第2話 まるで家政婦
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夏休みを迎えて、初めての日曜日――。
「おはよう」
「おはよう」
夫婦の朝は相変わらずだった。
いや、少し違う。私たち夫婦は、“過去”と“現在”と言う、それぞれ別の道を歩んでいる。
そのせいか以前のような穏やかさはなく、私たちの間に“価値観のズレ”が生じているような気がしてならない。
これが顕著なのは朝食だろう。昔の私たちの朝食といえばご飯だった。それから次第にトーストに変わってゆく。それが今、若返った私はご飯に戻り、主人はそのままトーストを食べ続けている――。
大人と子供の感性がそれぞれ違う。互いに理解し合わなければ、分岐した道は離れてゆく一方だ。しかし、大人の世界しか知らない主人に合わせるつもりにはなれない。それに、私がこれを言ったところで、主人は聞く耳を持たないだろう。
ポーン、と机の上のスマホが鳴り、私はさっと手に取った。
【野山:早起きしたぞ】
それだけ……? と、思わず苦笑いしてしまう。
私はすぐに【有言実行なんて偉いじゃない】と返す。『早起きは得』と話をしていたら、本当にそうかと実験してみると言っていたからだ。
先日のプールの一件から、マキちゃんが『LIANのID教えておいてあげなよ』と言って、互いに交換し合ったのだ。
理由は、先日のナンパしに来た男の子たちが逆恨みしてきた時のために、らしい。
そのマキちゃん曰く、どうやら野山くんは名が知れた不良だったらしく『この周辺の不良は、名前を出せば尻尾巻いて帰るぐらいだよ!』と言う。真偽は別として、プールの時の絡んできた男の子たちを思い出せば、それも何となく分かる。
けれど、いざ話してみるとそこまで怖くないことも分かる。
【野山:腹減った】
【ご飯あるでしょ】
【野山:ない】
【どうして?】
【野山:作れない。作りに来い】
【あのねー……】
何ともまぁ勝手な子だ、と思いつつも許せてしまう。
スマホを見てはくすくすと笑う姿に、主人はわざとらしく不満げな息を吐いたが、私は気づかないフリをした。
先日、プールに行ったことは話していない。当然、そこでナンパしにきた男の子と一悶着あったことも。
何を言っても小言を言われるのがオチだからだ。
【野山:お前はオバさんみたいだけど、顔は綺麗なんだから気をつけろよ】
画面をスクロールして、何度も見てしまう。プールから帰ってから届いたメッセージだ。
主人はこんなこと言ってくれやしない。『いったい何をしてるんだ』と叱りはすれど。
とは言え、罪悪感がないわけではなかった。このままではダメだ。自分から歩み寄ろうと思うのだけど、顔を合わせると何故か、『口うるさい人』と、反発する気持ちが沸き上がってしまうのだ。
その時、またスマホが着信を告げた。今度はマキちゃんからのようだ。
【マキマキ:紀子さん助けて!】
いったい何事かと思うと、次々とメッセージが届く。
【マキマキ:財布落とした】
【マキマキ:ご飯ない】
【マキマキ:お腹空いた(T_T)】
私は思わずカレンダーの方へと目を向けてしまった。今、平成よね……?
“モノ”に溢れた豊かな世界に住んでいると言うのに、飢えに喘ぐ子供が身近に、それも二人もいるなんて……。情けないというか、何と言うか……。
マキちゃんは【クラブで落としたかも】と言う。今日は日曜日、夏休み中とは言え、学校に行っても先生方はいないだろう。親御さんも後二日ほど帰って来ないらしく、頼れるのは私しかいないらしい。
私は「仕方ない」と息をつくと、すっくと立ち上がった。
「ちょっと行ってくるわね」
一応、主人に事情を話したけれど、案の定、あまりいい顔を浮かべなかった。
頼ってきたのを無下にできない、と言った様子で、不承不承に「そう言うことなら仕方ないな」と言うだけだ。
私は自転車に乗り、途中で必要な材料を買い揃えてから駅に向かった。
降りた先で買ってもよかったのだけど、どこに何があるのか探す時間を考えれば、荷物になっても勝手知ったる店の方が効率がいいはずだ。
それに、それらを持って移動するのもほんの僅かだ。駐輪場から駅構内まで、電車の中で六駅ほど上るけれど、昼間の時間は空いているので、隣の椅子の上にも置いておける。
しばらく電車に乗り続け、一つ前の駅についた時にマキちゃんに連絡を入れた。
すると――
【マキマキ:もう待ってるよー】
と、数秒で返事が返ってきた。
今時の子供は、常にスマホを握りしめているのかしら……?
その言葉の通り、駅のホームで彼女は待っていた。顔を上げれば深緑の山々が望める、のどかな場所だった。
「紀子さぁー……ん!」マキちゃんは私を見つけるなり抱きついてきた。「助かったよぉー……」
「はいはい」お腹が空いているのは事実だろう。ぐぅぅとお腹が鳴ったのが聞こえた。
マキちゃん頭をポンポンと叩いて離れさせると、彼女の後をついて駅を出た。
家は歩いて十分ほどの場所にあるらしい。白壁の立派な構えをした家に真っ直ぐ向かってゆき、それが次第に大きくなってゆく。これが彼女の家のようだ。
赤い瓦屋根が古さを与えるけれど、新しさを残す灰色の広い玄関扉はそれをまったく感じさせなかった。玄関から庭も見える。青々した芝生はちゃんと高さが整えられている。
このような落ち着いた家に住んでいて、どうしてマキちゃんみたいな派手な子が……と不思議でしょうがなかった。
「ちょっと部屋汚いけど、気にしないでねー」
マキちゃんはそう言うと、私を家の中に招き入れた。
「お邪魔します」
内玄関も綺麗だ。ブーツや通学用のローファーが乱雑に散らばっているけれど、それ以外はちゃんと整頓されている。このような家に住みたい、と思った矢先だった――
「ここがリビングでぇーっす!」
「な゛……っ!?」
前言撤回。住みたくない。
「な、何なのよこれ!?」
「ちょ、ちょっと汚いって言ったじゃん」
「“ちょっと”どころじゃないわよ! こんな中で暮らしてたら病気になるわよ!」
「だーいじょうぶだって。一日、二日じゃならないってー」
「え……いつからこうなの?」
「昨日」
私は絶句してしまった。脱いだパジャマは床に、ソファーには雑誌と脱いだままの衣類が数点、しかもブラやショーツまで見える。空になったペットボトルとお菓子の袋はテーブルに、その下のカーペットにはカスが落ちている。テレビの前にはDVDが散乱――。
一日でここまで汚せるのか、と逆に感心してしまうほどだ。
まさか、と思いキッチンに目をやった。
「ああ、キッチンは大丈夫だよー」とカラカラと笑う。
「はぁ……」私は大きくため息をついた。これは料理だけでは済まなさそうだ……。
ここにやって来たのは十一時頃。私はまず米だけ研いでおいて、先にリビングの片付けをしていた。いくら友だちのとは言え、生々しい汚れがついたショーツを掴むのは複雑な気分だ。願わくば、このような機会は二度と来ないで欲しい――。
半透明のゴミ袋と洗濯カゴを置き、それぞれを適切な場所に放り込んでゆく。マキちゃんにはその間にDVDの整理をさせたけれど、掃除機でカーペットを綺麗にし終えてもまだモタモタと作業していた。彼女がそれを終えた時は、私が料理に取りかかろうとした頃であった――。
炊飯器のスイッチを入れ、包丁とまな板、そして買い物袋をキッチンに置く。
マキちゃんの母親は料理好きなのだろう。包丁はしっかりと研がれていて、高級感漂う調理器具が揃っている。また、普通の主婦が使わないような器具まで見受けられた。
「せっかくいい道具揃ってるんだから、マキちゃんも料理したらいいのに」
「うーん……一度やろうとしたんだけど、ダメって言われたんだよね」
「何で?」
「分からない。野菜洗ってって言うから、スポンジ持ったら怒られた」
「…………」
忙しい時なら、私もそう言うかもしれない……。
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