8月7日~8月13日
8/7 第十一夜「エコール」
8月7日月曜日。お昼過ぎに起床した私は一人目のお母さん、奈々の遺した小説の創作ノートと真剣に向き合っていた。昨日の掃除中に発見した例のやつだ。奈々の筆跡は粗く、読み進めるほど文字が暴れ出し、彼女の気性がよく表れている。衝動を大事にする人だった。私の所属した最初の家庭は、奈々のおかげで驚きに満ちていた。奈々は精神障害者だったが、思い出は楽しいものばかりだ。彼女が死んだときの思い出以外は。
統合失調症だった奈々はその体験を自伝的な私小説として芸術に昇華して、新人賞を獲りデビューした。作品の題は「沈没する方舟」。彼女が唯一完成させた小説だ。生涯たった一つ残した小説。
今私がにらめっこしてる創作ノートも、ベースとなっているのは統合失調症の体験のようだ。母はその病特有の症状の一つである妄想、自身のそれに意味を与え、自分の中で決着をつけようとしていた。それは彼女の書き殴った、今だ形にならない、胎動する文字群の中に大雑把に観測できる。
彼女は統合失調症に罹患したとき、陽性症状の混沌とした精神をもって神の声を聴いた。少なくとも最初の時点では、彼女はその声を神の啓示と認識した。そして神の声に命じられるまま、最初の自殺未遂事件を起こす。保護され精神病院に入院したがそのとき私が奈々のおなかの中にいたので薬物療法が
奈々の自殺願望は、神への回帰的なものだった。彼女は最初、自身の頭の中に響いた声を神の呼びかけと解釈し、死後の楽園に行こうとしたのだ。その楽園の存在を疑う余地はなかった。そしてその楽園ではすべての人間は融合し、たった一つの存在になると信じていた。『人類の総体』だ。
母はただ、寂しかったのだ。人と繋がる、触れあうだけでは満足できなかったのだ。原初生命時代の海、生命のスープへの回帰を求めていたのだ。それは我々が全て、単一の存在だった過去への憧れだった。
彼女は新しく執筆計画を立てていたこの新人賞受賞後第一作で、楽園への憧れに、自分の中で、具体的に決着をつけようとしていた。その遺志は彼女の唯一の子供である、私が受け継ぐ。この『遊弋する精神の方艦船』を完成させることによってだ。モチベーションは極めて高かった。
◇
お兄ちゃんが早めに帰ってきたので、今夜は手の込んだ料理をすることになった。海老と夏野菜の天ぷら。冷製の天つゆでいただいた。
「今日は映画何観るの」
「そうだなぁ……今日は何でも良いな。小百合はどんなのが観たい?」
「うーん。綺麗な女の子同士の百合っぽいのってない?」
「百合っぽいのは一つあるな。子供の話だから年上好きの小百合が気に入るかは微妙だけど」
「私が年上好きってどっからの情報? 子供も好きなんだけど」
「ああじゃあそれにしよう。たぶん天国だよ」
食後、お兄ちゃんが持ってきたDVDのタイトルは『エコール』。
◇「エコール」◇
「フランス映画2004年公開。監督、脚本はルシール・アザリロヴィック 。キャストにゾエ・オークレール、ベランジェール・オーブルージュ、リア・ブライダロリ、マリオン・コテイヤール、エレー……」
「マリオン・コテイヤールはこないだの『コンテイジョン』でWHOの職員役やってた人と同一人物?」
「ん? ああそうだなよく覚えてたな。同じ人だ」
「綺麗な人だから気になってた」
「さすがだ。この映画は原作があって、ドイツの劇作家、フランク・ヴェデキントが手掛けた『ミネハハ』がそれだ」
映画が始まる。
◇
長いオープニングロールから始まり、映像に切り替わってしばらく不穏な情景が映し出される。棺の周りに白い制服を着た10歳前後らしきたくさんの少女たちが集まってくる。棺の中には裸の幼い少女が眠っていた……。
静かな映画だ。淡々とした描写で次第に状況がはっきりしてくる。森の隔離された一角で少女たちがダンスと自然科学らしき教育を受け過ごしている。高い塀に囲まれ外界と遮断されたこの空間には女性しかいない。基本的に可愛い少女たちの戯れる姿を愛でるための映画に見えるが、空気感は一律に不穏だ。少しずつ状況がはっきりしていき、
◇
「うーん……微妙な空気感の映画ね」
「うーん、まあそうだな。フランス映画はこんな感じの空気感の映画わりとあるよ」
「ふーん、映画にもお国柄が出るのね」
「百合だったろ?」
「うん、そしてロリね」
こういう映画も観るんだ……お兄ちゃんの意外な一面を垣間見た感じがした。
「この映画、原題は『Innocence』。無垢っていう意味だ」
「うんそれが主題なのはなんとなく分かった。少女性を、そして百合を無垢なものとして捉えてる」
「隔離された妖精のような少女たちの学び舎は完璧な世界だ。しかし蛹はやがて蝶になり、羽ばたいてゆく。そのとき無垢なるものは無垢なままでいられるだろうか。という問いかけにも見えるな」
「あのラストは印象的ね。百合的には残念だけれど。私が思うに、無垢な少女性は百合の精神性と近似だわ。自らが男の存在を認めてしまった瞬間、その価値は失われる……」
「この映画は最後の最後までは徹底的に男性性を排除してるな」
「そうかしら。私にはそうは見えなかった。映画が上映されている間中、常に男性の視線を感じたわ。それは不穏な空気感として表現されている。この映画に描かれている少女たちの同性愛らしきものは、この隔離された無垢で完璧な世界は、男性が愛でる目的で作り上げられたものよ。そして少女たちを教育する目的は男性のお眼鏡にかなうこと。実際に少女たちが舞台に立つシーンがあったけど観客は男性。不穏なものとして表現されてるのが救いだけれど、ここまで男性中心的な少女趣味の作品は私が読んだ文学作品の中にもなかったわ。ナボコフの『ロリータ』もここまで男性的じゃなかった。原作を読んでみたいくらい」
ちょっと喋りすぎたかなと思った。案の定お兄ちゃんはショックを受けている様子だ。
「む……そうか……そういう見方は正しいかもしれない……ほんとだ、そう解釈するとあらゆることがしっくりくる……君の批評はおそらく正しい」
感心したようにうんうんと頷く。
「お兄ちゃんは男だから気付かなかったのよ。自分で自分のことは判りにくいものよ」
「いや、小百合は凄いと思うよ、その審美眼、大事にしなよ」
「うーん。この見解には自信があるけれど褒められるとむず痒いわ」
私たちはしばらく互いに沈黙した。
「……アリスが可愛かったわ」
場を持たせる必要などお兄ちゃんと私の間ではなかったのだけど……
「途中で塀を乗り越えて脱出した女の子だね」
「アリスは無垢なまま自ら不思議の国に飛び込んだのよ」
お兄ちゃんは一瞬、感極まったような表情をみせた。その表情がお兄ちゃんの今の気持ちを如実に表しているような気がして、私は心を打たれた。お兄ちゃんと映画を観るようになって良かったと、初めて心の底から思った。
それは理屈では言い表せられない。感覚的なものだったけれど、私はたしかにお兄ちゃんを愛していた。
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