3 守る/捨てる

 仕事の後に待ち合わせて、馴染みのビストロで舞と夕食をとった。母から言われたことを、そこで話し合おうと思っていた。


 舞の勤め先の郵便局は、優駿の会社にほど近い所にある。優駿も部署異動になる前は、社用でよく訪れていた。そこで顔なじみになったのがそもそもの馴れ初めなのだが、そこからの紆余曲折は結婚式の余興で多少の脚色とともに語られることになるだろう。今はまず、式を無事に迎えられるかどうかの瀬戸際だ。


 しかし、窓口のカウンター越しに交わされるおかしな客とおかしな局員のおかしなやりとりを、愚痴とも笑い話ともつかないトーンで報告する舞のペースをついに崩せないまま、デザート皿も空になってしまった。まだ味覚の変わった兆候はなく、食欲もあるようだ。


 アパートへの帰り道を並んでゆっくり歩きながら、切り出すタイミングをはかっていると、不意に舞がいつもの道を逸れて、公園に入っていった。公園と言っても、男女がベンチで愛を囁き交わすような、洒落たものではない。放課後のギャングエイジが走ったり跳んだり泣いたりする、小さな遊び場だ。ブランコと砂場と滑り台とシーソー。もちろん夜だから、人気はない。


 舞は、鼻歌でも口ずさみそうな足取りで、砂利の上を平たいパンプスで踏んでいく。その背中に、やっと声をかけた。振り返った舞の頬は、外灯に照らされて、青白く浮いて見えた。


 まずは「加納麻衣」のことを詫びる。何度か優駿の両親と会話を交わす中で、舞もうすうす違和感を覚えてはいたようだが、さすがに今の今までずっと違う名で呼ばれ続けていたとまでは思っていなかったのだろう。うつむいて爪先を見ながら、「へええ」と気の抜けた声を出した。


 母親に言われたことをありのままに話し、彼女がどんな反応を見せるか、固唾を飲んで見守った。そうしながら、手はジャケットのポケットの上に置いて、その中にあるリングケースの感触を秘かに確かめていた。前々からクローゼットの中で時機を待っていた給料三か月分を、差し出すとすれば今夜しかない。


 彼女はそれを受け取ってくれるだろうか。数日前なら、ほとんど疑いもしなかったろう。しかし今は、確信が持てなかった。



 舞は伏せていた顔を挙げた。優駿は思わず身構えたが、彼女は何も言わず、ふいと視線を宙に投げた。そして、優駿に背を向け、また闇の中を歩きだしたのだ。


「舞?」


 彼女は雲を踏むように砂場を渡り、滑り台のスロープをよじ登り始めた。ベージュのコットンパンツに月光が当たって、左右交互に白く光る。


 あっという間に頂上に着いて、ペンキの剥がれかけた手すりを握るシルエットが、地面に突っ立ったままの優駿を見下ろした。


 表情ははっきり見えなかったが、どうも笑っているようだ。


「おお、ロミオ」


 いきなり芝居がかったセリフが降ってきた。


「あなたはどうしてロミオなの?」


 酔っているのか、と優駿は思った。そうでもなければ、この状況で、こんな言動をとるはずがない。


 妊娠がわかってから、アルコールは一滴も飲んでいないはずだった。しかし、代わりの何かに酔っているのかもしれない。たとえば、自分を主人公とする悲恋の物語に。


 覚悟とか、決意とか、深刻に考えていたのは自分だけだったのだろうか。何とも割り切れない気がし、真剣にプロポーズの機をうかがっていた数分前の自分が恥ずかしくなり、最終的には、苛立ちが湧いてきた。


 そもそもこのややこしい事態を招いたのは、舞の苗字なのだ。彼女が狩野ではなく加納だったら、何一つ問題なく、今ごろは二人で式場選びでもしていたはずなのだ。それなのに、張本人が暢気に笑っている。


「舞」


 その感情は声にも表れていただろう。闇の中で、舞の笑みが消えたような気がした。


 しかし、セリフはもう少し続く。


「今すぐ、その名をお捨てになって……」


 笑いを取り払った後の声が、ひどく頼りなく儚げな響きを帯びていて、優駿は出かかっていた詰問の文句を飲みこんだ。


 そんな声を出すときの彼女の表情は、闇に紛れて見えなくても、たやすく思い浮かべることができた。皺とも呼べないほどの浅い撓みが眉間に寄って、目が潤んで、唇がわずかに震え……それ以上は見ていられずに彼女を抱き寄せる。そんなことが、過去に幾度かあった。しかし今夜は錆びた遊具に隔てられて、彼女の肩に手が届かない。



「ねえ、優駿」


 闇の中で、ジュリエットが舞に戻った。


「あたしのために、名前を捨てられる?」


「えっ?」


「志賀って名前を捨てられる?」


 名前を捨てるということは、具体的にどうすることなのかと、一瞬考えた。両親を含む志賀家との縁を切るということか。一昔前の表現を借りるなら、駆け落ち、だろうか。まさか、自分が狩野家の婿養子になって、狩野優駿を名乗れということか。さすがにそれは、この場で即答するのは難しい、のだが。


「できるよ」


 気がつけば即答していた。


 どんな選択肢でも、舞とお腹の子を幸せにする方法が他にないなら、自分はそれを採るだろう。後追いに、そんなことを思った。


 よくよく考えて見れば、この状況を招いたのは、舞の苗字でも、志賀家の因習でもない。張本人は、音読みの家に生まれ育ちながら、彼女を好きになってしまった自分なのだ。そのことに、ようやく気がついた。


 バルコニーの上の彼女へその気持ちが届くように祈りながら、優駿は告げた。


「名前なんかどうだっていい。一緒になろ

う」



 彼女の影が動いて、滑り台の昇り階段を一段ずつ、危なっかしい足取りで降りてきた。急いでそばに寄って手を伸ばすと、舞は素直にその手を頼ってきた。


「あたしも同じよ。捨てられる」


 階段を降り切った勢いで、そのまま優駿に抱きついて、耳元に囁いた。


「あたし、加納麻衣になる」


「なんだって?」


「音読みの加納麻衣なら、お義父さんも親戚の人たちも、祝福してくれるんでしょう。結婚式は、そっちの名前で出そう。案内状も、式場のパネルも。うちのお母さんには、うまく言っておくから」


「それって」


 優駿は息を飲んだ。腹の底に隠していた企てが見抜かれたのかと思ったのだ。


 母親に狩野舞とその子が負うであろう辛苦を予言されたとき、それならいっそ加納麻衣のまま話を進めてしまえばいいじゃないかという声が頭の中で聞こえた。が、いくら何でもそれは彼女に悪いという理性に従って、その考えは早々に封印することにしたのだった。


「気にしないでよ。どっちみち、結婚したら消えちゃう名前じゃない。そんなもののために、赤ちゃんまで何か言われるなんて、かわいそうでしょ」


 舞は体を離して、優駿の顔を見つめた。


「あたしたちだけで背負えばいい。この子は、最初から志賀なんだもの。何も後ろ暗いところはないわ」


 小さな声だったが、はっきりと、有無を言わさぬ気迫があった。覚悟は、始めからあったのだ。


 優駿は、ポケットからビロード貼りのリングケースを取り出した。大きくはないものの、品よく光るダイヤの埋めこまれた指輪。舞は驚かなかった。ただ、嬉しそうに微笑んだ。


 それでも、念を押さずにはいられなかった。本当にそれでいいのか、と。舞は返事をする代わりに、左手を優駿の前に差し出した。



 指輪をケースから摘んで、外灯に白く浮かぶ薬指へ通す……。



 滑らかに進んだ銀の環が指の付け根に落ち着いたと思った瞬間、舞が弾かれたように左手を引っこめ、闇の中へ後ずさった。優駿が呆気に取られている間に、彼女は背を向けて滑り台の方へ二、三歩走り、そこでうずくまった。


 ぅえええっ、という、できれば今夜だけは聞かずにいたかった生々しい声。慌てて駆け寄ると、左腕だけを上へ伸ばした奇妙な体勢で、舞がティラミスとショートパスタの残骸を嘔吐していた。


 そうして指環を死守しながら、ついに彼女は悪阻を迎えたのだった。

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