17歳(1)――

第1話 学生の始まり

 - 1 -


「じゃあ、気をつけてね」

「ああ、お前も気をつけるんだぞ」


 もちろんよ、私はそう言うと玄関先に立っていた主人が踵を返した。

 一歩目を踏み出そうとしたその時、「あ、ちょっと」と呼び止めた。「何だ?」と振り返った主人の肩を掴み、私は目一杯つま先を伸ばした――。


「おいおい……」

「ふふ、行ってらっしゃい」


 顔を赤くしたスーツ姿の主人の背に、セーラー服姿の妻が手を振って送り出す。

 文字にすると、世間からもの凄く誤解されてしまうだろう。でも、絵面を見ても誤解されてしまう。言葉で表しても誤解されてしまう。

 今の私は、誰も理解されないんだから。


「さーて、と――!」


 私は一度リビング戻って、壁に掛けている丸時計に目を向けた。

 七時二十五分。あと五分もすれば出発だ。

 身だしなみは大丈夫か、私は自分の身体に目を向けた。

 白いセーラー服に紺のプリーツスカート、そして白い靴下……すべてが真新しくパリッとして、何度見ても気持ちが高まってくる。


 ――二度目の高校生


 それを思うだけで、私は身体を左右に揺さぶってしまう。

 鞄の中には必要な書類と、新しいノートと筆記用具が入っている。そして、傍らに置いてある布袋には上履きが入っている。用品は大きく様変わりしていないけれど、私の時代と比べるとそれは大きく変化しているのだ。

 大丈夫かしら、と不安が胸の奥でざわめいた。

 気持ちを落ち着かせようとして、私は今一度時計に目を向ける。


「――あ、行かなきゃ!」


 時刻は七時三十二分を告げている。私はパタパタと玄関に向かい、真新しい黒いローファーに足を通す。コッコッと靴の音を玄関に響かせ、私は玄関を出た。

 空が凄く青い。そんな風に感じた。


「…………」


 時間にして数十秒だけど、私はしばらく感慨に耽っていた。

 三十年前の“高校生の私”が初めて家の外に出た時も、こうして世界が広がりを見せた感じがした。父が家の前で写真を撮ってくれたのを、今でも鮮明に覚えている。

 今現在の“門出”の写真は、主人がデジタルカメラで撮ってくれた。


(そう言えば、学校に行く前に一度だけ振り返ったっけ……)


 見送りに立っていた両親、祖父母は『大丈夫だ、行ってこい』と言うかのように頷いてくれた。

 今、振り返っても誰も立っていない。あの時は子供、。状況がなんだから仕方ないか……。

 玄関に鍵をかけ、自転車に跨がり、私はペダルを大きく踏み込んだ。

 青々とした爽やかな風が、私のお下げ髪を揺らす。


 見慣れていたはずの景色が、今ではすべてが新しかった。

 自転車はまだフラつくものの、あれから練習した甲斐あってか、運転は少しマシになっている。

 駅までは三十、四十分と見ていたけれど、左手首の時計が七時四十五分を告げる頃には、もう駐輪場がすぐ近くまでやって来ていた。

 予定よりも十五分も早い到着に、私はおでこに汗の珠を浮かべながら『若いって素晴らしい』と何度も思い浮かべた。


(当然だけど、学生が多いわね……)


 駅のホームは同じ姿の若人たちであふれていた。

 スーツ姿のサラリーマンもいるが、この学生の波にうんざりしているようにも見える。

 時刻は八時を指そうとしていた。ネットで調べたところ、三つ向こうの駅まで快速で約十分、普通で十五分ほどのようだ。

 朝は八時四十五分までに入ればいいとあったので、早すぎず遅すぎず、この時間が学生たちには最も都合がいいのだろう。

 何度も洗濯し、すっかり身体に馴染んだ制服に対し、私は糊が利いているような真新しい制服――そのせいか、周りからチラチラと見られている気がしてならなかった。

 特に男の子が多い。自分の制服の着方が正しいのかどうか気になり、落ち着きなく何度も自分の身体に目を落とした。



 - 2 -


 電車から降りた学生たちは、一斉に同じ場所に向かって歩いてゆく。

 私はその流れに乗っていたので、学校までは迷うことがなかった。……のだけど、学校の中までとはゆかない。


『あの……職員室はどう行けばいいですか?』


 校門をくぐってから立ち往生していた私は、近くにいた男の子に尋ねた。

 真新しい制服に身を包んだ私に察したのだろう、『そこの左斜め前の、職員用玄関から入って、左に十歩ぐらい進んだ所を右に折れて、階段を十二段上がって左に曲がって二十歩ぐらい――』と、これ以上無いほど丁寧に説明してくれた。名札に“2年”とあったので、恐らく同級生になるのだろう。

 職員室は教えてもらった通りの場所にあった。何人かの生徒たちが早くから出入りしている扉を前に、一つ息をついた。


 コンコン……。


 四十五年の歳月を経ても、見知らぬ場所の扉をノックをすることは、とてつもなく緊張するものだ。そして、中から訝しむような声音で『はい?』と返事が来ると、用意していた言葉が真っ白に消えてしまいそうになる。

「し、失礼します」私は入るなり、深々と頭を下げた。中に居る教師、生徒全員が私に目を向けた気がした。


「きょ、今日からこちらに通うことになります、林谷 紀子と申します。

 えっと、校長先生か、教頭先生にお渡しする書類があって参りました……!」


 職員室中が静まりかえった。誰もがきょとん、とした顔を浮かべている。

 確か昔はこの通りだったはずだけど、どこか間違えてしまったのか?

 あまりの静寂に逃げ出したい気持ちで一杯だった。するとその時――


「素晴らしい!」


 職員室の左後ろ……多分、職員用の休憩所からそんな声が響いた。

 目を向けるとそこには、総白髪の、とうに定年を過ぎているであろうスーツ姿の男性が立っていた。お爺さん、と呼んだ方が近いかもしれない。


「今時、このような挨拶を出来る子はいないと思っていた!」

「は、はあ」

「校長先生は今、席を外している。あちらの奥にいらっしゃるのが教頭先生だ。

 ――おい! 何ぼうっと座っているんだ、早く来んか!」


 見た目の割には元気がよく、その口ぶりからして職階を越えた何かがあるようだ。

 教頭先生と呼ばれた、痩せて骨張った顔つきをした男の人が慌てて駆け寄ってくると、そのお爺さんの先生はニマりと笑みを浮かべて、自分の席へと向かって行った。左奥の真ん中の方で椅子を引いた。

 それに私は、ハッとしていそいそと鞄を開いた。


「す、すみません……ええと、この“転入学願書”をお願いします」

「あ、ああ、そう言えば……うん、見たところ不備はないので、受け取っておこう。

 えぇっと、君のクラスは……」


 教頭先生はキョロキョロと見渡すと、左手前の席から「私です」と中年の男性が立ち上がった。少し堅物そうな、恐らく“以前の私”と同じ四十半ばかもしれない。


「〔2-C〕の担任の岡田、と言います」

「は、初めまして。林谷 紀子、と申します……!」


 深々と挨拶をすると、岡田先生から『数学の担当をしていて……』と周りの先生に向かって目を向けた。のは良いけれど、緊張が最大にまで高まった私は、先ほどのお爺さんの先生が、辰巳と言う名前で、古典の担当をしている……ぐらいしか覚えられなかった――。

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