第五話 男が惚れた男(近藤勇)

 はん出身の隊士、ぐちけんが腹を切った。

 文久三年十二月二十七日。新選組が間借りして屯所と定めた前川邸の一室でのことだ。


 年の瀬を前にしたの表通りは慌ただしげだった。やれ餅つきだ、やれせちたくだと、白い息を吐く人々が行き交っていた。あと三日だけ生きれば野口は二十二になるところだったが、年を越すことなく死んだ。


 野口の切腹に立ち会ったあんどうはやろうは、介錯人であったさいとうはじめと共に遺体の始末を手短に済ませると、その足で、目と鼻の先にある八木邸に赴き、かねてから約束されていた餅つきの手伝いをした。


 こんどういさみは夕刻になって出先から帰り、切腹が首尾よくおこなわれたとの報告を受けた。報告したのは斎藤だ。


 立ち話で済ませられる用件ではない。近藤は屯所の自室に斎藤を招いた。じわじわと這い上がってくる底冷えの中、灯火を引き寄せて明るさとぬくもりを確保すると、斎藤に酒を勧めた。近藤はほとんど下戸であるから、台所からもらってきたのはである。


 よわい二十はたちの斎藤は茶碗酒を一息にあおると、真っ直ぐに顔を上げ、大きな目の底に冷ややかなおきをともして告げた。


「見事な最期だった」

「そうか。観念していたんだろう」

「少しだけ震えていた」

「仕方ねえさ。人生で一番の大舞台だ。かいしゃくは、斎藤が?」

「ああ」

「だったら、苦しまずに逝ったことだろう。なきがらは光縁寺に運んだのか?」


 斎藤はうなずいた。

 灯火が斎藤の顔に光と影を投げ掛けている。眉が太く、鼻筋が通り、額も唇も形がよい。しゃっ気にはうといが、整った顔立ちである。


 しかし面構えが変わった、と近藤は思う。近藤率いる試衛館派が京都に出てきて一年足らずのうちに、斎藤は様変わりした。


 少年めいた丸みのあった頬は削ぎ落としたかのように薄くなり、今では顎や喉の骨が目立つ。もとより無口で感情を表に出さないたちだったが、静けさと暗さが深みを増した。その奥に押し込められたせいかんさとどうもうさは異様な輝きとなってまなざしに宿り、見つめ合う相手をすくませる。


 人を斬った後の斎藤はことさらに凄絶だ。暗く静かな影をまとい、精悍で獰猛な眼光を強め、妖気さえ漂わせながらひっそりとたたずんでいる。


 野口は、そんな斎藤の佇まいを美しいと言った。どうしようもない色気がある、と。あのまなざしに射抜かれ、心をとらわれ、もう如何いかんともしがたい、と。


 酒で濡れた斎藤の唇が動く。

「なぜ」

 ささやく声がそれだけを問うた。


 なぜ野口が腹を切らねばならなかったのか、と問いたいのだろうか。問いの答えを察せられぬわけではあるまいに。


「野口は、せりざわさんが水戸から連れてきた。俺たちと芹沢さんでは、うまくいかなかっただろう。たった半年で決裂しちまった。考え方が合わなかったんだ」

「考え方」


「勤皇派を抑え、ぼうさまを御守りして公武合体を目指し、じょうを断行する。成したいことは、俺たちと芹沢さんで確かに同じだったはずだ。それがなぜか、いつからか、噛み合わねえと感じるようになった。いや、最初から噛み合ってなかったのを、俺が気付かなかったのか」


 踊らされてたまるか、と言い放つひじかたとしぞうの凛とした声が、その牙を剥くような顔が、近藤の脳裏に焼き付いている。


 江戸で浪士組の募集が掛かったのは昨年のことだ。将軍、とくがわいえもちが京都に上るにあたって警護をしたいと望む者は、武士でも郷士でも構わぬから名乗りを上げよ。鍛えた腕っ節で以て勤皇派の魔手から将軍を御守りせよ。


 京都は攘夷論と倒幕論とを巡り、あらゆる勢力が入り乱れてあい争っている。過激な勤皇派は幕府の敵であり、将軍の暗殺さえ目論む者もいる。近藤たちはそう聞かされていた。


 だが、今年二月、京都に到着してみると、浪士組を率いたしょうない藩のきよかわはちろうは態度を一変し、勤皇派と勢力を合すると言い出した。


 近藤は困惑した。

 試衛館に集う剣客たちを率いて京都までやって来たというのに、なぜだ。意気揚々と故郷を後にしてきたというのに、なぜなのだ。心に堅く誓った戦いの理由を、なぜいまさら、唐突に引っ繰り返されなければならないのか。


 水戸藩出身の芹沢かもが立ち上がり、吠えた。

 勝手にしやがれ! 儂は儂の信ずることをする。あんたらと別れて、この京都で将軍を御守りする。そのために戦うのだ!


 芹沢の熱と勢いに打たれ、近藤も立った。そうだ、困惑などしている場合ではない。それが許される立場でもない。芹沢が示した信念こそ正しいと思った。


 近藤と共に立ち上がった土方が、鋭く言い放った。

 踊らされてたまるか!


 そう、その通りだ、と近藤は感じた。何者が作った筋書きに乗せられ、踊らされるだけの道化になど、誰がなるものか。


「俺たちの力はまだ小さい。京都中に新選組の名を轟かせるためのおおとりものが必要だ。そいつを成すには、新選組は一枚岩でなければならん」

「六月に大坂相撲の力士を倒した」

「力士は勤皇派でも長州藩でもねえ。あんなのは、喧嘩に勝っただけじゃあねえか」


「八月十八日の変では、護衛に当たった。あいの殿様から誉められた」

「そうだな、誉めていただいた。そして、新選組の名をたまわった。これからもどんどん腕を振るってみせよと、微笑んでおっしゃった御顔が忘れられん。あの日と同じような大事件がまた起こればいい。嵐の前の静けさなんぞ、さっさと過ぎ去っちまえ」


 近藤は、斎藤の茶碗に酒を注いだ。

 若くして酒豪で鳴らす斎藤は、まるで稽古の後に水を飲むかのようにたやすく茶碗を空にする。近藤を見つめ返す目がけいけいと光った。


「俺に政治はわからない。理念とか、思想とか、派閥とか。力士との喧嘩も八月十八日も、芹沢さんが先頭に立った。この人は死なないと感じて、皆、勢いづいた。でも芹沢さんは死んだ。この屯所で」

「芹沢さんを死なせたこと、おまえは不服か?」

「さあ? 俺は何も考えない」

「だったら、そう暗い顔をするな。手に掛けたのは、おまえじゃあねえんだ」


 芹沢とそのめかけや配下は、泥酔して寝入ったところをていろうに斬られた。そういうことになっている。


 近藤もまた、はっきりとは知らされていない。土方が全てを手配し、実行し、報告した。葬儀は近藤が中心となり、盛大に執りおこなった。近藤は悲しみを覚えた。胸の底から湧き起こった真実の感情だった。


 芹沢を憎んでなどいなかった。豪快な気性や人並外れた胆力を、むしろ好ましく思っていた。


 では、なぜ噛み合わなかったのか。


 踊らされてたまるかと突き放した、土方のあの一言が全てだ。芹沢がいれば、必ず近藤たちの前に立ち、上に立つ。それではいけない。芹沢の吹く笛の音に乗るだけ、芹沢が打ち振るう鉄扇に合わせて舞うだけでは、何の意味もない。


「新選組は、俺たちだ」


 近藤は低くうなるように言った。

 相対した斎藤は、軽く目をすがめてかすかに首をかしげた。近藤の意味するところを測りかねたのだろう。


 近藤は膝の上に拳を握り、爪がてのひらに刺さるのを心地よく感じながら、再び言った。


「新選組は俺たちだ。俺ととしが思い描いてきた道そのものが、この新選組だ。生まれも育ちも関係ねえ。古いしがらみにとらわれた武士にはできねえことをする。ただしゃに、幕府のために勤める。試衛館で志を一つにした俺たちにしか、この道は進めない」


 斎藤はじっと茶碗を握り締めている。

 単に口数が少ないだけでなく、気性のおとなしい男だ。飯を食うときの様子など、覇気が足りないようにすら見える。


 しかし、実戦にはめっぽう強い。殺気が冷たく鋭い。初めて人を斬らせた日、斎藤は冷静だった。滅多に見せぬ笑みを口元に浮かべた。嘲笑だった。


 あの笑みの意味を、近藤はわからないままだ。あれ以来、近藤は一度も斎藤の嘲笑を目撃していない。


 ただし近藤が知らないだけで、斎藤が返り血の中で静かに口元を歪めることはしばしばあるらしい。また、それを見掛けた者が心を射止められることも。


 安藤がぼんのうを告白し、胸を掻きむしって嘆いたのは、ほんの十日程前のことだ。


 かわのくにで生まれ、脱藩して京都に至り、十二支が一巡するまでどこぞの寺で隠棲していた安藤は、今年で四十三だという。剣術よりも弓術が得意な男だ。長らく寺に住んでいたくせに悟りから程遠く、生臭い悩みのためにがんがらめだった。


 恋い焦がれている、と安藤は言った。

 もう何をしてもあかんのです。読経も写経も、剣や弓の稽古も、一つも役に立ちまへん。狂おしゅうてならん。隊の規律も世間体も何もかんもなげうって、連れ去って閉じ込めてしまいとうなります。野口殿を。


 安藤がざんするように切々と語ったのは、齢二十一の水戸藩士、野口健司への片恋だった。また、斎藤への憎悪だった。


 野口殿は斎藤殿を慕ってはりますさかい……どないしたって誰にも揺るがせへんほどに憧れて、恋い焦がれてはりますさかい、儂は何も言えへん。野口殿にとって、儂は親のような年齢ですわ。それが、どうにも血迷うてしもうて……ほんまに申し訳ありまへん。


 近藤は、安藤の独白には驚いた。だが、野口の片恋には気付いていた。野口は芹沢派の最後の一人であるから、いつ排除すべきかと見張っていたのだ。


 野口と同じ無念流の使い手のながくらしんぱちは、あいつは無害だと取り成した。野口が試衛館派に楯突くことはなかろうと、それは近藤も感ずるところではあった。


 しかし、見逃すことはやはり好ましくないとも感じていた。


「男が男に惚れることほど厄介な恋慕はねえよなあ。子をなさねばならんという、獣と同じ欲が人にも備わっている、だから男は女を抱くのだというが、男が男に恋い焦がれるときは違うだろう。抱いても子は得られん。それでも欲してしまうのは、体ではなく魂に惚れ込むからだ」


 近藤のいきなりのがいたんに、斎藤は目を丸く見張った。ひどく無防備なその顔を、おそらく野口は目にしたこともなかっただろう。


 安藤に局内の男色について話題を振ったのは、野口の斎藤への恋慕を確かめるためだった。としかさの安藤は若い連中の面倒をよく見ており、とりわけ野口と親しげなのを、近藤は知っていた。


 局内での男色が流行が、近藤には苦々しい。安藤はそれを察し、ゆえに懺悔した。

 男色とは本来、流行などという軽薄な言い表し方ができるものではない。


 武士が男に惚れるならば、相手に命を預ける覚悟を決めねばならない。妓女をねやに誘う程度の一時の色欲で、男が男に想いを告げてはならない。


 ところが、思い違いをしている若い隊士が多い。女っ気のない屯所であるから代わりに男を相手にしよう、それもまた洒落ているではないか。そんな気軽な男色趣味が局内にまんえんし、規律が乱れている。


 苦悩する安藤の姿は正しい。不相応な色恋によって規律を乱した罪を問い、反省を促せば、安藤はおそらく自ら腹を切るだろう。

 だが、処分すべきは安藤ではない。


 近藤は野口を呼び出し、率直な言葉を選んで尋問した。斎藤一に惚れているのか、と。


 野口は答えた。惚れています、と。笑うとくしゃくしゃになる、妙に人のよさげな顔をこうこつに輝かせて、語った。


 刀を振るう姿の凄味と色気。血を浴びて笑った面差し。俺が相手の稽古では息一つ上げない手強さ。永倉さんと打ち合ったときに初めて息を切らすところを見た。いつも小綺麗にしているのに、ときどき汗と血と鉄の匂いをさせたまま酒を飲む姿に心を揺さぶられる。

 初めは、倒してみたいと思いました。俺がこの刀で斬ったらどんな顔をするんだろうと思いました。いつの間にか、斬られてみたいと思うようになっていました。だって、人を殺した後の斎藤さん、とてつもなく美しいんですよ。あの色っぽい顔を、俺のためだけに見せてほしい。


 野口は近藤の意図を理解していたのだろう。うっとりと微笑んで語りながら、次第に血の気が引いて真っ白になった唇で、震える声をやがて紡いだ。


 腹を切れとおっしゃるんでしょう? 俺が水戸の生まれ育ちで、そのくせ芹沢さんと一緒に死ぬほどの忠誠心もなくて、斎藤さんにあっさり惚れるくらい軽薄な男だから、新選組は俺なんかいらないんでしょう?


 野口の最後の望みを叶えてやるのは、やぶさかではなかった。野口が死出の礼装を整え、薄暗く狭い部屋で短刀を手にしたとき、その背後に立ったのは斎藤だった。野口の短刀が腹に一筋の傷を付けるや、斎藤は刀を振り下ろし、薄皮一枚を残して野口の首をねた。


 斎藤は今、近藤の目の前で、野口が一心に憧れた凄絶な気配に包まれている。眉間にしわを刻んでまぶたを閉じ、息をつき、それからきっぱりと目を開いて斎藤は言った。


「記録には俺の名を載せてほしくない。介錯は、安藤さんのほうがふさわしかった」

「待て待て。何を言ってるんだ? 介錯を指名したのは……」


 死した野口健司その人だった。そう告げてしまうことの重みに気付いて、近藤は口をつぐむ。


 斎藤はそっぽを向いた。

「俺に儀礼は似合わない。ただの汚れ役でいい」


 研ぎ澄ましたような横顔は晩冬の冷ややかな夜気をまとい、酒精を吐き出す口元にだけ、うっすらと白い熱が漂う。


 これこそが野口の惚れた横顔なのだろうか。一人の男が命懸けで秘め通した熱情にはいっさいがっさい触れてやろうともせず、ただ血の雨の己を打つに任せる。心も魂もなくしたかのように、静かな目をして。


 近藤は、斎藤に何か言葉を掛けたかった。何を言うべきか探しあぐねるうちに、斎藤は音もなく茶碗を置いて立ち上がった。


 斎藤の唇が、疲れた、と動いた。近藤は少しほっとした。


「そりゃあ疲れただろう。今夜はゆっくりと休め。年越しに前後して、世間も俺たちも、どうにも慌ただしい。風邪なんぞ引かねえように用心して、休めるときにしっかり休んでおいてくれよ」


 斎藤はちらりと近藤を見やった。

「わかってる。近藤さんこそ。あれこれ考えたり悩んだり、そんなのは、くたびれるし」


 まだ続きがありそうなところで言葉を切った斎藤は、宙ぶらりんのそのままで囁き声を置き去りにして、滑るように部屋を出ていった。


 近藤はつぶやいた。

「ちぐはぐなやつめ」


 人を手に掛けた数など、近藤はもう把握することをやめた。斎藤に言われるまでもない。

 だが、斎藤自身は覚えているのではないか。人を斬った数が局内で最も多いのは斎藤かもしれないのに。


「長生きしたいとは思わねえな。そんなのはきっと地獄だ」


 覚悟はとうにできている。だが、まだいくらか胸に余裕がある。もっと本気の、まがいのない決死の勢いで、我武者羅に生き抜かねばならない。

 そしていつか、遠くない将来、死ぬのだ。鮮やかに死ぬために、鮮やかに生きたいと思う。


 近藤はひっそりと笑った。生と死とを思うと、どうにも笑わずにいられなかった。

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