第5話 お隣よろしいですか?

「(ですから、えっちなのとエロいっていうのは違うことなんです。どうして分っていただけないんですか!)」

「(いいから少し黙っててくれ……正直今日は相手をしてやる気力がねぇ……)」


 その日の夜、遠泳でもさせられた後のような疲労感を抱えて座り込んだ向かい側の席に女子高生がいた。


「(篠崎柚乃です!)」


 と、即座に訂正されたがやりあう気も起きず、横長のシートに腰掛け、カバンを抱えてうなだれた。


 辛い……今日は一段と辛かった……。


 課長の無能さはさておき、やっとものになってきたと思った後輩がゆとり辞職とは恐れいった……。納期ギリギリだっていうのに何故このタイミングで? 何故、恩を仇で返えすッ……。無理をしろと言ってるわけじゃない。体を壊しては元も子もないのは当たり前だ。だが、辞めるにしても辞めどきというものがあるだろうっ……どうして俺ばかり……。


 やけ酒でも煽りたくなるがまだ木曜日だ、あと1日残されていて納期は週明け……明日目処の着く所までやっておかなければ週末はサービス出勤となる。もしくはひとりプチデスマーチだ。面倒を見ていた後輩が抜けたからって俺一人に押し付けるこたぁなかろーよ……。


「(大変なんですねー)」

「(大変なんだよ)」

「(よしよーっし)」

「ハァ……」


 微かに顔を上げてみれば向かい側の席に腰掛けてニコニコと笑顔を振りまいてくるのが見えた。そろそろ発車時間だ、ちらほらと立っている人もいるからこのまま人が増えれば今日の所はこの女子高生と話さなくても済むだろう。


 一安心、


「ぅっ……」


 というにはまだ早かった。残念ながら左側に座っている大学生がちょいとばかり欝陶しい。


 一体何のゲームをしているのかと思えば音ゲーだ。タブレットを膝の上に乗せてイヤホンから漏れてくる音楽に合わせトタタントタトタトトトトトッ……ウゼェ……。

 肘がガシガシ当たってくるし、おそらく当の本人はゲームに夢中すぎて気がついていない。


 他にも空いている席はあったのだが何も考えずに座ったのが運の尽きだった。

 いっそのこと立つか……?


 座っていたいのは山々だが、このまま音ゲーの餌食になり続けるのは流石にーー、そう思っていると突然何を思ったのか大学生が振り返り、一目散に電車から降りていく。それと同時に発車を告げるアナウンスーー、……目で追っていたがどうやら駅のホームにプレイしていたゲームの新しい広告を張り出す所だったらしく、それを撮ろうとスマフォを構えている所だった。


「いやいやいや……どんだけだよ……」


 そこまでかける執念は恐ろしい。


「でもほら、あのゲーム人気ですし仕方ないですよ」

「あッ……?!」


 ふと気がつけば大学生の座っていたスペースに女子高生が滑り込んできている。

 元いた場所にはおばさんが、よっこらせっと腰を下ろす所だった。


「何でお前がこっちきてんだ!」

「まーまーっ」


 片手で制しながら「おしゃべりは厳禁です」とでも言いたげに自分の口に指先を当てた。

 そういえばテレパシーではなく普通に口で会話してしまっている。若干周囲の目が集まってきていた。


「(お前なぁ……)」

「(お兄さんが私の隣に来ないからいけないんですよー、ちゃんとカバン置いて場所取っておいて上げたのに)」

「(そういうのは他の人に迷惑だから辞めなさい。つかマジで疲れてんだから寝かせろ)」

「(いいですよ? 最寄駅に着いたら起こして上げますからっ)」


 それまで視線を合わせないように向かい側の窓の外を眺めていたのだが、意外すぎる発言に思わず横を見てしまった。「何かおかしいことでも?」とでも言いたげに首を傾げての笑顔。なんなら、


「(大丈夫です、超能力に不可能はありませんから気持ちよく起きられますよ?)」


 太鼓判まで押された。


 一体何考えてやがる……。


「(なにも?)」


 常々思うんだけど、この一方的に思考を読まれて頭の中に声を飛ばされるシステム、俺が不利すぎやしないか? そりゃ俺にこいつみたいな超能力がないのが悪いんだろうが(なくて当然だけどさ)不公平ここに極まりって感じで卑怯だぞ。


「じゃあしばらくの間は黙っていて上げますから、どーぞお休みくださいっ?」

「あのなぁ……」


 マジで側から見てたら社会人と女子高生のカップルじゃねーかこの会話……。


 別段そう思われることで何か不都合があるというわけでもないんだがただ単に「こいつと」そういう関係だと思われるのが嫌で目を逸らす。ただそんな態度も負けたような気がして腑に落ちず、売られた喧嘩は買う方向で落ち着いた。良いだろう、起こしてくれるというのなら好意に甘えさせて貰おうか。


「(なんなら肩貸しますよ?)」

「(黙ってろ)」


 いきなり約束やぶんじゃねーよ。


 はーい、と言わんばかりにクスクス笑う肩を横目に瞼を閉じる。


 勝手にとはいえ、こんな時間まで待たせておいてその仕打ちも何だとは思うが罪悪感よりも先に体の限界のが来ていた。なんとかかんとか明日乗り切れば休みだ。いや、休めるかどうかが明日にかかっている。きっついなー、休みテーナー……うだうだ考えていたのだがいつの間にか溶け始めた意識はそのまま泥沼に飲み込まれるようにして暗闇の中に沈んでいく。


 ガタンゴトンと、心地良いリズムで刻まれる電車の音色も作用したのだろう。眠りに落ちるまでそう時間はかからなかった。


 気がつけばとぷとぷと気泡が浮かんで水面が煌めく光景が広がっていた。

 海の中……? しかし息は苦しくはない、むしろ風呂に浸かっているかのように快適でゆらゆらとハンモックにでも揺られているかのようにただ水面を見上げる。

 ぼんやりする頭でキラキラと降り注いでくる光の粒を綺麗だと思い、随分とご無沙汰している水族館の大きな水槽を思い描いた。懐かしいな……。ひとり思いはせる。


 夢にしては眠く、本当に俺は夢の中にいるのかもちょっと疑問で。つか、夢なのかこれ。ああ、……だから息苦しくないのか、なるほど。

 理解しているのかいないのか。現実でないことを自覚しながらもいまいち目覚めきっていない頭はただ目の前の光景を漠然と受け入れていて、仄かに体が温かいのが心地よかった。


 目をつぶり、その感覚を俺は何処かで知っているような気がして甘んじる。

 夕焼けの校舎、気だるげな夏の終わりの思い出ーー、


「ん……」

「(おはようございますっ?)」

「んぁ……、……ああ……すまん……」


 いつの間にか本当に肩を借りる形になっていたらしく姿勢を正す。

 一人前の大人としてこれはよくない。ましてや年下のガキに支えてもらうだなんてカッコ悪い。

 と、ぼんやりしたままの意識の中でまだ目的地の少し手前だということを確認し、カバンを抱えなおそうとしてーー、


「…………?!」


 声を出さなかったのが我ながら奇跡的だったと思う。


「(なにしてんだお前ッ!!)」


 慌ててその手を振り払い、カバンの上で組む。反射的に身を引く形になり、反対側のスーツに睨まれた。いや、すまんけど、いやいやっ……。


 困惑する頭で隣を見れば意地の悪そうな顔でこちらを見上げる女子高生。


「(良い反応ですねぇー)」


 ニヤニヤとしてやったりと言わんばかりの表情に言い返したいやらそれをしたら大人の尊厳に関わりそうやらで、むごごごごと言葉を飲み込む。


 まだ微かに指先にその感触は残っていた。


 女子高生は俺の手を握り、否、自分の太ももの上に俺の手を置いて、更にそれを両手で包み込むようにしてホールドしていたのだった。


「(一瞬ですけど良い想像を頂けましたっ、なるほどなるほど)」

「(お前なぁ……)」


 ガチで捕まる一歩手前じゃねーか……つか行為自体は完全にアウトだし。


「(肩に頭乗せてましたし、私もお兄さんにくっつくようにしてたんで、バカップル的偽装はばっちしです!)」


 そういう問題じゃねーよ……。


 大都会東京、いちいち電車の中で居合わせた相手のことなんざ覚えている奴はいねーだろうけどそれでも気にするもんは気にする。


 エロい漫画を描くための取材だッ……?! ばっかじゃねーの!?


 やはり信じられない俺には理解できないとドン引きした心は一周回って憤りさえ覚え始めている。他人を巻き込むなよ淫乱女子高生っ……。


「(淫乱違います!! 人をえっちみたいに言わないでください!)」

「(違わねェだろ!! おんなじだろ!! お前みたいな奴見たことねーよ!)」


 見たことないだけで実在したのだから世界は広い。


 いや、そうじゃなくて。


 超能力という非現実的な力もそうなのだがこの女子高生に至っては色々とぶっ飛んだところが多すぎる。ありえねーだろ……だって……。


「(そんな漫画じゃあるまいに……)」


 ……?


 ……??


 ふと、自分で言っていて引っかかるものがあった。漫画?


 俺の思考を読んでいるはずのそいつが隣で目をぱちくりと首を傾げ、俺は断片的だった思考をまとめていく。


 ああ、そうか……漫画か……、漫画の読みすぎておかしくなったのか、こいつ……。


「(なっ……)」


 決して俺のことじゃない。女子高生のことだ。

 俺はそんなに漫画読まないし、むしろ活字派だし。アニメも見ねーからよくわかんないけどそうか、こえーなー最近の若者は、すぐテレビや漫画の影響を受けやがる。


「(バカなんですか!? 世の中の犯罪は全て漫画やアニメの悪影響だとかそらんじるおじさんたちと同じで何ですか!?)」

「(ああ、そういやそんなニュースもやってたな。最近も変態野郎が漫画の真似して捕まってた)」

「(違いますから! もともと変態野郎だった人が変態的な漫画を探して読んでいただけで、えっちな漫画を読んだからと言ってえっちになるわけではありません!!)」


 いつになく力説。


 口には出していないがもごもごと今にも口先が動きそうになっている。そこまで躍起になるなら脳内じゃなくて直接言ってしまいそうなもんだが、ある種の自制心は働いているらしい。確かに電車の中でこんな話してるの聞かれたら恥ずかしくてもう電車乗れないもんなぁ……。


 恥じらいというものが全くないのかと思ったがそうでもなかった件に関しては感謝するとして、


「(じゃあお前はえっちだからえっちな漫画を描いてるのか)」


 少しだけ意地悪したくなった。


「(なっ……!!!!)」


 みるみるうちに赤くなる女子高生。

 つか、冷静に考えなくても完全にセクハラだな、これ。


「お」


 そうこうしているうちに最寄駅に着き、立ち上がると妙にスッキリした気持ちだった。

 心なしか体も軽い。


 なるほど、たまにはやり返してやるもんだなーとやられっぱなしが如何に体に悪いかを認識した。


 特に声をかけることもなく、いや、「じゃーな」一言だけ追い討ちをかけて駅のホームへと降り立つ。

 間もなくして扉が閉まり、走って行く車両の窓越しにプルプルと涙目で抗議を続ける姿を見た。脳内に直接怒鳴り込んで来ないあたり、相当ぷるぷるしているらしい。やーいやーい。


 なんて、流石に大人気なかったかもな。


 走り去って行った電車を眺めつつ改札へ向かい、カバンを持ち直した辺りであれほど凝っていた肩が異常なほどに軽いことに気がつく。肩だけじゃない、腰も、あれほど怠慢だった足首の付け根も一晩マッサージをしてもらったように驚くほど軽かった。


「嘘だろ……?」


 こんなに体が軽いのは本当に久しぶりで、なんなら今から走って帰宅できそうな気分だ。ガッチガチに貼り付けられていた鎧が剥がされたかのように、バリバリに乾いていた皮を脱ぎ捨てたように、恐ろしく身軽だった。


「まさか……な……?」


 ふと、電車の中で不満げに頬を膨らませながらも「してやったり」と僅かに微笑むあの顔が見えた気がした。


 俺にはあいつと違って超能力なんざ一切ないからこれはただ単に俺の妄想で、想像でしかなのだが、


「くっそ」


 そんな想像をしてしまった時点で負けみたいなもんだ。


 明日電車で一緒になったとしても、この件については一切触れないし考えないようにしてやる。


 そう心に誓った。

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