ。本当の父親だと思って、気楽に何でも話してくれるといい」


 と、それらしく立派に締めくくった。



 その間、音訓のことは話題にもならず、優駿は秘かに安堵した。この場合、黙っているだけで十分騙していると言えなくもないのだが、はっきりと言葉にして嘘をつくことに比べれば、罪悪感もいくらか紛れるというものだ。


 彼女もこれで気が楽になっただろうと、何気なく隣に目をやって、優駿はぎょっとした。


「麻衣ちゃん、どうか……?」


 向かいに座った父も異変に気づき、うろたえている。


 麻衣と呼ばれた彼女は、上半身を畳むようにして頭を垂れていた。その横顔を長い黒髪が覆い、その下から、浅い呼吸音が聞こえる。指環をした左手をかばうように右手を重ね、その上へ、汗の滴がいくつも落ちた。


 どうやら悪阻がひどくなってきたらしい。そう思って優駿は、彼女の肩に手を置き、「大丈夫か」と顔をのぞきこんだ。


 しかし、青ざめた頬を伝っているのは、汗ではなく涙だった。呼吸音が嗚咽に変わる。思わず言葉を失った優駿の方を、彼女はゆっくりと振り向いた。



 ごめんなさい。



 微かな声ではあったが、家中が静まり返っていたせいで、宣言のように強く響いた。向かいで父親が、えっ、と間の抜けた声を出した。


「ごめんなさい、優駿。ごめんなさい、お義父さん。今になって、やっと気づきました。あたし、やっぱり、捨てられません」


「捨てるって、何を……」


「あたしは、狩野舞なんです。志賀舞になっても、でもやっぱり、狩野舞で生きてきた時間は捨てられないんです。お母さんと二人で一緒に生きてきた時間だもの。パパが残してくれた名前だもの」


「麻衣ちゃん……」


「舞なんです、あたし」


 言い切った瞬間に、涙も切れた。


 肩に置かれた優駿の手を静かに払って、彼女は立ち上がる。指先で涙を拭うと、口を開いたままの父の顔を見下ろして、深々と腰を折った。


「狩野舞は訓読みです。黙っていて申し訳ありません」



 一拍の間を置いて、父の顔色が変わった。唇が閉ざされ、頬が紅潮し、青筋がこめかみに浮かび上がった。


 あの顔だ。優駿の幼心に恐怖を植えつけた、あの「平仮名」への憎悪。


 ちっ、だから平仮名は――。


 エラーした野球選手も、外してばかりの予想屋も、退任が決まった総理大臣も、おしゃべりが過ぎる近所のおばさんも、たまたま話題に出てきた見ず知らずの相手すら、苗字が訓読みであるかぎり、一言で全否定される。


 平仮名のくせに。

 平仮名ふぜいが。

 平仮名の分際で。


 かつての恐怖が、瞬時、優駿の背筋に蘇った。しかし、すぐにそれを振り払って立ち上がる。


 隣には、目を赤くした舞が、父の無言の怒りに射すくめられたように立ち尽くしていた。


「謝るなよ、舞。おまえは何も悪くない」


 おそらくこれまでの人生で最も毅然とした声と態度で、優駿は宣言した。


「音読みとか訓読みとか、関係ない。俺たち、結婚するからな。たとえ、勘当するって言われても」


 父は拳を握り締めて、息子を睨み上げた。目が血走って、口角が震えている。


 中学生以来の父子喧嘩。しかしあのころは、ただ背を向けて部屋の戸を閉め切って、この視線を避けるだけだった。こんなふうに、正面切って対峙したのは、生まれて初めてだ。


 険しい空気が居間に充満する。父が大きく息を吸って、いよいよ怒鳴りだすか、それとも立ち上がって殴ってくるかと身構える。


 が、肺に入った空気は、また苛立たしげに鼻から吐き出された。


 重苦しさが、倍加した。


 打破しなければ、押しつぶされる。優駿は大きく息を吸った。しかし、放つべき言葉を決めかねて、結局は父同様に荒い息を吐いただけだった。



 そうしてまたしばらく続いた沈黙は、予想外の声と言葉によって破られた。


「いいえ。結婚は、しません」


 父親が、舞に視線を移した。優駿も驚いて隣を振り返る。


 彼女の目尻は、もう濡れてはいなかった。左手の薬指から、婚約指輪をいともたやすく抜き取って、ローテーブルの上にそっと置いた。


「よくわかりました。音読みと訓読みじゃ、やっぱり世界が違うんだって。音読みの人には、あたしの気持ちはわかってもらえない。あなたもね、優駿」


「えっ?」


「あなたは音読みの女性ひとと結婚した方がいい。あたしも、訓読みでいいひとを見つけるから。この子を大切にしてくれる人をね」


 そう言って、舞はワンピースの下腹部に手を当てる。


「その方が、お互いのためだと思うの」


「舞。本気で言ってるのか」


「今までありがとうございました」


 彼女はまた深々と頭を下げた。そうして、顔を上げざま「失礼します」と言い捨て、ソファの横のバッグをつかんで身を翻した。優駿の顔を見ようともせず、ドアの方へ歩いていく。


 裾をなびかせたその後ろ姿を追おうとした優駿は、自分の背後で、誰かが立ち上がる気配を感じた。



「待ちなさい、舞ちゃん」


 父の声ではない。しかし、誰だろう。


 優駿と舞はほぼ同時に立ち止まった。舞が先に振り返り、優駿も倣った。ソファに座った父も、上半身をひねるようにして、ダイニングを振り向いていた。


 もちろん、父でないなら、声の主は決まっている。


 食卓に手を突いて立った母は、舞を呼んだにも関わらず、こちらの方を向いてはいなかった。うなだれて、卓上に置いた自分の湯呑みを睨みつけてでもいるように見えた。その横顔も、今しがたの声も、確かに母のものではあったが、いつもの母とは何か違う気がした。着慣れないニットやスカートのせいでは、なく。


「うちのバカ息子を許してね。あなたに似合わないセリフを言わせて。でも、五分だけ、待ってくれない? すぐに話をつけるから」


 これもすべて、口紅の付いた湯呑みを、あるいはその水面に映る自分を、見つめながらしゃべっている。傍目には独り言のようだ。しかも言っている意味がまったくわからない。話をつける、とはどういうことなのだろう。


 母はようやく顔を上げて動きだす。ダイニングから居間に入ってきて、優駿のすぐ目の前を通り、ソファに座った。さっきまで、舞が座っていた所だ。ローテーブルの上の銀色の指輪を挟んで、父と斜めに向かい合う。


 アンサンブルの裾を整え、両膝を揃えて、その上に両手を載せる。背筋を伸ばすと、いつもより五歳くらい若く見えた。そのせいだろうか、唇の赤さが、前ほど気にならない。


康平コウヘイさん」


 いきなりファーストネームが飛び出した。父は、怒りも吹き飛んだらしく、呆気に取られた顔をしている。


「長い間、お世話になりました。今日を限りに、おいとまをください」


「……何だって?」


「別れてくださいと言っているんです。優駿は、わたしが引き取ります」


 本気で言っていることは、全身から醸し出される雰囲気から疑いようがない。けれど、正気で言っているのかは量りかねた。


 父も同じなのだろう、母の顔を食い入るように見て、その真意を探ろうとしている。


「なぜ、なんて訊かないでくださいね。わかるでしょう。あなたと別れて、わたしが優駿を引き取れば」


「まさか……」


「この子はもう、音読みじゃなくなるのよ」


 いよいよ母はおかしなことを言い出す。母の旧姓は南条だ。志賀家ほどの音訓差別主義ではないとしても、音読み姓であることには違いがない。


 すると母は、優駿の疑念を察したかのように振り向いて、妙に余裕たっぷりの笑顔を見せた。


「あんた、これから南原ナンばら優駿になるけど、それで舞さんと結婚できるなら文句はないね?」


「南原?」


「お母さんの、本当の旧姓よ」


 その言葉は思考回路をぐるぐると回って、俄かには意味にたどり着けなかった。



 母の、本当の旧姓?



重箱ジュウばこ……」


 舞が小声でつぶやいた。いつの間にかドアの前から戻ってきて、優駿の隣に立っている。その呼称を舞が知っていたことは意外だった。


 音読みと訓読みの交じった、どっちつかずの重箱読み。半端者として、ひところは平仮名よりも蔑まれていた時代もあったと聞く。そんな重箱姓の出だったことを、母は今の今まで隠していたというのか。そんなことがありうるだろうか、と優駿は疑い、すぐに、自分も狩野姓で同じことをしようとしていたことを思い出した。


 そう言えば、優駿は母方の墓を参ったことがない。母の出身地は遠方、それも辺境と言ってよいほどの片田舎だそうだが、そこを訪れたこともない。母方の祖父母は優駿が小学一年生のときに亡くなり、会った記憶もほとんどない。偶然か、それとも入念に、優駿の目からその苗字を隠し続けていたということなのか。


「父さんは知ってたのか?」


 ソファの背に手を突いて身を乗り出し、詰問する。もちろん知らないはずがない。父は唇を横に引いて、くぐもった声で唸った。


「わたしもね、捨てたつもりでいたけど。これで三十年ぶりに取り戻せるわ。結婚するまでに生きてきた時間を」


 母は涼しい顔をしている。清々しい、とすら言える表情だ。対象的に、父は額に脂汗を光らせている。


「ねえ。もう終わりにしましょう、康平さん」


亜紀アキ……」


「わたしは秋子あきこです」


 言い切った母は、満足したのか、ローテーブルに手を伸ばしてお茶を飲んだ。それは舞に出したはずの湯呑みだろ、また口紅が付いてしまうじゃないか。優駿はそんなどうでもよいことを思いながら、母の動作をぼんやり眺めていた。


 母はさらに盆の上からフィナンシェをつかんで包装を破り、頬張った。静まり返った家の中を、そのノイズだけが支配する。


「お義母さん、あたし」


 舞がためらいがちに声をかけたところへ、母は菓子を咀嚼しながら「いいのよ」とだけ言った。何がいいのか、息子にはわからない。


 しかたなく、優駿は押し黙っている父の方へ歩み寄った。肩を落とした体のラインに、真新しいポロシャツが痛々しかった。立ち上げた髪の毛も、いつしか本来のボリュームに戻ってしまっていた。


 父も同じだったのだ。育った家の思想に反して、音読みならざる人を好きになってしまって、その愛する人に偽りの名を騙らせたのは。


 しかし、だとしたら、なぜあんなにも頑なに音訓差別発言を続けてきたのだろう。殊に、親戚一同が集まる場では、息子のトラウマになるほど憎々しげな表情で、率先して平仮名を罵っていた、あれは――。


「もしかして……カムフラージュ?」


 不意に、そんな言葉が思い浮かんだ。父は膝の間で組んだ指先を凝視していたが、しばらくして、小さな声でつぶやいた。


「そういう時代だったんだ」


 確かに、過去形だった。


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