第9話 勉強の成果

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 その日から、私たち夫婦に大きな亀裂が走ったように思えた。

 増えた会話は、途端に以前の少ない状態に戻る。その時と違うのは、沈黙が苦痛であると言うことだ。言えばいいのに、察しろと言わんばかりの態度を見せるのが余計に腹立たしい。

 主人からすれば“主婦”という鎖で私を縛りたいのだ。

 なので、私は自室に籠る時間が多くなった。机に向かって勉強している時が、唯一の気晴らしになるからだ――。


「そのオヤジ、勝手過ぎね?」


 学校の自習スペースで勉強中、野山くんはそう言った。

 ここ三日ほど、妙にプリプリしてるから何だと訊ねられ、私はそれを愚痴っていたのだ。


「そう思うでしょ?」

「ってか、そいつのカーちゃんじゃねえのに、何でお前も全部やってんだよ」

「ま、まぁそれは色々とね……」


 妻だから、とは言えない。

 野山くんに勉強教え始めて三日目。最初はどうなるかと思ったものの、今はそれとなく形になってきている。

 そうなると、教える方も身が入ると言うものだ。空いた時間が出来れば『ここはどう説明するべきか』『近しい問題はないか』と、アレコレ考えており、放課後にその成果を見るのが楽しみになっていた。


「――あら、この答え合ってるじゃない」

「マジで! おお、やったぜ!」


 勉強は和気藹々としており、一挙手一投足に笑いが起きた。

 野山くんは感情が豊かで、喜怒哀楽がハッキリと顔に表れる。いや、感情だけでなくハッキリと物も言う。


「お前の今日の弁当、あのサラダは美味くなかったぞ」

「勝手に食べておいてよく言うわね……。

 でも、あれはちょっと失敗したと思うわ。少し苦かったでしよ」

「苦いし辛い」


 舌をべーっと出す仕草は子供そのものだ。

 しかし、それが可愛らしい。この子たちが好きなものは何だろうか。夜よりもお弁当の内容を考える方が大事になっている。

 それも当然か。何も言わないより、『美味しい』『美味しくない』と反応してくれる人の方がいいに決まってるのだから。


「でね、考えたんだけど――」


 私はとにかく、沈黙が苦痛だった。

 野山くんは「時々、うちのカーちゃんみたいになるなお前……」と、勉強を忘れて喋りまくる私に、呆れを隠せない様子だった。


 学校は十八時前に出るようにしている。

 そして、十九時前まで彼とコンビニの前で過ごしてから別れる。

 子供がいればこんな感じなのかしら、と自転車を漕ぎながら考えた。野山くんが私をつれてコンビニに行くのは、私に色々買ってもらえるからだ。また、私も喜ぶ姿が微笑ましくてつい買ってしまう。


「子供、か……」


 最初は十七歳の少年少女をそう見ていた。

 けれど、今の私は、彼らを対等な目線で見るようになっている。

「ああ」私は自分で納得した声を出した。

 主人は体裁上“お父さん”をやっているけど、今は本当にお父さんのように思えてしまっているんだ。だから、どこか疎ましく感じるのだ。つまり、私は“娘”――朱に交われば赤くなると言うけれど、私は“高校二年生の紀子”になりつつあるんだ。

 まぁ、それはそれでいいか。深く考えると頭が痛くなりそうだし、先のことは分からないんだから。

 私は涼しい顔で玄関扉を開いた。もう、遅く帰っても罪悪感はない。



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 放課後は野山くんと勉強し、帰宅後も夜遅くまで勉強する。

 強い日差しに目眩がしそうだったけれど、『テストが終われば夏休みなんだから』と、瞼に張り付く眠気を振り払った。

 諦め、倒れそうになっても、足を前に出して踏みとどまる。

 思わぬ気力に、これが“若さ”と言うものなのか、と自分でも驚いてしまうほどだった。

 いや、自分一人だったらきっと『これぐらいでいいか』と妥協していただろう。

 そうならなかったのは、最後まで『嫌だ』と投げ出さず、弱音すら吐かず勉強に打ち込み続けた、“野山アキラ”と言う男の子がいたからだ。私が先に音を上げるわけにゆかない。自分が負けず嫌いな性格をしていた、と気づいたのはその時である。

 そして、テスト当日――問題を見ている時も、『この問題はやったから大丈夫ね』と、自分のことではなく、まず彼のことを心配していた。

 やったからには“参加賞”だけで終わって欲しくない。そう思うのが親心だろう。


「ん、んんー……っ!」


 テスト期間は約五日。その最後の試験を終え、私は開放感に浸っていた。


「あ゛ー……多分、補修だー……」

「開始早々寝たらそりゃあね……」

「紀子さんはどうだったの?」


 ガックリうなだれるマキちゃんは、仲間を求めるような目を向けてきた。

 けれど、彼女が望む答えはきっと返せない。


「結構出来たと思うわ。勉強したところが多く出たし」

「え゛え゛ーっ!?」


 よよよ、と崩れるマキちゃんの向こうで、野山くんが私を見ていることに気づいた。


『やったぜ!』


 ぐっと、握りこぶしを突き出した姿に、私は口角を目一杯上げていた。

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