訓読みジュリエット

二条千河

1 ひらがな

 平仮名?


 ほとんど反射的に訊き返した優駿ユウシュンに、まいは屈託のない笑顔で、「そう、ひらがな」と答えた。



 土曜とは言え午後遅い時間ということもあって、ファミリーレストランの禁煙席は割と空いていた。入店したときはまだ家族連れがドリンクバーに列をなしていたが、今は子連れの若い母親たちや中高年の夫婦が長話をしているテーブルばかりだ。


 もっとも優駿と舞も、他人のことは言えない。映画を見た後の遅い昼食を済ませてから、飲み物だけで一時間余りも居座っている。


「ひかりとか、のぞみとか。かわいいと思わない?」


「新幹線みたいだな」


「じゃあ、あやとかさやかとか。こころ、なんてのもいいかな。ほら、あたし、『舞』って画数が多いじゃない? 小学生のとき、なかなか自分の名前が書けるようにならなくて、苦労したのよね。優駿もわかるでしょ」


「まあな。習字のとき、やたらデカい字になったりして」


「名前がひらがなだったら、一年生でも書けるし」


 窓際のボックス席に座っている幼女の、おしゃべりする母親の横で暇を持て余している様子を盗み見ながら、舞は言う。


「だけど、男だったらどうするんだよ?」


「男の子でも……」


「ひらがなの名前の男なんて、会ったことないよ」


「んー、確かに、知り合いにはいないけど。でも、ありそうじゃない? たけしとか、きよしとか」


「いや、それはタレントの芸名だろ」


 んー、そうか、と黙り込んだ舞は、それでも諦めきれないらしい。少し眉根を寄せて考えこむ様子を、優駿は黙って眺めた。


 妊娠が判明したのは先週のこと。同棲を始めたのが一年前で、漠然とではあるが結婚の意思を互いに確認してから半年以上は過ぎている。社会的にはともかく、二人の中では順序の混乱はなかった。ただ挙式のタイミングは、何となく想定していたよりも早まることになるだろう。


 まだ悪阻もほとんどない今のうちに、いろいろな問題を片づけて、準備を進めていかなければ。舞の張り切りようは一見すると微笑ましいが、無邪気な表情に一抹の翳りがまとわりついているのを見逃すことはできなかった。


「うーん、ダメかぁ」


 舞が白い歯を見せた。やはりひらがなの男名が思い浮かばなかったらしい。


「ひらがななら、音読みも訓読みも関係ないと思ったんだけどなぁ」


 努めて明るく白状した彼女に、優駿は薄く雲がかかったような笑いしか返せなかった。



 狩野かのう舞は生粋の日本人だが、親の仕事の都合で幼いころは欧米圏を転々としていた。父親が亡くなって母と共に帰国した後も幾度か居を替えたが、いずれも大都市のベッドタウン。だからきっと、知識としては持っていても、実体験が乏しいのだ――つまり、幸いにも、自分がの対象であることを実感する機会のないまま育ったのだ。


 訓読み姓に生まれたというだけで、音読み姓の人間から蔑まれ、就職や結婚の障害になる時代があったことを、最近の子どもたちは知らないだろう。今年で二十八歳になる志賀シガ優駿にしても、日本は平等な国だと信じて育ってきた。訓読みのクラスメイトが、それだけの理由でいじめられたという話も聞いたことはない。


 そもそも、日本の苗字の大半は訓読みだ。一握りの音読み姓が大多数の訓読み姓の上に立つピラミッド構造なんて、完全に時代遅れなのだ。


 と、理性ではわかっている。だが優駿は、差別感情が理性とは別の原理で伝わるということも、身をもって理解している。


 例えば父だ。厨房にも入るしスマートフォンも使いこなす現代的な父親ではあるが、こと音訓の問題になると、人が変わったように頑迷だった。野球中継でひいきのチームの選手がエラーしたときに、「ちっ、だから平仮名は」と舌打ちする父の横顔は、幼心にも恐ろしかったものだ。


 漢和辞典を見ると、よく音読みはカタカナ、訓読みはひらがなで書かれている。それが由来なのだろう、父は訓読み姓の人を罵るのによく平仮名という言葉を使った。だから舞が「子どもが生まれたら、ひらがなの名前にしよう」と提案したとき、優駿は思わず耳を疑ったのだ。



「名前の方は、そんなに気にすることないさ。親父がこだわるのは、あくまで苗字のことなんだから」


「うん……」


「親父は頭が古いんだよ、今どき音読みだ訓読みだって。結婚したらどっちみち、舞だって子どもだって志賀になるんだしさ」


「ユウシュン」


 その音の響きを確かめるように、舞が呼ぶ。


「出会ったばかりのとき、あたし優駿のこと、まさとしって読んだことがあったの。覚えてる?」


「何だよ、いきなり」


「そのとき、優駿、すごくイヤそうな顔してたよね」


「ええ? 覚えてないよ、全然……」


 舞は黙って視線を横へ投げた。今どき珍しい真っ黒な髪が、その頬にかかる。


 かつて一度だけ、誰かに――はっきりとは言わないが、たぶん元恋人に――勧められて、茶髪に染めたことがあったそうだが、「鏡を見てみたら、あまりに似合わなかったので」勧めてきた相手にも見せずにすぐ元へ戻したらしい。優駿は、彼女が髪色や体型や服装を変えることを望んだことはないし、変えることに反対したこともない。関心がないわけではなくて、どんな身なりをしていても、舞が舞であることに変わりはないからだ。


 シャンプーの宣伝に出演してもおかしくないくらいの、というのは少々ひいき目が過ぎるかもしれないが、美しくまっすぐな黒髪を眺めながら、優駿は記憶をたぐっていた。しかし、舞に読み間違えられて不愉快な顔を見せたことがあったかどうか、まったく覚えがない。


 ただ、学生時分の出欠確認で初対面の教師から名を訓読みで呼ばれ、返事をしなかったことは幾度かあった。もっともそれは、違う名前で呼ばれたのが気に入らなかったのであって、音訓の問題ではなかった。……と、優駿自身は思っている。


 思い出すことを諦め、彼女の視線を追って窓辺を見た。さっきまで小さな女の子と若い母親たちがいたはずのテーブルには、グラスとカップとデザート皿と、柔らかな春の日差しが取り残されていた。


「舞のお母さんは、調子どう?」


「うん、元気」


 かなりあからさまな話題転換だったが、舞はあっさりと応じた。


「式はいつ挙げるのかって、顔見るたびに言われる。よっぽど楽しみにしてるみたい」



 彼女の母親とは、妊娠が判明する前に一度、このファミレスで会っている。婚約が決まった直後に――といっても正式なプロポーズは、今もまだしていないのだが――ちょうど用事があって近くまで来ているからと、急に顔合わせをすることになったのだった。


 夫に先立たれてから女手一つで舞を育て上げ、娘が就職して家を出た後も介護施設で働いて老父を養っている、たくましい母親だと聞いていた。が、会ってみると意外にもおっとりとして、そういう雰囲気も娘とよく似ていた。外見も、背を低くしてパーマをかけて少し皺を足した舞、という具合だ。


 その母親が話の端々にさりげなく、しかしくり返し紛れこませたのが、音読み姓である志賀家への気兼ねだった。もともと舞の母親は旧姓を佐藤サトウといい、夫が亡くなった後に娘の将来を考えて苗字を戻そうかと悩んだこともあったという。しかし生前の夫は一人娘を殊のほかかわいがっていたし、娘も父親が大好きだった、だから再婚せずに狩野の子として舞を育て上げようと決意した。


 ……と、そこまでは割と感動的な話で、頷きながら耳を傾けていたのだが、狩野は鎌倉・室町時代に高名な絵師を輩出した由緒ある苗字で、同じ訓読みでも山田やまだとか川上かわかみなどといった姓とは格が違うと主張されると、返す言葉に窮した。父が聞けば、平仮名同士の下等な罵り合いだと鼻で笑うだろう。


 もっとも、音読み姓同士の間でもいろいろとあるらしい。たとえば舞の母親の旧姓だという佐藤、それに斎藤サイトウとか加藤カトウとか工藤クドウとかいう所謂「藤姓」は、もともとは藤原ふじわら氏から派生した「転び訓読み」なのだと、父と親類の誰かが話しているのを聞いたことがある。それに藤姓は全国どこにでもたくさんいて、「人数の多い苗字ランキング」の上位を常に占めているというのも、稀少性を誇る音読み軍団の中で軽んじられる理由になっているようだ。


 そんなわけで、舞の母親が半ば思い詰めた表情で、「どうしても狩野姓で娘の結婚にケチがつくなら、今から佐藤姓を名乗ってもいい」と言い出したときには、慌てて制止した。どっちみち佐藤じゃダメだ、とも言えないので、父も舞のことは気に入っているから問題ないと言ってその場は収めた。昔から喘息を患っているという母親は、発作を起こすこともなく、いくらか安心した様子で帰っていった。



「赤ちゃんができたって言ったら、お母さん、泣きながら仏壇に手を合わせてた」


「喜んでた?」


「決まってるじゃない。優駿のご両親は違うの?」


 眉間を曇らせた不安げな表情も、母親似だ。優駿は急いで頭を振った。


「舞の子なら男でも女でもかわいいに違いないってさ。俺には似ない方がいいって言うんだ、まったく自分たちの息子を何だと思ってるんだか」


 わざと大げさにため息をついてみせると、ようやく舞は少しだけ離れ気味の、キラキラ光る目で笑った。


 優駿は舞のそういう表情が好きで、だから出会えてよかったと本気で思っている。たとえ彼女が訓読みの生まれだとしても。

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