ライトノベル・シェアハウス

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ライトノベル・シェアハウス

 西日暮里にライトノベルに関わりたい人のためのシェアハウスがある。ここに住む僕は朝食の準備を始める。今日は朝食を作る当番だからだ。高校指定のワイシャツが汚れないように冷蔵庫の脇に掛かったエプロンを手に取る。

 赤いギンガムチェックは共同スペースの雰囲気から明らかに浮いていると思う。共同スペースの本棚には千冊を越えるライトノベルが収納されており、文庫別に仕舞っているはずなのに背表紙は色鉛筆みたいにカラフルだ。

 僕がグラフィックデザイナーを目指すきっかけになったのは、小説の背表紙に気持ちよさを感じたからだ。デザインを統一し、色を変える。漫画ほど自由でなく、一般文芸ほど型通りでない調和の取れた変化が好きだ。いずれはライトノベルの装丁をやりたいと考えている。

 ぼんやりと部屋を眺めていたら、奥の部屋から女が出てきた。しずしずと歩く様子は春の空にぽつりと浮かんだ雲のようだ。僕がそんな風に思うのは彼女の格好に原因があった。袖なしタートルネックの白いセーターは、リブが伸縮して身体の凹凸がありのままに現れている。

 見惚れたことを勘付かれたくない。僕は先に口を開いた。

「おはようございます、沢名さん」

 沢名さんは二つ年上の十九歳で大学生。春から一緒に住むようになってもう半年が経つけれど、同世代の異性と同じ屋根の下で暮らすのは未だに慣れない。

 僕の挨拶を受けて「ん」で片目を閉じながら、

「ん。おはよう」

 落ち着いた言い方で返した。

 エプロンを羽織った時、沢名さんは僕のすぐとなりで冷蔵庫を開ける。

「コーヒーなら淹れますよ」

 沢名さんの髪が揺れた。色素の薄い髪を、首の後ろのまるい骨が出た辺りで、黒い飾り気のないヘアゴムで縛っている。長さが足りず結いきれなかった髪が生え際からちょろっと出ていた。

 冷気が、すぅ、と僕の足元に忍び寄る。扉を開けっ放しにしたままで沢名さんは難しそうな顔をして、

「オレンジジュースも捨てがたいが……、うん」

 冷蔵庫の扉を閉めた。

「私は君の淹れたコーヒーを所望する」

 クールな声質で答えると、ダイニングテーブルの所定の位置に着く。

 腰紐を蝶結びにして準備を完了する。手早くコーヒーと朝食を作った。炊飯器から白い湯気が立ち上り、甘い香りが漂ってきた。

 IHヒーターの電源を入れ、振り向かずに確認だけ取る。

「朝食は昨日の残りの鍋で良いですか?」

「ああ、あれは実に美味だったね。構わないよ」

 電子レンジの上に置いたケトルに新しい水を入れてスイッチを押し込む。冷蔵庫から鮭の切り身を三つ取り出す。フライパンに並べて焼き上がったちょうどその時、ケトルから湯気が立ち上り、ぱちっ、とスイッチが切れる。

 この間ずっと僕は沢名さんの視線を背中に感じていた。

 沢名さん用のカップにドリップコーヒーの厚紙を挟んで、ケトルのお湯でフィルターペーパーに入ったコーヒー豆の粉末をきっちり十秒の間だけ蒸らし、ちょうど良い量になるよう二回に分けて注ぐ。香ばしい匂いがしてきた。ドリップコーヒーの厚紙を外し、コーヒーの水滴を切った後、僕用のカップに取り付ける。

「できましたよ」

 取っ手を沢名さんの左側に向けて差し出した。

「ん。ありがとう」

 彼女はテーブルに備え付けの瓶からスプーンを取り、瓶に並んだ銀の缶からお砂糖をすくって、コーヒーカップに一さじ、さらに一さじ入れ、取っ手を押さえながらそのスプーンでかき混ぜる。

 使い終わったスプーンを差し出してきたので受け取った。

「さっき、僕のこと見てませんでした?」

「見ていたよ」

 コーヒーカップを半回転させながら、感心した風に答えた。

「どうしてですか?」

 沢名さんは僕を一瞥してカップに視線を戻し、しとやかにコーヒーを口に運ぶ。すっ、と音を立てずにカップを傾けた。テーブルにカップを置く。沢名さんが口を付けたところにコーヒーの薄い茶色の膜が付いていた。

 僕は沢名さんの視線に気づいて顔を上げる。意地の悪い微笑みが目の前にあった。

「男子高校生を観察しないライトノベル作家がいると思うか?」

 僕は「はあ」と返す。たしかにライトノベルの主役はほとんど男子で高校生なのは分かるけれど、そういう変人と思われそうなことをぬけぬけと言うところこそ、彼女がライトノベル作家である所以なのかも知れないと思った。

「観察して何か分かるんですか?」

 沢名さんが口をオーの形にして、神妙そうに歎声をもらす。

「ああ、いや、僕は文章とか詳しくないですから」

 かろうじて取り繕った。彼女はおもしろくなりそうだと思ったら本当のことを言ってしまう。どうせ見透かされているのは分かっているけれど、言葉にしてしまっては今後も一緒に暮らすのはしんどそうだ。

 沢名さんは背もたれに体を預け、股の辺りで指を組む。悔しそうに見えた仕草だが、胸のふくらみが二の腕に挟み込まれて形を変えたのに気づく。本当は悔しくないんじゃないかと邪推してしまう僕だった。そんな僕をそっちのけに自分の指を眺めながら答える。

「文章ね。うん、変わるよ」やや間を置いて、「そうだねぇ。まず言えることは小説の文章は三つに分けられる、ということ」たっぷり含みを持たせて言った。

「三つ、ですか」

 僕は反芻して耳を傾けているポーズを表した。現役の小説家から直々に文章の話を聞けるのは滅多にない。なのに炊飯器がま抜けた電子音の『アマリリス』を鳴らす。一旦振り向いてフライパンの上の鮭を一枚ずつひっくり返し、IHヒーターを弱火に設定した。特に焼き目のない三つの切り身に蓋をする。

 一息ついたところでテーブルに戻ってケトルを手に取った。自分のカップに取り付けた二番煎じのドリップコーヒーはもう充分に蒸れているのでお湯を三回に分けて注ぐ。厚紙を取り除いて小皿に乗せた。

 コーヒーをすすっていた沢名さんはカップをテーブルに置く。続けて「何か知っている小説の文章を言ってみてくれないか?」と言うので僕は「メロスは激怒した」と答えた。

「太宰治『走れメロス』の冒頭だね」

 沢名さんは中指の第二関節でこめかみを指圧して「ええと」ともらす。こめかみから指を離し、手のひらを差し出すように広げ、下唇を舌で舐めると、声のトーンを一つ下げて語り始める。

「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。……だったかな」

 正誤を求められても分からない。たぶん合っているような気がするけど、小説の文をそのまま覚えているなんて芸当、普通の人間ができるだろうか。

 僕が腰紐を掴んで黙っていると、続けて「どう思う?」と訊いてきた。

「文章のことは分からないですよ」

「いいから」一蹴された。

 声色はいつもの調子に戻っているから怒っているわけではなく、単に沢名さんという人の本性が出ているだけだと思う。いや、思うことにした。僕は紐に通した指を抜く。

「メロスの説明だと思いました」

 沢名さんが白い前歯をちらりと見せる。

「そう。小説の文章を三つに分けた時、まずは『説明』が挙げられる」続けて「試しに朝食をいただく私たちを説明してみよう」

 僕は食器棚から三人分の茶碗とお椀、小鉢を取り出し、黄色い茶碗をテーブルに伏せ、残りの赤と青の茶碗を炊飯器の傍らに置く。炊飯器を開けると熱々の湯気がのぼる。水で濡らしたしゃもじで、ご飯をざっくばらんにほぐして水気を飛ばし、赤い茶碗にはほどほどに、青い茶碗にはこんもりと盛った。鍋を温めるコンロを止め、お椀の一つはテーブルへ伏せ、残りの二つに、湿った木くずのような甘い匂いのするスープをよそう。スープの表面がつやつやとしているのは豚肉から滲み出た脂のせいだ。フライパンの蓋を開けると海の香りが漂う。鮭の上が白くなっているのを確認し、ひっくり返してコンロを強火の設定にする。冷蔵庫から琺瑯ホーローの容器を取り出し、中に入ったほうれん草のおひたしを小鉢に移す。僕と沢名さん、それともう一人分の朝食をテーブルに並べた。

「今日の朝ごはんは、ほうれん草のおひたしと昨晩の余りのきのこ鍋。それから焼き鮭。焼き鮭はもうすぐ出来ます。……説明する、というとこんな感じですか?」

「そうだねぇ。男子高校生の作る料理をテーマにした小説ならそれくらいは説明したいかな」

 頬に手を当てて高齢の猫みたいに目を細める。それからすぐ、取り澄ましたような涼しい顔をした。

「いや、この小説は私の担当イラストレーターが同居している義理の妹だったということにしよう」

 突拍子もない提案に呆れながらも、「義理の妹なんていたんですか?」とツッコミを入れたが無視された。未だ起きてこない同居人の部屋を眺めているところを見るに、どうやら空想中のようだ。僕は食器棚から四角い平皿を取り、木べらを使って焼鮭を取り分ける。何気ない朝の風景という奴だ。

「できましたよ」

 箸を沢名さんに渡し、向かいの席につく。

「うん。もしそういう小説なら、朝ごはんに何が出てきたかなんて説明はいらない。つまり、私は朝食を食べ

























た。……で良い」

 僕はすっかり空になった自分の皿を見て、「なんだかすごく間が空いたような気がするんですけど」と感想を述べた。朝食を食べている間、今日の天気の話とか文化祭でライブペインティングをやることになったとか他愛ない会話をしていたのだが、一切合財みな煙のように立ち消えた。

「まあ、私たちは小説の中の人間じゃないからね」ほうれん草のおひたしをつまんだ箸を小鉢から茶碗までゆっくりと移動させながら、「朝食を食べ始め、そして食べ終わるまでの時間が、小説の一行を読むのと同じ時間が掛かると思うかい?」 

「そうですね。人によって食べるスピードは違うと思いますけど。それはそうと沢名さん、早く食べてくださいね」

 沢名さんは眉をぴくりと上げる。

「味わって食べてるんだ」

 箸でつまんだおひたしを口に放り込んで噛み殺すように咀嚼した。

 僕は自分の食べ終えた皿を重ねてシンクに置く。流水で器に付いた脂を落として、水を止め、黄色いてるてる坊主みたいな顔をしたスポンジに食器用の洗剤を馴染ませた。スポンジは使いたての時はトボけた笑顔をしていたのに、今は唇が縦に割れている。不気味な顔面を平皿に押し付けた時、後ろからまた視線を感じる。今度はブツブツと沢名さんの独り言も聞こえてきた。

 聞き耳を立てるのは良くないと思ったが、「男子高校生が流し場に立つ姿は、まるで柿の木に生った桃のようだ」明らかに僕のことだったので、カチャカチャ、という食器の当たる音を出さないように気をつけた。

「そのエプロン姿なんて子犬のしっぽにお砂糖をまぶしたみたい。こうして朝を共にする私たちだけど、本当のところはクラシックとジャズくらい違っている。寝坊している彼女はジョン・ケージのオルガンかな」

 つぶやきが終わったようなので蛇口をひねって泡を洗い流した。自身の手についた脂汚れも洗剤で落とす。乾いたタオルで手首まで丁寧に拭いながら沢名さんに振り返る。

「なんですか、それ」

「描写だよ。これが二つめ。描写をする時、ほとんど時間が止まっていると言っていい」と言って、「もちろん小説の中では」と壁掛け時計を指した。

「まずい、学校に遅刻する」

 椅子に置いたカバンを取る。

「その格好で学校に行くというのも悪くないと思うよ」と僕のエプロン姿を指摘した。

 僕はハッとしてカバンを椅子の上に置いて、片手でエプロンの腰紐を引っ張って緩める。もう片手は頭に通した肩紐を掴んで、頭の上で布をくるりと反転させながら脱ぎ、冷蔵庫の横に張り付いたフックに肩紐を二つ重ねて引っ掛けた。

 沢名さんが「そして三つめは『場面』だ。読む時間と物語の時間の流れ方がほとんど変わらないもの」と言い終わる頃には、僕はカバンを肩に通してローファーに片足を突っ込んでいた。

「ライトノベルはほとんど『場面』で構成されている。この忙しない朝の時間と同じようにね」と誰にでもなく投げかける。

 僕は靴を履き終えた。

「それじゃあ行ってきます!」

 沢名さんは優雅に微笑んで「ああ、行ってらっしゃい」と返した。

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