第六話 しょうもない(近藤勇)
そこそこに器量よしで、そこそこに裕福な料理屋の娘だ。商売上手な二親の笑顔を手本にして育ったから、愛想がいいとか気が利いているとかと、ほんの子供の時分から言われてきた。
御陰様で嫁の貰い手には困らなかった。手習い仲間の同年輩の娘の中で真っ先に祝言を挙げたのは、ていだった。
嫁いだあの頃が山の頂だったのだと、ていは思う。島原に馴染みの女がいた夫は、ていにろくすっぽ関心を示さず、二人の間に子も生まれないうちに何某かの病を得てあっさり死んだ。
料理屋に出戻ると、ていは、嫁ぐ前と同じようにきりきり働いた。が、跡取り息子である弟が嫁を取ってからはそうもいかなくなった。ていは、暖簾分けだか厄介払いだかわからない格好でよそに店を一つ任されることとなり、結局、三十路も半ばの行き遅れとなっている。
ていの店の客は、刀を帯びた強面ばかりだ。一つきりの座敷に客を通し、はんなりと色鮮やかな京風の料理と少しばかりの酒を出すのが、どうやら武士の密議の場にちょうどよいらしい。
いつ頃から京都に田舎臭い武士が増えたのだったか。そんな男たちが初めて店を訪れた日は、ていも無論、ぎょっとした。ほんまに何もされへんやろかと、客がいる間中、気が気ではなかった。
とはいえ、客は客だ。ていが毛嫌いを面に出さずにもてなしてやれば、島原でこの店の噂を聞いてきた、馳走になるぞと言った西方訛りの武士は、悪い客ではなかった。金払いはきちんとしていたし、それなりに愛想もよかった。存外おとなしい酒の飲み方をしてもいた。
その最初の客は、五六人での密議の宴席を幾度かに渡って設けた後、一月ばかり経つと、首だけになって三条河原に晒されていた。
あれはどこの国の何者で、何の罪で死んだのだったか、ていはもう忘れてしまった。ていの店を訪れて食事をし、料理を誉め、おかみさんは別嬪だと世辞を言ったりなどした帯刀の客が程無く鬼籍に入ることは、珍しくもないのだ。
だから、近藤勇という名の東国の田舎武士も、すぐにいなくなると思っていた。
四角く厳つい顔に、分厚い体躯をしている。一見、ひどく大きく硬く恐ろしげな印象を与える男だ。恐ろしげとはいっても、その佇まいは鬼というより、
色男やないけれども、男前。
そう思った。初めから、なぜだか。
近藤は妙に無邪気なところがある。握り拳が口の中に丸ごと入るのだと、宴席で奇妙な特技を披露して周囲の者を笑わせた。ていも笑った。近藤は、拳を口に入れるより口から取り出すほうが実は難しいのだと、これまた奇妙な裏話を皆に語った。皆、また笑った。
馳走になるぞと、近藤が大きな体を屈めながら切れ上がった目を細めると、ていの胸はふわりと温かく弾む。夜更けに去っていく後ろ姿を見送ると、次に会うときも彼の首は胴体に繋がっているだろうかと不安になる。
このざわつく胸を、どう
あかんわ。ほんまに、あかん。
気になる男の前で浮わついてしまうなど、熟し切れぬ小娘のすること。ていは、それより二十も年を重ねている。今更、男の一挙一動にいちいち頬など染めるものではない。
わかっていたはずなのに、なぜ。
***
昆布の出汁を取る。ふつふつと、水が湯に変わっていくにつれ、御天道様の光が縁側に届くときのように、柔らかな黄金色を帯びてくる。
その黄金色を、なるだけ汚してはなからない。出汁そのものの持つ、甘くふくよかな香りとほのかな味わいも、濁してもならない。
干物のあらめは水を吸わせて柔らかく戻し、ざっと荒って、ざるに開けておく。
あらめを出汁に入れ、塩と酒と砂糖、それから少しの醤油と一緒に煮立てる。ふわりと立ち上る甘やかな臭みは、近藤が言うには、海の匂いだそうだ。あらめは温かい海の底に生え、ゆらゆらと波に揺らぎながら育つ草である。
ほんの一煮立ちでよい。煮すぎれば、歯触りも何もなくなってしまう。あらめに熱が通ったら、御揚げを入れ、
ていは淀みのない手付きでそこまで終えると、ほう、と息をついた。このところだんだんと暖かくなって、明けやらぬ刻限の板場でも息は白くない。
かさついた両の手の平で己の頬に触れ、唇に触れる。息を継ぐのも忘れて女の悦びに酔い知れた、つい先程までの火照りは肌の奥深くに沈んでいって、今、ていの指には触れない。ていの手は板場の匂いに戻ってしまった。男の汗ばんだ肌と青臭い精の匂いはもう、わずかも残っていない。
空が淡い朝ぼらけに滲む中を、近藤は壬生へと帰っていった。情を交わした体を寄せ合って眠り、一緒に朝を迎えたい。ていはそう思ったが、口には出さなかった。ていを抱いた後の近藤がゆっくりしていった試しなど、一度もない。
いや、先程は、引き留めるような格好になってしまったかもしれない。未練がましかったかもしれない。
あらめと御揚げの炊いたん、お好きどすやろ? これから炊きますえ。今日は八日やから。ああ、京都では、月のうちで決まった日に決まった
召し上がっていかはらへんやろかと、胸の内に期待を抱いてしまっていた。だからこそ、今晩また隊士を連れて食べに来ようと近藤に笑顔で告げられたとき、ていは落胆した。晩ではない。壬生狼にぞろぞろ来てもらいたいわけではない。近藤ただ一人に、今ここにいてほしい。
叶わぬ想いだ。
近藤のほうが自分よりも四つも年が若いと初めて知ったとき、そっと心が傷付いた。男は三十路で男盛りとされるのに、後家の三十路女など哀れなもので、しおれて枯れゆく一方だ。若い娘のはち切れんばかりの瑞々しさに羨望と嫉妬をいだくよりほかにない。
さりげなく近藤の仲間や部下の者たちに尋ねると、近藤は妻もいれば芸妓にも持てるという答えが返ってきた。これには、ていは思いの外、傷付かなかった。きっとそうだとわかっていたのだ。閨の近藤はあまりにも佳い男だったから。
酒の弱い近藤が、疲れも重なっていたのか、一口、二口ばかりで青い顔になった宵があった。ていは手厚く介抱した。そして、一眠りしてすっきりした様子の近藤を、ていは床に押し止め、覆い被さって口を吸った。
混じり合う唾液の味に酔いながら、ていの心は逸った。ていは近藤の分厚い手の平をつかまえ、いつしか乱れた裾の割れ目から、もっちりと肉付いた腿へと導いた。いいのか、と短く問われ、訊かんといて、と答えた。そない野暮なこと、言わんといて。今は、ただ。
男が欲しかった。男に抱かれたかった。生まれて初めての衝動だった。
恍惚を得たことのなかったていの体の奥は、錆び付いたように固く窮屈で乾いていた。だから、痛くても苦しくてもよいと覚悟していた。こんな不憫な体一つで、けれど、今この時だけは近藤を繋ぎ止めておける。この場所に。ていの中に。それが誇らしかった。
が、一つも痛くはなかった。近藤は手練れだった。憎たらしい程に熟練した指は、舌は、腰は、とてつもなく甘く激しく狂おしくて、震えるていをたちまち骨抜きにした。生娘よりも頑固なはずの古びた体はあっさりと開き、潤った。
あれ以来、ていは毎夜のように飢えて焦がれている。ひとりでに蜜はあふれて止まらないのに、ていの心はひたすらに渇いている。近藤が欲しくて欲しくてたまらない。
近藤は体中がごつごつと硬く、首も腕もびっくりするほど太く、手の平の皮膚はごわついて、ていとは何もかもが違う。そのくせ、吸っても何も出やしないていの乳を一心に吸うときの、まつげの掛かった目元と濡れた舌の柔らかさはどこか頼りなげで、
ふと、声がした。
「おかみさん」
ていが振り向くより早く、若い男の肉体がどすんとぶつかってきて、ていを後ろから抱きすくめた。
「何や、菊。もう起きてきたの」
菊太郎の歯噛みをする音が耳元で聞こえた。食い縛った歯の間から押し出された低い声が、ていの首筋に触れた。
「眠られへんかった。おかみさんかて、わかってはるやろ。
「あら、口だけは一人前なことを」
ていの店に菊太郎が転がり込んだのは、近藤に時折抱かれるようになって少し経った頃だ。たどたどしく舌に載せた菊太郎という名は、きっと偽名だった。ようやく髭が生えてきたといった様子の、まだ柔らかい肌をした男で、二十二だと本人は言うものの、おそらく本当はもっと若い。
どこぞの板場で修行をしていたが、こっぴどい目に遭わされて逃げてきたのだそうだ。空腹のあまり店先でうずくまっていた菊太郎に、ていは気紛れに情けを掛け、握り飯と一椀の汁を与えた。そうしたらひどく懐かれてしまい、後生だから働かせてほしいと頼み込まれた。
菊太郎が板前を目指していたのは嘘ではないだろう。包丁を持たせてみると、それなりに様になる手付きだった。皿を洗ったり火の番をしたりといった、板場のこまごまとした仕事も、難なくこなしてのける。
菊太郎は役に立つ。店の金回りには余裕がある。だから、ていは菊太郎の面倒を見ることにした。店主と奉公人という、初めはそれだけのはずだった。
狂ったのは、狂わせたのは、ていだったのか、菊太郎だったのか。
「なあ、おかみさん、
骨っぽく細い腕のどこにそんな力があるのか。ていがどうやったって振りほどけないほどの力で、菊太郎は、ていを掻き抱いて離そうとしない。
菊太郎、
そう突き放すことができないのは、菊太郎が男として愛しいからではない。
男なら誰でもよかった。近藤でないなら、誰だって同じなのだ。渇きのあまり蜜を流して泣くていの奥を満たし、掻き混ぜ、哀れんで
ていはある晩、菊太郎を使った。ちょうどそこにいたから。うちはちょいと手が離せへんから御鍋を見といてだとか、今日は天神さんに市の立つ日やから御使いに行ってだとか、そんな用事を頼むくらいのつもりだった。
だって、せやろ。一回りよりももっと年の離れた後家に迫られて、立場の低い若い男が、仕方なしに。そんなんで終わって、あれは悪い夢やったんやと、忘れてしまえばええだけの話やったんえ。
「阿呆や、菊は」
何で逃げ出さへんの。鬼女に取って食われた言うて、どっかへ行ってくれてよかったのに。
「ああ、
「菊」
「裸になったときかて、なんぼ
「それは違う」
「どうせ
「違うわ、菊」
あの人はあの人や。ほかの誰も、あの人の代わりにはなれへんの。御前、
ただ、菊太郎のもどかしさは、ていにもわかる。一番愛しい人の一番には、どうやったって、なれない。
一月程前、近藤に、俺の妾になるかと問われた。考えときますわ、と笑って答えた。むなしくなった。近藤が帰って一人になって、泣いてしまった。
近藤は江戸に妻を残してきている。子供もいるという。島原の芸妓を落籍し、妾に囲って子を為させたとも聞く。馴染みの女は、花街にも市井にもたくさんいるらしい。
無理に手込めにしたのではない。女を心底から惚れさせてしまう何かが、近藤には備わっている。幾人もの女を待たせ、喜ばせ、そして泣かせるだけの甲斐性がある。
ていは、今は、妾になるともなりたくないとも答えられない。近藤が欲しい。でも、うちは何番目なんやろかと考え始めると、溜め息と涙が止まらなくなる。近藤が慈しんでいる、ていが会ったこともない美しい女たちへの嫉妬が、抑え切れなくなってくる。狂いそうになる。
いずれは、近藤に面と向かって答えを求められれば、きっとこの口は、妾になりますと答えてしまうだろう。そして、近藤の一番になれない苦しみを、妾という立場と肩書によって、はっきりと、ていは突き付けられるのだ。
近藤に一番を選んでほしいなどと思っているわけではない。近藤は甲斐性と浮気性を存分に発揮してくれればよい。そうでなくては、ていは捨てられる。孤独に打ち震えながら泣き、近藤の選んだ女を恨み、渇きの癒えぬ寂しい体を持て余し、ついにはきっと鬼になってしまう。
不意に、ていの首筋を菊太郎の口が強く吸った。
「菊、おやめ」
「悔しい」
「阿呆なこと」
「あんたが欲しい。今すぐ」
「何を……」
ていの溜め息を引きちぎって、菊太郎は、ていの口を塞ぎ、舌を絡め取った。ていはささやかに抵抗した。菊太郎の薄い胸を、形ばかりは突き退けようとしてみた。
あかんわ。ほんまに、あかん。
どろどろと、あるいは、ざらざらと。ていの体の中で、濁った熱が疼き始めている。近藤に溶かされたばかりの深い場所から、つ、と伝い落ちるものがある。
ていは目を閉じた。強い渇きを覚えた。まぶたの裏に、愛しくて憎たらしい男の姿がくっきりと浮かんでくる。
「しょうもない男」
呟いて、笑った。
目を開ける。若い男の顔が、欲情と悲哀に歪みながら、ていを見下ろしている。男の体温と息遣いがここにある。何かを言い差した菊太郎の口を、ていは自ら口付けて封じ込めた。
そしてまた、ていは笑った。
もっとしょうもないのんは、わかっとる。うちのほうこそ、ほんまにどないしようもない。しょうもない女や。
春の陽気が、菊太郎の開けっ放しにした戸口から通り庭に忍び込んでくる。鬱陶しいと、ていは思った。朝など、春など、来なくてよい。暗く隠微な夜の中に閉じ籠って、もういっそのこと、壊れてしまいたい。今すぐに。
【了】
【短編集】壬生狼小唄 馳月基矢 @icycrescent
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