2 マイ

 同棲しているアパートから優駿の実家までは、車で四十分ほどかかる。すでに二人でも幾度か訪ねているが、口実を設けて、優駿は一人で両親に会いに行った。



 もののついでに寄った、というポーズをとるために、事前に連絡もせずに出かけたのが裏目に出て、父親は留守だった。休日は大抵、家の居間でDVDを観ているのに、その日に限って昔の麻雀仲間に呼ばれ、遅くまで帰らないという。


 母は居間のソファに座って、タコの足の薫製をかじりながら、古いドラマの再放送を観ていた。突然帰ってきた息子の顔を見ても「あら、珍しいね」と言ったきりで、「どうしたの」とも「今日は一人?」とも訊かない。しかたなく優駿もソファに座り、促されるままにタコ足をかじった。固い吸盤を奥歯で噛みながら、しかしこれはむしろチャンスじゃないかと、気を取り直した。


 母の旧姓は南条ナンジョウと言って、音読みの家の出だ。父の差別的発言に対して、同調したような相づちを打つこともある。が、自ら積極的にそういう発言をしたことはなかった。少なくとも、優駿には聞いた覚えがない。父という難関に挑む前に、まずは母の協力を取り付ける方が上策かもしれない。


「彼女のことなんだけどさ」


 番組がCMに切り替わるのを見計らって、口を切った。固くて飲み込めない吸盤が一つ、頬に残っているせいで、都合よく何気ない口調を装うことができた。


麻衣マイちゃんがどうかしたの?」


 母は奥歯に薫製の切れ端が挟まったらしく、シーシーと変な音をたてながら訊いてきた。


「子どもができたって、電話で話したろ」


「うん」


「これから結婚式の日取りとか、いろいろ決めてくつもりなんだけどさ。その前に、ええと、何て言うのかな。改めて、挨拶に来ようかと思って」


「いいんじゃない。いつ来るの」


「それはまだ……でも近いうちに……」


「じゃ、決まったら教えなさい。お父さんに言っておくから」


 そしてCMが終わってしまい、母は再び三十年前の滑稽なラブストーリーの世界に戻ってしまった。


 これではダメだ、と、優駿は食べかけの薫製をローテーブルに置いた。台所から爪楊枝を持ってきて、まだシーシー言っている母親に手渡し、ドラマがエンディングを迎えるのを待って、テレビを消して、ソファの前に座った。それでようやく、母親も何か重要な話があるらしいと悟ったようだった。



 彼女の名前は狩野かのうまいで、加納カノウ麻衣マイじゃない。まずそこから話さなければならない。


 別に騙すつもりではなかった。彼女と付き合い始めた三年余り前、問われるままに答えたカノウマイという音を聞いて、両親が勝手に頭の中で変換したのが、加納麻衣だったのだ。


 後になってそのことに気づいたときに、訂正しなかったのは確かに優駿の責任かもしれない。けれど、そのときは、それほど大きな問題とは思わなかった。彼女を実家に連れて来たときも、会話する上では一切支障は生じなかったから、そこに誤解があるということ自体、ずっと忘れていたのだ。


 しかし結婚となればそうもいかない。志賀家と狩野家は親戚同士になる。式場で両家が揉めることなど、あってはならない。父には何としても、狩野舞を喜んで嫁として迎えてもらい、祝福してもらいたい。そのために口添えをしてほしいと、優駿はフローリングに正座をして母に頼んだ。


 話を聴く母は無表情だった。舞が実は訓読み姓だったと知ったときだけ、わずかに唇を開いたが、あとは頷きもせずに黙って息子の顔を見ていた。最近買い換えたという眼鏡の赤茶色いフレームを見慣れていないせいか、優駿はつい視線をそらしたくなった。嫌な予感がした。


 予感は当たらずとも遠からずで、母の返事は拒絶ではなかったが、あまりはかばかしいものでもなかった。


「子どもができる前だったら、お母さんも反対したかもね」


「何でだよ。舞のこと、母さんもいい子だって言ってたじゃないか」


「そういうことじゃないの。マイちゃんがどうとかじゃなくて、訓読みの家の娘さんが、音読みの家に嫁ぐっていうのが問題なのよ」


「そんなの、今どき珍しいことでも何でもないよ。俺の知り合いだって、もう何組も音読みと訓読みで結婚してる」


 何組も、というのは少々誇張がある。実際は二組だ。大学の同級生同士で結婚した須藤スドウ牧山まきやま。あと、会社の同期の小林こばやしが去年結婚した相手が、旧姓伊藤イトウ。どちらも「転び」だと言われそうなので、例として挙げるのはやめておいた。


「母さんだって、訓読みってだけで人間として下等だなんて、本気で信じてるわけじゃないんだろ」


「そりゃあね」


「じゃあ、何がいけないんだよ」


「お父さんがどういう人か、あんただってわかってるでしょうに」


「結婚するのは俺だ」


「結婚するのはあんたと、マイちゃんでしょ。あんたの奥さんになるだけじゃなくて、お父さんの義理の娘になるのよ。お父さんの兄弟やなんかとも、親戚としてずっと付き合っていくの。そんなことができると思う? お母さんはね、マイちゃんのためを思って言ってるの」


 親戚まで持ち出すなんて時代錯誤もいいところだと言おうとした優駿は、母親の厳しい声音に気圧されて黙りこんだ。母は、相変わらず無表情のまま、視線を手元に落とした。



 優駿から見て父方の従姉に当たる人が、五年ほど前に、結婚直前で破談になっている。優駿はその理由を知らなかった。が、実は、先方の苗字が滝本たきもとだったため、親戚一同が猛反対したことが原因だったのだと母は語った。三十歳を少し過ぎた従姉は、そのことがあったせいか、生涯結婚はしないと決めて見合い話を断っているらしい。


 また、今は独身の大叔父、つまり祖父の弟にはかつて訓読みの家出身の妻がいた。いた、というからには、結局は別れたわけだが、それもやはり、「平仮名の嫁」として肩身の狭い思いを強いられ続けた末の熟年離婚だったらしい。夫婦には息子と娘がいたが、志賀一族の中には居場所がないようで、今はほとんど絶縁状態だ。


 確かに父方の親戚は、父が育った環境にふさわしく、ことごとく音訓差別主義者だ。それは優駿も、幼いころから見聞きして知っている。だが、まさか現実に誰かの人生を脅かすほどのものだとまでは思っていなかった。母はもともと音読みの家系だったので幸いだったが、法事や何かで父方の親戚が集まるたびに、そうした現場を目撃してきたのだろう。


 中には自殺未遂にまで追いこまれた嫁もいる、とまで聞かされると、さすがに優駿も笑い飛ばすことはできなかった。


「あんたが思ってるほど、甘くはないでしょうね。それでも一緒になりたいなら、相当の覚悟が要ると思うよ。マイちゃんにもあんたにも」


「覚悟……」


「お母さんには、それぐらいのことしか言えないね」


 覚悟、という言葉を、舌の上で転がしてみた。父親一人を説き伏せて許すと言わせれば、万事解決すると思っていたが、事はそう単純でもないらしい。たとえ親戚一同の反対を押し切って結婚に漕ぎつけても、それはめでたいゴールインではなく、長い戦いの日々のスタートになる。それを覚悟しなければならないというのだ。


 ロミオとジュリエットだね、といつか彼女が言っていたのを思い出す。家同士の諍いという障害を乗り越えて結ばれようとした男女の美しい悲劇は、厳密には、優駿と舞の置かれている状況をたとえるのに適切とは言えない。志賀家と狩野家は憎み合っているわけではなく、こちらが一方的に蔑んでいるだけだ。


 しかし舞の言いたいのはそういうことではなくて、つまり、それほど困難なハードルがあっても一緒になりたいという決意表明なのだと、優駿は受け取っていた。


 ただそれは、もしかしたら優駿の都合のよい思いこみかもしれない。彼女は単純に、甘やかな悲劇のヒロイン気分に浸っていただけなのではないか。だとすれば、結ばれた後に続く現実の世界は、さぞ苦く感じることだろう。


 舞が「平仮名の嫁」と睨まれ、産まれてくる子どもまで爪弾きにされる。そんな日々に耐えられるだろうか。全力で守ってみせる、と宣言するのは簡単だ。だが、不登校のいじめ被害者を迎えに来た教師の励ましのようで、どうにも空々しい。たぶん、舞は何も心配要らないと言って笑顔を作り、そうして優駿の知らないところで傷ついていくのではないか。


 そんなことになるくらいなら、いっそ……。



「それとね、優駿。マイちゃんは知ってるの?」


 母の声が耳に飛びこんできて、直前に脳裏によぎった企みを慌てて打ち消し、「えっ?」と訊き返す。


「わたしたちがずっとマイちゃんのことを音読みだと思ってたってこと。本人はちゃんと知ってる?」


 言葉に詰まった息子を前にして、母はソファから身を乗り出した。深爪の指が伸びてきて、何をするつもりかと見ていると、その指先はローテーブルに置き放した薫製の袋へ無造作に突っこまれた。


「もう一度、二人でしっかり今後のことを考えなさい。お父さんに会うのは、それからにしたら。お母さんからは、まだ何も言わないでおくから」


 タコ足をかじりながら、母はそう締めくくった。


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