第3話 服用と効果
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「どうするんだ?」
リビングに戻るなり、主人はそう訊ねてきた。
決断は任せる、と言った意味にも捉えられる。
「どうすると言ってもねぇ……」
主人はあまり自分で決断を下さない。大きな買い物などになると特にだ。
私は難しい顔で、食卓の上に置かれた“若返り薬”をじっと見つめた。
こればかりは答えに窮してしまう。
「女の夢、が目の前にあるのは分かるんだけど……」
老婆がうら若き少女へと若返る――。時間と言う毒に蝕まれ、次第に衰えてゆく身体を元に戻す。これを“夢”と言わずして何だと言うのだろうか。
そう。つい数分前に起きたのは、まさに“夢”のような出来事、夢物語を見ている気分だった。私もその物語の登場人物になりたい、と次に思うのは当然だろう。
私はそっと半透明のプラスチックの瓶を撫でた。中を満たす薄緑色の薬液は、どこか身体によさそうな色にも思える。
「目盛りの横の数字は、年齢……なのかしら」
「そう、かもしれないな」
愛おしそうな手つきに、主人は少し戸惑った表情を見せた。
“17”は十七歳、“26”は二十六歳……中途半端な数字だ。もし二人して使用するなら、半々となる二十六歳の年齢まで戻る。つまり、大人の中では精力的な時期だ。収入も計算でき始め、体力もまだまだ盛んであるため、子作りも積極的に行えるだろう。
そう思うと、私はつい太ももを小さく擦り合わせてしまった。正直に言うと、肌を重ね合わせることは嫌いではない。
するとその時、主人がふとあることに気づいた。
「これ、仮に二十六歳に戻ったら……俺は職探ししなきゃならないんじゃないか?」
「え、どうして?」
「考えてもみろ。いきなり二十年も若返れば、会社の連中が気づかないはずがない。
もしそれで理由を聞かれたら答えようがない。“若返り”の薬なんてあると分かれば、たちまち大騒ぎになって、マスコミから利権を貪る奴らにつきまとわれてしまうぞ」
「でも、『我々』とか『支援する』と言ってたし、ちゃんと然るべき機関に所属しているんじゃないかしら」
「それならば、こんな平凡な家庭に声をかけないはずさ」
主人は商社に勤めていて、営業課の係長の席についている。
上からの指示に従いながら、あらゆる可能性を考え、最適な解を下に指示する立場にある。そのせいか、主人の言葉には頷けるものがあった。
そうすると、非常に難しい選択を迫られた。
主人はこの前、『課長の席が近いかもしれない』と嬉しそうに語っていたからだ。
「収入も家のローンのことを考えれば、俺はあまり戻ってはいけない」
「私が十七歳になって、あなたが三十五歳になる、と言うこと?」
「折衷案で挙げるとすれば……そうなるな。
ただ、そうするとお前の方も近所の目や、世間体の問題が生じるだろう。
俺とお前で、飲む時期をズラした方がいいかもしれない」
「ああ、確かにそうかもね」
十七歳と三十五歳……子を産み、育てるには少し憚られる年の差だ。
万が一、それで問題が起こっても薬が残っていないため、修復不可能になってしまう。
薬の量に比例して年齢が増えているので、恐らく後で追加で飲めば、加算されてゆくのだろう。先に私が若返り、様子を見た方が都合が良い。
「二十九歳差かぁ……まるで父と娘ね」
「先に子育て体験ができるな」
「もう」
悪戯な笑みを浮かべる主人に、私は唇を尖らせた。
しかしこれが、飲むか飲まないかを決定する会話となったようだ。
そして、その日の夜――私は薬を四分の一服用した。
味は少し甘く、とろっとした口当たりで悪くない。
その時には『朝の出来事は、実は何かのトリックだったんじゃないか』と思うようになっていた。でも、私の決断はもう決まっていたし、もしこれが何かの悪戯だったとしても、真剣に
明日はどうなっているか。鼻歌を奏でながら寝室に足を踏み入れたその時、主人はデジカメを手にベッド脇に立っていた。
「今のお前の姿を残しておきたいんだ」
何を馬鹿なことを、と苦笑したけれど、私はそれを喜んで承諾していた。
ベッド周りはティッシュボックスや、どこかで買ってきた地方のお土産の置物など、生活感に溢れていた。そして、モデルも化粧を落とした四十六歳の女だ。そんなスナップ写真なぞ一瞥したら終わる程度の物だろう。
けれど、それはいつからかヌード写真の撮影に代わり、ポルノ写真と思われそうなものまで撮影し、今の“私”を余すこと無くカメラのデータの中に納められていた。
そしてその後、連日の“夜の営み”へと発展した――。
- 4 -
翌朝、私は顔にかかる朝日で目が覚めた。
主人はまだ横で寝息を立てている。『変化する瞬間を見てみたい』と、まるでサンタクロースを待つ子供のようなことを言っていたけれど、この様子では途中で力尽きたようだ。
私の方もまだ眠い。時計は朝の七時を告げている。
昨晩、寝入ったのは何時か……随分と遅くまで情事に耽っていた気がするので、眠いのはきっとそのせいだろう。布団も随分と汗臭いような、獣っぽい臭いが漂っている。
(一応、確認だけしておくかな……)
再び眠りに落ちそうな頭を揺り動かし、私はぼんやりと目を開いた。
姿見は寝室の扉の傍にある。起き上がるのもおっくうなので、手を宙に掲げてみた。
霞む視界の中、で白くすらりと細い指が伸びる手の甲が映る。手のひらも滑らかで、確かに若返ったようだ。
「え――?」
その瞬間、私の視界は一気に晴れた。
それだけでなく、身体も頭も起きたようだ。勢いよく上半身が飛び上っていた。
「え? え? え? え?」
眼下に映るピンク色のパジャマ。その胸元はふっくらとして、襟首の隙間からは覗く山間には濃い陰を作っていた。
お腹を叩いてみると、頭を悩ませる感触がそこになかった。いや、完全にないわけではなく少なかった。
「えええぇぇぇぇっ!?」
高く張りのある声が寝室中に響き渡り、隣で寝ていた主人が唸った。
「う……」
「あ、あなた……!」
私は小さく呼ぶと、主人は薄らと目を開いた。
その様子は『もう朝か……』と言った様子だった。
薄く開いた目が閉じる。また薄く開いて、閉じる……いつしか、主人の目はシパシパとしていた。
そして、僅かな間を置いて――。
「だ、誰だっ!?」そう叫んで飛び起きた。
「わ、私よっ……!」私は自分の顔を指さして言ったが、確認していないので本当の私かどうかは定かではない。
「の、紀子……?」
「そ、そうっ!」
「何年……何年生まれだ?」
「一九七二年、十月二十三日生まれ……A型よ」
「きゅ、旧姓は……?」
「た、館岡よ」
「出会った場所、それと……えぇっと、それと、し、新婚旅行はどこに行った?」
「|羽礎(はねいそ)高校の、図書室の整理中……新婚旅行は、淡路島よ」
私の頭の回転が速くなっている。訊かれた答えがすぐに出てきた。
主人は手で口元を拭い、今一度確かめるように私の名を呼んだ。
「ほ、んとうに……紀子か?」
「え、ええ……」
私の足先から頭のてっぺんまで、ゆっくりと視線を動かしてゆく。
寝起きの乾いた喉が、同時に動いた。
「夢じゃない、よな?」
「同じ夢を見てるなら、別だけど……」
確かに紀子だ、と古い記憶を呼び起こしながら呟いた。
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