第21話 一晩明けて、君は

 翌朝、サービスでついていたモーニングを注文し、美味くも不味くもないそれらと部屋に備え付けられていたインスタント珈琲で流し込み。結局駅前の珈琲チェーン店で口直しの珈琲を買って出社した。


「っつつつつ……流石になんつーかキツイなぁ……これ……」


 椅子に腰掛け、しばらく作業をしてからそのことを思い知った。

 腰が、かなりきつい。

 流石にベットで寝ないと疲れは取れないし、心底、もう若くないのだと思い知る。

 昔はソファーで横になっているだけでもそれなりに休めたものだが、次からは部屋を二つとってでもベットで寝ようと誓った。

 次があって堪るかという思いもあるのだが。


「手伝いましょーか?」

「お前はお前んとこやっといてくれ。厳しいようなら声かけるから」

「はーっい」


 生憎、出社時間より随分早く来たおかげで周りに誰もいない。

 ワイシャツなどは洗濯し、備え付けられていたアイロンでシワを伸ばしたので「昨日は帰っていない」とは思われないだろうが、微かに俺と藍沢から同じシャンプーの匂いがする件については気にならざる得ない。

 ただでさえ「顔見知りのよしみで手を出すんじゃねーぞ」と同僚から釘を刺されているのに、こんなことがバレれば針の筵だ。どんな罰ゲームだ。


「なんだかお疲れですねー」

「ぁー……?」

「よく眠れませんでしたか?」

「…………」


 腰の痛みがズキズキと存在感をアピールしてくる。

 ただ単にソファーでの眠りが浅かったからというわけでもない。

 原因は藍沢にある。


「……まーな、正直腰がいてーよ」

「うふふ」


 弁明しておくが決して手を出してなどいない。

 腰が痛いとは「そういう意味ではなく」、ただ単純に「腰に負担があれした」のだ。

 いや、意味合いとして大して変わっていない気もするが。


 率直に言えば目が覚めた時、藍沢が上に乗っていた。


 一晩中そうしていたというわけでもなく、朝目が覚めたら俺がソファーで寝ていたので乗っかってみた、というだけの話らしい。

 そのおかげで俺の目覚めはなんとも窮屈なものとなり、たかだか小一時間の負荷により一晩で取れたはずの疲れ分、疲れが蓄積された。

 みたいなもんだ。


「そういやなんかサンドイッチにされる夢みたよーなきがする……」

「柔らかサンドッスね」

「自分で言うなよ」


 確かに色々柔らかかったけど。


 変な想像をしないうちに頭を仕事モードに切り替えていく。今夜こそ残業は元より、休日出勤など以ての他だ。

 絶対に定時で帰ってやると意気込みを入れ直し、キーボードを叩き、画面に目を走らせる。

 こんな時、あいつの超能力で「チートモード」にしてもらえらた随分楽なのになぁ、と少しだけ思った。



 昼休みもろくに取らないまま、課長曰く「今日のお前はなんか怖い」状態のままで駆け抜け、退社時間間際でなんとか仕事は片付いた。

 これ以上の仕様変更は自分でどうにかしてくださいと殆ど脅しに近い宣言と共に課長へ叩きつけ、沈み込んだ椅子はがしゃんときしみを立てて跳ねる。

 こいつもそろそろ限界かもしれない。許されることならもう少し良い椅子で仕事がしたいものだと無能(課長)が使っているハイスペックチェアーをみて思う。少しは部下に還元してほしいもんだ。


「お疲れ様っす」


 ちょんと肩の上から差し出されたのは休憩室に備え付けられている自販機で売っている缶コーヒーだ。

 甘めのクリーム入りカフェオレという文字に顔をしかめるが「疲れた時は甘いもの取らないとっス」などと促されれば受け取るしかない。

 渋々口をつけてみればやはり甘すぎてジュースと変わらない。

 なんなら分類表には「コーヒー入り飲料水」なんて書かれている。

 もはやコーヒーですらない。


「流石先輩っすね」

「嬉しくねーな、正直」


 くぐって来た修羅場の数が違うのだ。根本的に。

 ブラック企業すれすれの会社で働き続けていればそうもなる。

 毎日片付けても片付けても降って湧いてくる仕事をひたすらこなしていく事で歴戦の勇姿となれる。

 なれない奴は消えていくだけだ。

 体を壊してな。


 ……本格的に腰を労るべく、良い椅子を自腹でも導入すべきか……?


 ぎしぎしと今にも壊れそうな安物のパソコンチェアーを揺らしてそう思う。

 それぐらいの福利厚生は許されるだろう。


「さて、と……帰るかな」


 仕事は片付いた。休日出勤する必要もないだろう。

 いつもの課長なら小言の一つもありそうなものだが今日の働きぶりをみて何か言えるような関係ではない。

 これで仕事を押し付けられるなら俺は辞表を押し付けてやる。

 あの広がったひたいに。

 机の上を片付け、パソコンの電源を切ると暗くなった画面に藍沢の顔が映った。

 一瞬、あのホテルでの光景が脳裏をよぎる。


「……なんだよ」


 にまにまと何かを言いた気なままこちらをみている様子に不満を告げると「なんでもないっスー」と自分の席に戻ってカバンを提げ「おさきデーっす!」と部屋を出て行ってしまう。

 俺が挨拶したところで返ってくることなどない「お疲れー」なんて声が心底欝陶しい。


「……?」


 なんなんだ一体と呆れていると携帯に通知が入り、藍沢だった。


「…………」


 下で待ってまっす。なんて短くともわかりやすいメッセージに思わず肩をすくめ、俺も職場を後にする。


 これじゃまるで恋人同士だ。


 社会に出れば既成事実が先に来ると聞いたことがあるが、なんともまぁ、こそばゆい。

 エレベーターで下に降りると藍沢が携帯をいじりながら待っていて、俺に気がつくと微笑み、共に歩き出す。

 まだ日が傾き始めたばかりのビル街を、肩を並べて。


「……言っとくが今日は帰るぞ。飯も行くつもりないからな」

「わかってるっすよぉ〜、お疲れですもんね。せ、ん、ぱ、い?」

「何か含みを感じるな……」

「んゥー、怪しいことは何にもないんスけどねー」


 いつもよりも一段とテンションの高い藍沢にやれやれと呆れるばかりだ。

 昨夜、また日を改めてと、俺は告げた。

 今はまだ、過去の感情に引きずられているのか分からないから、少し待ってくれと。

 結局のところは保留だ。宙ぶらりんに曖昧なまま弄んでいると罵られても仕方がない。


 なのにこいつは……、……なんなんだろうな……?


 人一倍察しがいいくせに都合の良い時だけ知らないふりをしてくれる。

 それが俺にとって都合がいいのだと分っているからなのか、それとも何かしらの思惑があってのことなのか。


 なんにせよ、こいつほど人付き合いがうまくはない俺は手の上で転がされるだけ……か。


「あのですね、先輩」

「なんだ」


 そういって含み笑いをしてみせる藍沢に嫌な予感はしつつも、悪い気はしなかった。


「私は先輩の事好きっスよ?」

「……言ってろ」


 まるであの頃に、……それこそ、あの頃の延長線上にいまこうして立っているようで心地よかったのだ。

 つまるところ、やはり人間そうそう成長できるものでもないらしい。

 そのことを思い知らされる日々である。


「んじゃまーまた週明けに! 寂しくなったら連絡しくれてもいいっすからねー!」


 周りの目など気にも止めず(気がついてはいるのだろうが気にせずに)藍沢はそうはしゃいで自分の改札を潜ってゆき、俺もそんな様子を見守ってから改札に向かうべく足の向きを変える。

 一日帰っていなかっただけでも何故か随分久しぶりに帰って来たような気がする。一種の懐かしさまで込み上げて来るのは一体なんなのだろうと首を傾げつつ、なんとか仕事を終えることができたのだという安堵感からか急劇に疲れが込み上げて来た。

 今夜はぐっすり眠れそうだった。


 そうして改札をくぐり、駅のホームへと向かうと丁度良いタイミングで電車が滑り込んで来た。

 折り返し始発の恩恵を十二分に受けつつも椅子に腰掛け、はぁーと溜め息をつけばそのまま眠り落ちてしまいそうな程だ。何気に車両に備え付けられている椅子は座り心地が良い。単純に疲れがそう錯覚させているだけかもしれないが、なんとなくそう感じた。

 目を閉じ、端の席である恩恵を受けるように壁にもたれ掛かってくたびれる。


 本当に最寄駅まで寝てしまうべきか……?


 そう思った矢先、


「お疲れみたいですね」 


 聞き慣れた声が「耳に」届いた。


「お疲れ様ですっ、おにーっさん?」


 学校帰りの柚乃がそこに立っていた。

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