8/3 第七夜「007 カジノ・ロワイヤル」

 8月3日。私は小説執筆に具体的に取り組み始めた。本格的に長編を書くのは初めてだったので、私はお母さんの力を借りることにした。私の一人目のお母さんだ。彼女の名前は”奈々”。生前は小説家だった。

 奈々が死ぬ直前まで書こうとしていた作品の創作メモが、一昨日私がお父さんの部屋で保存した”奈々”フォルダに収められている。私はもともとこれに光を当てたかった。生前の奈々から聞いていた小説の構想は面白そうだったし、奈々の遺志を受け継ぎたいという気持ちもあった。


 お昼過ぎ、自分のノートパソコンで奈々フォルダの創作メモを読んでいると、インターホンが鳴った。応答するとクラスメイトの由実だった。玄関のドアを開ける。黒髪ぱっつんのロングストレート、栗山千明ちゃんに少し似てるクールビューティ。白い夏制服姿の由実が立っていた。

「小百合、久しぶり」

 そう言って由実はちょっと私の様子を窺うようなそぶりを見せた。

「元気そうで良かった……あんた携帯にまるで反応なしで二週間、夏期講習も来ないし、文芸部はやめたって言うし一体どうしたの」

 あっ。携帯電話、電源切って封印してたのそのままで忘れてた……。

「んー……ちょっとね。外界との繋がりを全部捨ててみました……」

「なんなのよそれ。私のこともポイかよって……なにかあったんでしょ? そんでどうせ言いたくないんでしょ? 言いたくないなら聞かないけど、この私のことまで忘れようなんて嫌よ」

 久しぶりに会った親友の言葉に私は……

「なに……あんた泣いてんの? いったい……ちょっと小百合?」

 私は思わず由実に抱きついて、彼女のささやかな胸に顔をうずめていた。

「ううん、ごめんね由実、来てくれてありがと」

 由実は一瞬戸惑ったようだったけど、結局私を優しく抱きしめてくれた。柔軟剤と汗の混じった匂いがする。伝わってくる彼女の体温に私は安心する。

「なんだ……辛かったんでしょ? 小百合には私がいるからね。しばらくこうしてようか……」

「うん……ありがと」

「よしよし」

私の涙が由実の制服の胸元に滲み、その部分だけ、彼女のブラの縞模様が浮き出た。


 由実は一時間ほど家にいてコーラを飲み、終わってしまった夏期講習前期のプリントと自分のノートのコピーを置いて帰って行った。結局私は引きこもった原因を由実に言わなかったし、彼女も無理に詮索することはしなかったが、携帯に出ることだけは念入りに約束させられた。


 少し感傷的になりながらいつものように家事をこなした。お兄ちゃんは今日は早めに帰ってきた。一緒に夕食の準備をして、一緒に夕食を食べる。今晩のメインは揚げ餃子だ。

「小百合がレズビアンってのは前から薄々感じてたんだ」

 お兄ちゃんは昨日の私の告白をちゃんと受け止めてくれていた。

「小百合が美女好きならお兄ちゃんと凄く気が合うぞ。今日は最高の美女が出てくる映画を観ようか。ボンドガールという美女の概念を小百合に知ってもらいたい」

 食後、お兄ちゃんが持ってきた映画のタイトルは「007 カジノ・ロワイヤル」。



 ◇『007 カジノ・ロワイヤル』◇



「2006年アメリカ、イギリス合作映画。英国スパイ007ことジェームズ・ボンドの活躍を描くシリーズの第21作。監督マーティン・キャンベル。主演はダニエル・クレイグ。本作は彼が6代目ボンドに抜擢された作品の第一作だ」

「ダブルオーセブンのことは私も聞いたことある。シリーズを通して主役を演じる俳優が代々受け継がれているのね」

「そうだ。ボンド役が変わるたびに新しいボンドを誰がやるか話題になる。ダニエル・クレイグのボンドでは特にボンドの来歴やストーリーの連続性が一新された。新時代の007だけど、公開時はほとんどの人に賞賛とともに温かく迎え入れられた。お兄ちゃんはシリーズ全て観ているけれど、ダニエル・クレイグのボンドが最高だと思う」

「それは楽しみ」

「ヒロインにエヴァ・グリーン。ボンドの女上司M役は三代目で長いことシリーズでやってるジュディ・デンチが引き続きやってる。敵役にマッツ・ミケルセン。その他ジェフリー・ライト、ジャンカルロ・ジャンニーニ、カテリーナ・ムリーノ、シモン・アブカリアン、イェスパー・クリステンセンなど」

「俳優の名前は言われてもほとんど分からないわ」

「まあ、そうだろうな、でも言わせてくれよ。これは義務みたいなもんだ」

 映画が始まる。


             ◇


 モノクロの映像、ビルの前に車が止まるシーンから始まる。英国情報部MI6の幹部とジェームズ・ボンドの会話。ボンドは最近00ナンバーに昇格したという設定。新時代のボンド映画の幕開けだ。いきなりドラマチックなバトルが展開し、銃口の中のボンドがこっちを向いて銃を撃ち、画面が血に染まって、オープニングミュージックに突入する。

「さっきの銃口の中からのシークエンスは、ボンド映画のお約束だよ。象徴みたいなもんだ。あと、主題歌も毎回、誰がやるか話題になる。今回はクリス・コーネルの「You Know My Name」。残念ながら曲の売り上げはあまり振るわなかった」

 主題歌が終わり、ウガンダのジャングルで何やらきな臭い取引きをしているシーンが始まる。一目で悪役と分かる登場人物たちの取引き。そのうちの一人、ル・シッフルと呼ばれるのだけど、悪魔を連想させる名前からしていかにもって感じ。


 プラハ、ウガンダ、マダガスカル、バハマ、マイアミ、モンテネグロ……世界を股にかけた諜報活動。激しい戦闘と心理的駆け引き。爆発と銃声と血で彩られる数々の修羅場、死と紙一重のシチュエーション、まさにギリギリのところでクールに、大胆に、死線をくぐり抜けるボンドは本当に魅力的。あと、無類の女好きの危険な男。これはレズビアンの私でも惚れますな……あっこの人がヒロインかな? 凄く綺麗で魅力的な女の人が出てきた。これがボンドガールってことなのかな?


 ストーリーは進みボンドはヒロインと出会い、二人の関係は真剣な恋愛に発展し、ル・シッフルとは意外な方法で対決し、修羅場に次ぐ修羅場、どんでん返しに次ぐどんでん返しで映画は終了した。


             ◇


「うわーい、凄く面白かった!」

「まさにエンターテインメントって感じだったろ」

「ボンドかっこ良すぎよね。これはヤバいわ。あとヴェスパー!彼女が所謂いわゆるボンドガールね? 毎回あんな美女にボンドは愛されるのね? 羨ましい……」

 お兄ちゃんは勢い込む私に少し引いている……。

「う、うん、ヴェスパー凄い魅力的だろ?あのボンドと知性だけで最初からあれだけ対等に渡り合うんだから。ボンドにとってかけがえのない存在になっていく過程も素敵だし、何よりボンドの人生まで変えてしまう女性だ」

「女たらしのボンドのね」

「ボンドの女たらしは彼の弱点でもあるね。ル・シッフルとの対決中、やって来たヴェスパーに見とれて墓穴を掘ったシーンがあったろう」

 私は一瞬お兄ちゃんの言ったことがよく解らなかったけど、直ぐに思いついた。

「あ、そういやあったね、ああ、あのシーン、そういうことだったのね。お兄ちゃんよく気付いたね」

「僕は何回も観てるからね。ボンドのウィークポイントは彼を一層魅力的にしてる」

「完璧に見えるんだけど生身の人間なのよね」

「そうだね。女性に関する弱点はともかく特にダニエル・クレイグのボンドは生身感を意識的に演出して作られてるんだ。アクションもそうだし、内面も掘り下げられてる。これまでのボンドはそういうところが無かった」

 お兄ちゃんはエンジンがかかってきたようだ。

「もちろんシリーズとして受け継がれてるものも沢山ある。車、ボンドカーはアストンマーチン、拳銃はベレッタM1934、腕時計はロレックスかオメガかセイコー。ドライマティーニはシェイクで。他にも色々愛用品や嗜好品の設定が踏襲されて、ボンドというキャラクターの存在感を分厚くしてる。この辺は小説執筆でも取り入れると面白いんじゃないかな」

「小道具を使った登場人物の細かい性格付けね? うんうん、参考になる」

 お兄ちゃんは嬉しそうに笑った。

「まさにエンターテインメントってさっき僕は言ったけど、この作品は特に脚本においてエンターテインメントの基本的な構造が見えやすい。冒頭の派手な立ち回りで観客の心を掴んだあとは、小休止と心理戦とアクション、それぞれの場面を適度に配分して、観る人が退屈しないよう注意が払われてる」

「確かにそうね。そしてアクションや心理戦がフックになって人間ドラマが大きく展開している。こういうのはエンタメ作品の、一種の基本的な文法なのね」

「小百合がどんな小説を書こうと思ってるのか知らないけど、知識としてこういう手法を抑えておくのも悪くないんじゃないかな」

「そうねうんうん」

「あとそういえばあの『ボンドだ。ジェームズボンド』って名乗るシーンもお約束だよ」

「ふーん」

 お兄ちゃんは満足したようだ。



 そのあと私はお風呂に入った。湯船に浸かりながら、曇りガラスを隔てた洗面所で歯を磨いているお兄ちゃんに話しかける。

「私、こないだやりたいこと見つけたって言ったじゃない?」

「うん?」

 私の言葉にお兄ちゃんは期待するような返事をする。

「それはやっぱり小説を書きたいってことに尽きるの。今、執筆に手をつけ始めたとこ」

「ふむ」


 そのあとのお兄ちゃんの言葉を私は絶対忘れない。


「そうだと思ったよ。小百合が捨てた小説、全部買い直してあるから、あとで部屋の本棚に戻してやりな」



 ボンドも最高だけど、私のお兄ちゃんはいつだって最高だった。

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