第15話 彼らのデートスポットといえば

 満員電車の不快感はいつもとなんら変わりない。

 押し込まれ、詰め込まれた、もはや貨物車とでも言った方がしっくり来そうな状態で運ばれる。

 右も左も、前も後ろも人の壁。


 一度「痴漢です!」とでも言われれば人生が終了してしまいそうな危機感の中で何が悲しくてホールドアップ、両手をあげ続けなきゃならんのか、早々に交通機関には改善策を求む。

 もしくは仕事に行かなくても済むような気楽な社会を、政府に。


 ……なんて、あまりにも暇すぎて面白くもなんともない思考を巡らせるに至る。


 趣味の落語でも聞いてりゃよかったんだが、どうにもイヤホンをつける癖を忘れてしまう。乗り込む前に再生ボタンまで押しておかなければ身動きが取れない状況では、どうしようもなかった。


「…………」


 視界の何処かに、あいつの姿が見えるんじゃないかと思ってしまう。

 見つけたところでどうするって話なのに、もしかしてーーと女子高生の制服が視界の端をかすめるたびに期待が膨らむ。

 篠崎柚乃が俺に別れを告げてからもう2週間、未だに一度もその姿を見てはいなかった。


「……はぁ……」


 もともと向こうがこちらを勝手に補足して近づいて来ていただけだ。こちらからあいつにアプローチする手段は何もない。同様にして今度は「裂けよう」と思えば永遠に避け続けることもできるのだろう。超能力ってやつは心底便利なものらしい。


 向こうがその気ならこっちが折れる必要もなく、そもそも折れるってなんだよって話で。……これでおしまいっていうならもうちっとマシな別れかたもあっただろうって思うのが本音だ。


 モヤモヤと、納得しきれないものが居座り続けていてどうにも鬱陶しい。


「態度に出てるっすよ? それ」


 藍沢にそう指摘されたのは金曜の帰り道だった。


 次のプロジェクトが始まり、そこそこ忙しい毎日ではあるが優秀な人材が一人はいるだけで環境は一変するらしい。残業することもなく、定時に会社を後にすることができた。


 悲しいかな。契約社員の藍沢に少しでもかっこいいところを見せようと男どもが息巻いた結果、前倒し並みにスケジュールは進行し、順調すぎる結果を残しつつある。


「出てるって、何がだよ」

「誤摩化さなくたって平気ですよー。ここんトコずっとモヤモヤしてるのわかってますから」

「お前なぁ……」

「んっ?」

「……いや……?」


 気がついていて黙っていた。

 そしてそれを今になって持ち出したというのであれば余程のことか。


「…………」

「先輩?」

「ああ……いや、……まぁ……すまん」

「いえいえっ」


 ウダウダ言い澱みつつ、やはりどうにも歯切れが悪い。


 言ってしまったところで何も変わらないだろうし、どうするつもりもないのだから吐いて楽になってしまえばいいものを、何がどう自分の中で引っかかっているのか図りかねる。

 心配してくれる気持ちは嬉しいが、やはりそれを言ってどうにかなる話でもない。


「上手く言えないんだ、悪いな……?」

「そういうことって、あると思いますよ。わりと」


 気不味い空気を和らげようとしてかふんわりと微笑む藍沢が眩しい。

 ここまで気を使わせてしまって申し訳ない気持ち半分、情けない気持ち半分だ。


 それでもなんとも言ってやることができずに黙々と二人で駅に向かって歩く。まだ日も沈みきっていないというのに、金曜の終わりともなれば居酒屋に入っていく人たちは少なくない。


 寄っていくか?


 そう思ったが、口には出さなかった。


 いや、出せなかった。


 酒を飲んでどうにかできる気分でもなかった。


「じゃあ、デートしましょうか。先輩?」

「ぁ?」


 信号で、足を止めた矢先、藍沢がそう言った。


「デートですっ。明日、ちょっと付き合ってくださいよ」

「悪いがそういう気分でもないんだけど……」

「そういう気分にさせてあげますからっ」


 歩き出そうとした途端手首を掴まれ、ガッツリと引っ張られる。

 頷くまで帰らせてもらえないパターンだ。


「……少し強引すぎないか」

「強引にしなきゃ揺らいでくれないでしょ?」


 悪魔のような笑みとはこのことを指すのかと目を細めた。

 そうこうしているうちに信号は点滅し、再び赤に変わる。

 動き出す車、車道に近くて危ないから元いた位置に戻る。


 何してんだ、マジで。


「笑っちゃうぐらいあの頃のまんまなんだもん。そんなんじゃ、手玉に取っちゃうよ?」

「笑えねーからやめてくれ」


 別に独占欲が湧いたとかじゃない。

 ただ思わず砂を噛んだ時のような不快感があっただけだ。唐突だったから。本当に変わっていないのかと疑ってしまったから。


 残念ながらこいつはモテる。普通に人気もある。


 そんな奴が俺に構ってくれている時点で不思議なのに、それを無下に扱うというのも贅沢なもんだよな。と我ながら恐ろしくもある。いつまでも待ってくれているとは限らないのに。


 否、待っていてくれたことが奇跡としか言い様がないのに。


「分かったよ、明日1日付き合ってやる。……1日だけだぞ」

「はいさっ」


 渋々とはいえ了承する。夕日で赤く染まった藍沢の笑顔はやはり眩しかった。


「……はぁ」


 見事に、手玉に取られていた。

 


 翌日。何処かに出かけるのかと思っていたら指定されたのはまさかの秋葉原だった。


「まさかここに来ることになるとはな……」


 噂には聞いていた。そしてどういう場所なのかもなんとなく想像はできていた。

 ただ、降りてみれば「それほど」、「そういう場所」でもなさそうだった。


 駅ナカの広告が普段より少しアニメのものが多く、しかしオタク街というよりも電気街という印象の方が強い。何処へ行こうにも右も左もわからず、とりあえず改札の前で待ちぼうけていると白いシャツにロングスカートと言う当たり障りのない服装で藍沢は現れた。


「……なんです?」

「いや……」


 なんとなく、肩にかけているトートバックに嫌な予感が込み上げて来る。


「まさかお前の同人誌を見せられるとか、そういう展開じゃないよな……?」


 爆裂堕天使がどのようなものを描いているのかについては意識的に頭の中に入れないようにしてきた。あいつの件もあるが、やはり知人の欲望の一編をのぞき見るのはどうにも抵抗がある。


 俺の視線と発言で意図を悟ったのか呆気にとられたように固まっていた藍沢は笑い、


「そんな気になるなら見に行きます?」


 俺の手を取った。


「いやいやいやっ、見に行かなくていい。見たくもなんともねーしっ!」

「そう言わずに、ホラホラッ」


 ぐいぐい引っ張られ、オタク文化の聖地、秋葉原へ。

 想像していたよりもオタクオタクしていない人々を横目に外人の多さが目につく。


 これじゃ完全に観光都市だな。


 若干抵抗があった気持ちも少しずつではあるがほぐされつつあった。


 のだが、しかし。


「これが爆裂堕天使の既刊です!」

「……うわー……」


 同人誌を専門に扱っているお店とやらに案内されてそんな気持ちも一気に萎えた。


 あたり一面を埋めつくさんばかりの「薄い本」。

 当然ながら成人向けのものも多々あって、目のやり場に困るというのはこのことだ。


 そして何よりも「爆裂堕天使」の「薄い本」もかなり際どい。


 というか、完全にアウトだった。


「……えげつねぇな」

「そうですか? そば粉うどんさんに比べれば全然普通だと思いますけど」

「比べるもんじゃねぇから。そこ」


 エロ同人誌を出しているという時点で一般常識からは甚だ離脱しているし、受け入れがたいことには変わりねーからな……。


 呆れてものも言えない俺を置いて藍沢はホイホイと上機嫌に何冊かを手に取り始める。全年齢対象っぽいのが唯一の救いだが、そういうものに囲まれている状況というのはどうにも落ち着かない。

 ツタヤのアダルトビデオコーナーに彼女を連れて入ってしまったような場違い感だ。

 いや、そんな経験ないから想像なんだけど。


「先輩って相変わらずこういうの苦手なんですね」

「苦手とかそういうんじゃないだろ。……基本エロいのはダメだ」

「いや、そういうことではなくて」


 本を手に取りながらも相沢の口調は真面目そのものだった。

 肌をさらけ出した女の子のイラストとその雰囲気はどうにも噛み合わない。


「えっちなのがアウトっていうよりも、オタク文化が苦手なんですよね。先輩って」

「…………」


 いわゆる図星でしかないのだが、こんなアウェイな空間でそれを言われてしまうと肯定も否定もしづらくなる。


 それこそアダルトコーナーの彼女じゃないのか、そんな質問。


 全身をチクチクと棘で刺されるようないたたまれない空気感に「ちょっと外の空気吸って来る」と踵を返した。

 狭い店内だ。こちらの話を聞いていたのかそれとも不穏な空気を感じ取ったのかすれ違う人たちの視線が少し痛い。


 いや、考えすぎか。どんだけ自意識過剰になってんだよ。


 ひと様の事情なんて知ったこっちゃない。ものの数分で忘れられるような相手のことを気にしたって馬鹿らしい。


「なんつーか、意味わかんねーよなぁ……」


 こうして藍沢と出かけている現状が。

 そしてあいつの意図も。


「……意図か」


 どういうつもりなんだろう。

 そのまま好意として受け取ってしまっていいんだろうか。

 生憎、お世辞にも女慣れしているとも言い難いので受け止めかねる。それこそ自意識過剰なんじゃないだろうか。


 ただの先輩後輩、過去の関係をどうこうというよりもただ遊びたかっただけとか……?


 そこまで考えてからそんな風にはぐらかすのも意地が悪よなぁと自覚する。


 ガキじゃねーんだ。


 色恋沙汰に浮かれるような歳でもない。

 ぼんやりしながら店の外に出ようとすると入ってくる人影とぶつかりかけ、思わず一歩後ろに体を退いた。お互いにそれほど急いでいわけでもなく、危ないところだったが互いに視線のぶつかる距離で「すみません」と口に出す。

 出してから聞き覚えのある声だと互いに気づいたのか思わず目を見合わせた。


「お前……」


 呆然と、小さく口を開けて固まるそいつは。


「お兄さん……?」



 篠崎、柚乃だった。

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