第5話 薬の名前
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キスをした後、私はそっと家に帰った。
家の電気は点いたままだったけれど、主人は既にベッドに入っていた。私もそこに入り、背中合わせになると、小さな声で『ごめんなさい』と謝った。それは喧嘩をしたことか、それとも夫婦の契りを破った行為に対してか分からない。
翌朝。私が目覚めた時にはもう、主人は会社に行っていた。
朝食に使ったお皿やコップなどを洗っていたことに気づいたのは、昼食を食べ終えた時だった。
(必要ないってことかしら)
流しの前で、ため息を吐いてしまう。
明るくなると、後悔が少しずつ湧きあがってくる。昨日のことは夢であって欲しい。いや、再びやり直させて欲しい。今度は四十五歳の私がいない、正真正銘の十七歳の私から――。
なまじっか、大人であるから“妻”と“女”の狭間で悩むことになるのだ。
昨日の“|裏切り(くちづけ)”でハッキリとした。
私は野山くんに惹かれている。彼に向けていたのは、子供を慈しむ気持ちではなく、恋心だったのだ。
だから、私から主人への気持ちが冷めていったのだ。
(この身体を許すのも、時間の問題かしら……)
大人の私が最後の砦を死守している。
若い身体は抱かれることを望んでいる。若さを堪能しろ、主人は過去に愛した者だ、規範から解放されろ……あの手この手で、大人の私を籠絡しようとしていた。
私はブンブンと頭を振り、目をぎゅっと瞑った。
「このままじゃ、本当に堕落してしまう……」
今の時代は誘惑に満ち溢れている。そして、欲求もすぐに満たすことができる。
縛るものがないと、簡単にそこに流されていってしまう――。
私は自室に向かい、白いドレッサーの椅子に座った。化粧が必要なくなったせいで、白い天板の上には薄くホコリが積もっている。
私は天板を持ち上げ、その中に入れておいた例の薬を取り出した。
――戻るべきなのかもしれない
薄緑の液体が揺れた。これをすべて飲み干せば、私はこの板挟みから解放される。
けれど、友だちをどうするのか、惚れたあの子を諦めるのか、今戻っても“夫婦”は戻らない、と様々な想いが私の中で駆け巡る。
主人の言う通りだ。私は子供でいすぎた。得たものも多いが、失うのものも多い。
大人に戻ったその時、私に何が残っているのだろうか。
(……ん? 今戻っても“夫婦”には?)
その時、あることが気にかかった。
(四十六歳から十七歳に戻るのは分かるけれど、十七歳から四十六歳に戻るって変じゃないかしら……?)
逆行、と言えばそうだ。
けれど、『十七歳から“戻る”』と、言うには語弊がある。
私は薬瓶を注意深く観察した。側面には、手書きの文字の他に何も書かれていない。
よくこんな、ラベルも何もないものを飲んだものだ……。
くるくると回転させながらそう思っていると、瓶底に触れている指がざらりとした感触に気づいた。角の近くに、僅かな凸がある。
(字……?)
私は光に透かすようにして下から覗き込んだ。
カタカナが書かれているようだ。
(リバース……?)
この薬の名前なのだろうか?
けど、そうだとしたらラベルぐらいはつけるだろう。
私は学校用の本棚に足を向け、英和辞典を手に取った。
リバース……リバース……意味は分かるのだけど、念のためにだ。
「あったあった、えぇっと……やっぱり、逆転させるの意味の“Reverse”よね……ん?」
私はふと、英語の授業を思い出した。
確かリーディングの時間だったか、『英単語が分からなくても、頭に付く文字で意味合いを把握する方法がある』と説明していた。“Dis”は“否定”などで、“Re”が頭に付くと“返す・戻る”の意味合いとなる。
では、“Reverse”は《“Re”+“Verse”》となる。
「“Verse”は、“詩”とかか……“物語をひっくり返す”ってことかしら?
そう言えば、他にも同じ音の言葉あったわよね。
“Birth”は“生まれる”、で“Rebirth”で生まれ変わ――」
バサッ……と、辞書が私の手からすり抜け、床の上に落ちた。
「まさか……まさか、そんな……」
あの薬の名は〈リバース〉で間違いない。
けれど、薬の効果は『若返らせる』だけじゃない――……。
私は急いで近くにあったボールペンを手にとり、ノートに書き出し始めた。
・
・
・
その日一日、私は何もできなかった。
時刻は二十時を周り、主人が帰ってくるなり私は『そのままテーブルについて』と話した。
私の声、表情、雰囲気に、主人も何かを覚悟した様子だ。
一枚の紙切れを出された時、少し顔が強張った……けれど、思ったものと違ったのか、すぐに混乱した表情へと変えた。
「これは、何だ……? 昭和と平成……?」
「私にあった出来事よ、左が過去にあったこと、右が今にあったこと」
破られたノートには
【昭和 ←→ 平成】
【大人 ←→ 子供】
【玄関で家族に見送られる ←→ 誰にも見送られない】
【父親に写真を撮ってもらう ←→ 主人に写真を撮ってもらう】
【原付 ←→ 自転車】
と、言った内容が書かれている。
主人は「意図が分からない」と正直な気持ちを述べた。
「あの薬……飲んだ人を若返らせるだけないのよ。
名前は〈リバース〉――飲んだ人を、その人の人生を“逆転”させる薬なのよ」
「ど、どういうことだ?」
「私に関わることが、今この時代で反転して起こってるの」
大人と子供は対照的だ。
そして、当時に生きた時代も対照的だ。
「大人から若返る、けれど、そこから大人に戻るって妙だと思わない?
戻るの反対は進む。言葉にするなら『大人まで進める』ってことになる……私はこのまま、大人になるのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……お前の言っていることがよく分からない。
もう少し、分かりやすく言ってくれ」
私自身もよく分かっていないので、これ以上の説明ができない。
だから、確たるものだけを説明することにした。
「私……好きになった人ができたの……」
「え……」
「あなたがいるのに……。
けれど、十七歳のこの時、私とあなたに何があったと思う?」
「何がって……」主人は口元に手をやって思案した。そして「お前と付き合いだした!」
私はそれに小さく頷いた。
「十七歳で異性を好きになったことは同じ。
けれど、内容は違う……本来の私はあなたと言う人がいるのに、今の私は別の人を好きになっている――つまり、“浮気”よ」
「じゃあ……薬のせいだ、と言うのか?」
「そうとは言えないけれど……大きな力に引っ張られているのは確かよ」
「大きな、力?」
「若い私……いわゆる運命。正直に言うわ……あなたに対する気持ちが、どんどんと離れていってる」
「…………」
「大人、に対して拒絶反応を示してるのよ。“におい”が顕著よ……。
“リバース”って言葉には、“生まれ変わる”って意味のもあるの。
あの薬は『物語を最初からやり直し、生まれ変わらせる』って薬なのよ。
このまま行けばどうなるか? 二十六歳の出来事と逆のことが起こる――。」
主人は『二十六……』と呟くと、すぐにハッとした表情を浮かべた。
そう。私は二十六歳で“結婚”した。
そして、今それが逆転すれば……“離婚”と言う事象を引き起こすのだ。
「別れる、と言うのか」絞り出すような声で言う主人に、私は小さく首を振った。「いいえ」
「そうなっては思うつぼよ」
「思うつぼ?」
「そう。あの薬をもらった時、子供が得られると言ったことを告げられた。
けれど、私たちの間じゃない――離ればなれになって、それぞれが子供を産むことなのよ。
少子化対策、なんてよく言ったものね。子供ができない一組を援助するより、それぞれのペアを分け、それぞれに子供を作らせた方が効率がいい」
私たちは、シスターの見た目に騙されていた。
あれは神のしもべでも何でもない、悪魔の遣いなのだ――。
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