17歳(2)――

第1話 プールとナンパと

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 夏休みに入ると、私はすぐに主婦に戻っていた。

 テストの結果は、何とクラスで十二位。全体的に芳しい結果ではなく、一点差で十三、十四……と、拮抗している結果となった。

 そして、肝心の野山くんはと言うと――。


「まさか、全科目赤点を免れるとはねぇ……」


 彼の仲間やマキちゃんたちの目を丸くさせ、思わずカンニングを疑われたほどだ。

 しかし、彼はそれに怒ることなく『勉強したからよ』と言うだけだった。

 古典だけは本来赤点だったものの、本来は“×”がつけられる書き損じが“△”となっており、それを免れていた。担当の辰巳先生が『儂は見ておったぞ!』と言ったところからして、努力点だろう。そして、私にも加点されていた。そのおかげで、今の順位があると言ってもいい。


「ああいう先生もまだいるものねぇ……」


 厳しい、頑固な先生だと嫌っている子もいるけれど、ちゃんと生徒を想った行動ゆえのものだ。ただ、感情が先行する子供たちがそれに気づくのは、もう少し後になるだろう。野山くんだって、『一緒に勉強してるのを見てたんだよ』と、私が説明するまで何のことか分かっていなかったのだから……。


「主婦業も、評価してくれる人がいればね……」


 はあ、と重いため息を吐いた。主人の機嫌が少しよくなった程度だ。

 先ほどまで掃除機をかけていたからか、汗がしたたり落ちた。

 暑い。新陳代謝がよくなっているのか、Tシャツは汗でボトボトに濡れ、薄緑のブラを透けさせている。

 私はたまらず、リモコンをピッと、クーラーのスイッチを入れた。すぐにブーンと音を立て、涼しい風が吹き出してゆく。それに向かってシャツの裾を掴み、恥ずかしげもなくさっと脱ぎ落とした。


「あ゛ぁー……気持ちいいー……」


 汗で濡れているおかげで、胸やお腹がキンと冷たくなる。

 直風は身体に悪い、とは分かっているけれど……一度やってみたかったことだ。

 私が十七歳だった頃、念願のエアコンがやって来た。

 木目調のそれは居間の雰囲気に合っていて、それがゴーっと音を立てた瞬間は、家族全員が顔をほころばせたのを覚えている。

 しかし、電気代が高かったのか……長時間付けることは許されていなかった。勉強中だけ個人で使用するのを許されていた。両親の留守中にこっそりとつけ、服をまくってお腹に風をあてたのが、高三の夏……だった気がする。

 今は各部屋に一台、と言っても過言ではないのだから、時代の進化にはつくづく驚かされる。その時代に生きている子供たちは、何と恵まれているのだろうか――。

 その時、スマホがポーンと音を立てた。


【マキマキ:紀子さん、プールいこ!】


 これも時代と言うものだろう。ジリリリリと音を立てる黒電話が鳴るのを待たずして、友だちとやり取りができるのだから。

 マキちゃんから導入するように言われたアプリ・《LIAN》は、特にそうかもしれない。ちょっとしたメッセージがいつでも気軽に送れるのだから。

 ただ……やはり、今の子供たちは恵まれていると言うより、恵まれすぎて不自由を味わっているのかもしれない。

 マキちゃんは暇なのか、メッセージが頻繁に届けられる。それも、開いたら【既読】と付くので、理由もなく放っておくわけにはゆかない。

 断る理由もないので、私はすぐに『行く』と返事したものの……。


「お風呂掃除から、洗濯まで……ちゃちゃっと終わらせないとね」


 マキちゃんから指定されたのは、十三時に駅近くの市民プールだ。

 今は十一時……十八時頃に帰ってくるとすれば、晩ご飯の下準備もしておかないといけない。私は大急ぎで“仕事”に取りかかった。主婦業はとにかく時間との勝負だ――。



 - 2 -


 自転車も慣れたもので、駅まではもう『すぐ』と言える感覚になっていた。

 今までは歩いて五分ぐらいでも『遠い』と思っていたのに……。

 プールの駐輪場は混んでいるはずなので、いつもの駐輪場に自転車を置いて、そこからは歩いて向かうことにした。これも感覚的には『すぐ』だ。

 入り口でマキちゃんを待つこと十数分――黒いチューブトップにデニムのショートパンツと、これが高校生のする格好か、と愕然とさせる姿で彼女はやって来た。しかも、髪の毛はまっ茶色で、初日から気が緩みまくっている。


「あっれー? 紀子さん、いつも通りだね」

「あたりまえでしょ!?」


 耳にはキラキラと光るピアスに、顔もバッチリフルメイクだ。

 嘆かわしいことに、親がこんなのを許す時代なのだ。……と言いたいけれど、私の時代も大概だったので文句は言えない。

 水着がないので、先に近くの売店で購入し、一番シンプルで落ち着いている白のビキニタイプの水着を選んだ。

 本当はワンピースタイプを選びたかったのだけど、マキちゃんのお眼鏡には適わなず、唯一の妥協点がこれだったのだ。他は隠すのは乳首だけのとか、とんでもない水着ばかりが候補にあがっていた――。


「水着なんて久しぶりね……」


 水着もプールも、最後に来たのは九年……いや、もっと前か。

 昔は泳げたけれど、今はもう全然ダメだろう。


「ねぇ、紀子さん……」

「え?」

「あの、何と言うか……ムダ毛、処理してないの……?」


 マキちゃんは言いにくそうに、私の腋からお腹の方へと目を向けた。


「毛……? あ゛っ!?」


 そ、そうだった……!

 テスト前に腋を整えただけで、それから処理していなかった――。

 腋はハッキリと分かるほど黒い。下は何とか隠せるぐらいだけれど、白い水着が心なしか黒く見えている。


「もしかしてさ……そう言う趣味、だったりするの?

 前の、制服から派手な色の下着透けさせてたりするし、隠れ露出狂的な……」

「な、ないよっ!?」


 泳いでたらバレないと思うから、とのマキちゃんの言葉を信じ、私はゆっくりとした足取りでプールサイドへと向かった。

 燦々と輝く太陽に目を細める余裕などない。

 マキちゃんの水着は、派手なピンク色をした、お尻が半分以上飛び出しているキワドイものなのだ。小さな子供も多く、情操教育に悪いのではないか。

 おかげで、一緒に歩く私まですっかり注目を浴びてしまっている。

 私は腋をぴたりと閉じたまま、逃げるようにしてプールに入った。


「あれ? マキちゃんは入らないの?」冷たい水に浮かびながら、スマホを手にしたままの彼女を見上げた。

「メイク落ちるから」


 私は眉を潜め、何しに来たの、と言いそうになってしまう。

 最近このタイプの女の子が増えているようだ。主な目的は、インなんとかと言うので遊びに来ていることを自慢……もとい、報告するためだけに訪れる。食べ物などでもそうで、酷い場合は食べなかったり、写真を撮ったらゴミ箱へ……と言った、信じられないことをするのもいるらしい。モラルの欠如を曝してまで、何をアピールしたいのか。

 マキちゃんがパシャパシャと撮影を続ける横で、私は一人泳ぎ始めた。

 人が結構多いので、真っ直ぐ泳げるのはせいぜい三メートルほどだ。それでも、昔の芋洗い状態のプールに比べると、ここは広く快適な方かもしれない。


(子供が少ないわね。夏休みが始まったばかりだからかしら……?)


 当時と比べると、親も子供も随分と少ない気がした。

 私一人だけ遊んでいるわけにゆかず、マキちゃんのところに戻ろうとすると、彼女がいたところに、男の人が二人立っているのが分かった。

 赤と青のハーフパンツの水着に、どちらも小麦色に焼けた引き締まった身体をしている。整った坊主頭は、恐らく何らかのスポーツをやっているのだろう。

 いきなり声をかけるのは憚られるので、私は泳ぎながらそっと近づいみると、


「ねー、いいじゃん。友だちの女の子も連れて遊びに行こうよ」

「そうそう。俺たちも二人だからさ、タケ高知ってるだろ?

 野球で有名な。俺たちその野球部なんだよ」

「えー、しらなーい。

 今日そんなつもりないし、友だちも巻き込みたくないから帰って」


 スマホに目を向けながら手をヒラヒラさせると、男の子たちはこめかみをピクピクと動かしたように見えた。声をかけた手前、彼らも退けないのだろう。「でもさー」と食い下がる。このままでは、マキちゃんはまだしつこく付きまとわれるだろう。

 私はザバりとプールから上がっていた。それに気づいたマキちゃんは、驚いた顔を向けた。


「男は引き際が肝心よ」

「あ?」男の子は眉間に皺を寄せながら振り返ったけれど、私の顔を見るなりすぐに好色の目つきに変わった。

「ああ、君が友だちかー」と赤いパンツの男の子。

「ちょうど二・二になったから、いいじゃん」と青いパンツの男の子。


 私はそれに小さく息を吐いた。


「私たちは遊ぶ気はないの。

 引き際が肝心って言ったでしょ、しつこいと嫌われるわよ」


 すると、赤いパンツの男の子が舌打ちをした。

 相手にされないと分かった途端、彼らを取り巻く軟派なオーラが消えていた。


「あんなー」人相を悪くし、威嚇するように小さく身体を揺らす。

「何よ」私は負けじと目に力を込めたけれど、その声は弱かった。


 不穏な空気を感じたのか、周りが少しざわめき出したその時、


「何してんだお前ら?」


 どこかで聞いた声がして振り向くと、そこには見知った男の子が立っていた。


「の、野山、くん?」


 語尾が上がったのは、彼の頭が学校で見るのとは違い、金髪になっていたからだ。

 灰色のハーフパンツ姿で、目を細めながら、下から覗き込むように私の顔を見る。

 絡みにきた男の子は『野山』と言う名前を聞いて、動揺を隠せずにいた。


「の、野山って……まさか、メリコーの……」


 青いパンツの男の子が、搾り出すような声で言うと、その後ろからマキちゃんが口を開いた。


「そだよ、メリコーの野山。その子のツレだから、アタシ知んないよ」スマホをいじりながら言うと、赤いパンツの男の子が「何だと!?」と頓狂な声をあげた。私も同じ言葉を言いそうになった。


「だーから巻き込みたくないって言ったじゃん。

 で、アンタらはタケコーの野球部でしょ?

 アタシ、三年の竹下と縁あんだけど……アンタら誰? 今訊くから」

「た、竹下先輩と!? い、いや……」赤いパンツの男の子がみるみる青ざめてゆくのが分かる。


 このままでは、この場にいる人たちに迷惑がかかってしまう。

 私は最後の力を振り絞った。


「さ、さっさと行きなさい!」


 全員が目を見開くと、男の子たちは「はい!」と言うと共に、びゅんとロッカーに走ってゆく――。

 彼らがすっ込むと同時に、止まっていたプールが再び流れ始めてゆくのが分かった。


「んだよ、せっかく喧嘩できると思ったのによ」


 野山くんがそう言うと、マキちゃんは「紀子さんすごいね」と声を弾ませた。


「あ、ああ、う、うん……」


 私はそこでやっと、脚が小さく震えているのが分かった。

 それを見た野山くんは、呆れたように息を吐いた。


「ビビるぐらいならしゃしゃり出んなよ……」

「う、で、でも……」

「でも、見た目と違って、なかなか根性あんじゃん」


 野山くんはそう言うと、私の濡れた髪の毛をワシャワシャをした。

 テスト勉強の時から、彼はこうして悪戯のようにやるようになったのだ。


「ちょ、ちょっと!」

「マキがいっから大丈夫だけど、一人の時でやんなよ?

 どーせ、周りに人いるから何かあれば助けてくれるー、ってノリだったんだろうけど」

「う……」


 ワルの喧嘩に首突っ込むのなんていねーぞ、と続けた。

 その通りであるため、私は何も言えずに俯いてしまう。

 すると、マキちゃんは「助けてくれたアキラに良いこと教えてあげる」と言うと、自分のお腹の方を指さし、それを私に向けた。


 濡れた白い水着から、黒い塊が透けている――と、その時気づいた。

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