第6話 課外学習(1)

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 学生に主婦に、私は相変わらず忙しい日々を送っていた。

 けれど、今日ぐらいはリラックスできそうだ。この日は“課外学習”の日……と言っても、それは名ばかりの“遠足”である。

 バスで約二時間の旅路、私はひたすら眠気と戦っていた。


「水族館楽しみだね、紀子さん!」

「ええそうね。ふぁ……ぁふ……ごめんなさい……」

「あれ、もしかして楽しみで眠れなかった系?」

「え、い、いや、まぁ……」

「もー、紀子さんって、もう可愛いところあるんだからっ!」


 マキちゃんは、あははと笑い私の肩をパンパンと叩いた。

 座席は前の方の左側、しかも窓際とベストな場所に座っている。

 そこに適度なバスの揺れが、眠りへと誘ってくるのだけど……横にいるマキちゃんと言う名の“|天使(あくま)”が、『眠ってはダメ』と言わんばかりに話しかけてくるのだ……。私がと言うより、彼女が一番テンションが上がっている気がしてならない。

 しかし、楽しみで眠れなかったのは事実でもある。……とは言え、私が寝不足だと感じるのは、寝るのが遅い時間、主人と“営み”をした翌日に限られるけれど。

 ただ、昨晩は奇妙な感覚がし、それが今もなお引きずっている――。


(正確には、あの買い物に行った日の夜から、かしら……)


 その夜。年相応の下着を身につけたのを披露し、そのまま“営み”にへと移行した。

 私が若返ってからと言うもの、主人も積極的になっている。若い身体だから、と思うと複雑だけど……それでも、応じてくれるのは嬉しかった。

 その時も裸になって、ベッドの上に横たわっていた。

 立てた両膝を間に主人の身体が割り入れられ、いざ“営み”が開始された時にそれが起こった。お腹の奥から、妙な嘔吐するような感覚に襲われたのだ。

 たぶん出かけていた疲れなんだろう、って思っていたものの……昨晩、また同じような感覚に襲われてしまったのだ。

 不安になってスマホで調べてみると、『コンドームアレルギーでは?』との答えが近い気がした。子供が欲しくて若返ったけれど、この身体は言わば“お試し”なのだし、十七歳の身体で妊娠することは憚られてしまうため、“営み”ではそれを使用している。


(それとも、疲れが蓄積されているのかしら……?)


 主婦と学生の二足のわらじは大変だけど、辛いとは思ったことはない。

 “見えない疲労”と言うものがあると聞いたことがあるので、もしかしたらそれなのかも。それを察知したから、主人は有休を取って『家のことは任せて、遠足を楽しんでおいで』と言ってくれたのかもしれない。

 不器用だけど優しい。私は主人のそういうところに惚れたのだ。


「ふふっ……」

「紀子さん、本当に楽しみなんだね……」

「あ、いや!?」


 マキちゃんが「大人っぽいのに、やっぱ同年代ー」と言い、今度は苦笑してしまった。

 まぁ、今日ぐらい同年代に、“十七歳の少女”に戻ってもいいかもしれない。

 夫婦は支え合うものだって言うけれど、今日の主人は“お父さん”になってもらおう。


(お父さん、か)


 妙にしっくりきて、私は再び口角を上げてしまった。



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 道が空いていたからか、予定していた時刻より二十分ほど早く到着したようだ。

 先導する担任の岡田先生の指示に従い、私たちのクラスを始めとした五クラスは、水族館前の広間に集まっていた。一クラス三十人としても、五クラスも集まると結構な人だかりになる。


『集合時間は午後三時だからなー! 遅れるなよーっ!』


 うぅーいっ! と、後ろからヤンチャな子たちが元気よく返事した。

 学校に通い出してもなお疑問のままなのは、『どうして不良の子は、鬱陶しがっても登校し、真面目に授業を受けるのか』である。

 私の頃は担任が『出席日数が足りない、なんてことにしないから、休みたい奴は休んでいい』と言い放ったこともある。それでもなお、不良の子たちは出席し続けた――。

 そして、彼らが最も張り切るのは、遠足・体育祭・修学旅行・卒業式だ。特に遠足と修学旅行は、彼らの“親睦”のイベントでもあるので、顔をボコボコにして戻って来た姿などは今でも鮮明に覚えている。

 マキちゃんと移動していると、横に野山くんがいたことに気づいた。


「――野山くんも、他校のヤンチャな子と喧嘩しに行くの?」

「今時やらねぇよっ!?」


 赤いシャツに黒いジャケット、パンツ。短い髪の毛を上に立て……と気合い入っているけれど、どうやら違うみたいだった。「何だよ!」と言う横で、私は『今時の子は落ち着いてるのね』と、一人で感心して頷いていた。


 しかし、水族館なんて何年、何十年ぶりだろう。

 新婚の時代に来たのは覚えているけれど、それ以降は来なかった……と言うより、今この時代に比べると、地味だったので候補に挙がらなかったのかもしれない。


「わぁぁ……凄い……」


 建物に足を踏み入れた瞬間、私は“青い世界”に引き込まれていた。

 大きなエイが悠々と泳ぎ、それを追いかけるようにしてサメが|翻(ひるがえ)る――そして、小魚の群れが併走してゆく。二度と同じ光景を作らない天然のアートを前に、次の水槽へと中々移れなかった。

 クラゲや小エビ、カニなども、いくら見ていても飽きない。覗き込んでは嘆息し、うっとりと魅入ってしまう。

 マキちゃんも同じで、二人でぼうっとそれを眺めていた。


「凄いよねー……」

「うん……。どう動くか分からないから、いつまでも見ていられちゃう」

「分かる! 同じ魚でも、まったく違う動きするんだもん」


 うん、と頷くと、マキちゃんは「もしさ」と水槽を見つめながら続けた。


「魚のクローンを水槽に放ったらさ、どうなるんだろ? 同じ動きするのかな?」

「う、うーん……? 違う動きするんじゃない?

 放つ場所が違えば、その周囲の流れに合わせて泳ぐだろうし」

「なるほど! そう言えばそうだよね」


 マキちゃんは手をポンと叩くと、得心したように何度も頷いた。

 そして、「あっちに行こう!」と指さすと、私もそれについて移動する。

 外観はそうでもないと思っていたけれど、中は意外と広く、平日なのに人もたくさんいた。薄暗くて、ぐるぐると回るような構造なのかもしれない。

 私は水槽の方を見ながら歩いていると、ふとマキちゃんが足を止めていることに気づいた。


「マキちゃ――」


 私は言いかけて口を止めた。

 そこにいたのはまったくの別人、隣のクラスの女の子だったのだ――。


 ぐうぅぅー……と、お腹が鳴った。

 左手首の時計を確認すると、もう十二時を回っている――。

 それからしばらく探してみたけれど、マキちゃんの姿は見当たらなかった。

 せめて昼ご飯をどこで食べるか、だけでも決めておいた方がよかったかもしれない。

 水族館の横は大きな広場……と言うより、公園のようになっていて、昼食はそこでと担任の先生から指示されていた。

 分かりやすい所で待っていたけれど、十二時三十分を回っても、マキちゃんの姿はついに現れず、私は『しょうがないか……』と一人で敷物の上でお弁当を広げた。


(マキちゃんが食べるから、ちょっと多めに作ったんだけど……余っちゃいそうね)


 私は空を見上げた。燦々と眩しい光が照りつけ、乾いた白い砂をジリジリと熱している。冬場ならまだしも、晩ご飯のおかずにするのは難しい時期だ。できるだけ食べて、後は勿体ないけれど捨てるしかない。

 私は、ふぅ……と小さくため息をつき、ご飯を口に運んだ。


(こうして、外でお弁当広げて食べるのっていつぶりだろう)


 一人で食べたのは、働き始めてからの一年……それも春先までだったかな。

 忙しくて、途中から外食が多くなっていたはず。

 思えば、こうしてのんびりとした時間を過ごせるのは、今この時だけなのかもしれない。私は今を味わうようにして再び、青々とした空を見上げた。

 その時はまだ、私の下に近づいて来ている人がいると気づいていなかった――。

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