7/29 第二夜「リリイ・シュシュのすべて」


 次の日、私はお昼前に目を覚ました。土曜日だけどお兄ちゃんは仕事だ。顔を洗い、出かける前のお兄ちゃんが作ってくれてた朝食を食べ、洗濯機の中の洗い終えた洗濯物を、痛いほどの日光が射すベランダに干した。柔軟剤の香りが鼻にやさしく沁みた。


 リビングに行ってクーラーの電源を入れ、「バッファロー‘66」のDVDをレコーダーにセットする。メニューで吹き替えを選んで再生ボタンをクリックした。

 ぐふふ……

 クリスティーナ・リッチ、レイラの姿を見た瞬間、幸せな気持ちが胸いっぱいに広がった。ボーリング場のタップダンスのシーンを繰り返し見ながらオナニーをする。変態っぽいことをしている自己認識が、さらに私を興奮させた。


 この日、四度目の視聴、四度目の自慰行為のあと、私の心はエアポケットに入った。何だろう……この感覚。DVDは再生され続けていたが、私は変に寂しい気持ちにどう対処すべきか判らなかった。その気持ちが次第に焦燥に変わってきたころ、お兄ちゃんが帰ってきた。


「今日は惣菜買ってきたから晩飯作る必要ないぞ」

 ふと、私の顔を見て首をかしげる。私の変化に気付いたのかな。お兄ちゃんは何か言いかけて止めた。

「今日は映画、何観るの? 」

 私は焦燥感を無理やりリセットして訊ねた。

「そうだなあ……」


 夕食後、お兄ちゃんの持ってきたDVDのタイトルは、「リリイ・シュシュのすべて」。



 ◇『リリイ・シュシュのすべて』◇



「2001年公開の日本映画。146分。監督・脚本、岩井俊二。抒情的な美しい映像で定評がある。主なキャストは市原隼人、忍成修吾、伊藤歩、蒼井優、大沢たかお、稲森いずみ、市川実和子」

 たとえ日本映画であれ、監督・主要キャストの名前を言われても私には全く分からない。

「岩井監督が最初インターネット小説として発表したものを映画化したんだ。14歳の中学生が主人公の青春映画だな。青春といってもかなり鬱な内容だから心してかかるように」

 映画が始まる。


            ◇


 田園風景が広がる地方都市。見るからに内気そうな少年が草むらで立ち尽くし、CDウォークマンを聴いている。

 中学生の蓮見雄一は同級生の星野修介に虐められる毎日の中、大好きなカリスマ歌姫、リリイ・シュシュの音楽と、自身が立ち上げたリリイ・シュシュのファンサイトの運営だけを救いに生きていた……

 かなりトリッキーな映像だ。ネットの書き込みがキータッチの音と共に画面に打ち込まれる。皆がリリイ・シュシュという歌姫について話している。雑多な情報が入り乱れ、全編を彩るリリイ・シュシュの楽曲と、ドビュッシーのピアノ曲。

 ハードなイジメや少年犯罪の描写。内気で抵抗する気力を持たない主人公。お兄ちゃんの予告通り、鬱な展開がエスカレートして、リリイ・シュシュのコンサートでクライマックスを迎え、最終的にやるせなさだけが残った。


            ◇


「かなりへヴィな映画だね」

 私はエンドロール後に残った余韻から脱せないまま率直な感想を述べた。

「吐き気がするっていう人もいるみたいだね」

 お兄ちゃんは肩をすくめる。

「でも、映像も音楽もとても綺麗で……」

「それが唯一の救いだね。お兄ちゃんはこの映画素敵だと思う。エピソードについても、確か昔似たような感情を体験したような気になるっていう場面が、沢山あるんだよ」

「お兄ちゃんの中学時代ってこんなに悲惨だったの? 」

 私は冗談半分に微笑みながら訊ねた。

「お兄ちゃんがイジメられてたわけではないけど、イジメはあったなぁ。お兄ちゃんが共感したのは映画で描かれてる出来事じゃなくて細かな感情なんだよ。それが美しい映像と音楽によってノスタルジックに浮かび上がってくる。そして大切な思い出にまた触れられたような気分になるんだ」

 たしかに吐き気を催しかねない酷い出来事を包み込む、すべてが美しく彩られた全編はノスタルジックで、それによって、過ぎ去った若い時代の感情を、それがたとえ悲惨なものでも、全肯定するような感じがある。大人向けの映画なのかもしれない。


「星野が変わるのって沖縄に行った後だよね。沖縄での臨死体験と何か関係あるのかな」

「おっ、良いところに気付いたね」

 私はちょっと気になったことを訊ねただけなのに、それが重要なキーワードだったらしく、お兄ちゃんは目を爛々と光らせて熱く語り出した。

「お兄ちゃんが昔傾倒してた社会学者の宮台真司は、星野は沖縄での体験を経て世界へと突き抜けたと解釈してたな。人間は幼い頃は世界と直結してるんだ。それが成長するにつれて、社会の枠組みの中に適応するよう求められ、世界との関係が希薄になる。社会に適応できない、または拒否したい雄一たちはリリイの音楽、つまり世界の調べを聴くことによって、一般的な少年少女がよくするように、押し寄せる社会から逃避して自己を保ってる。世界の調べに触れることが彼らの癒しだ。星野が沖縄で世界と直結し、以降社会と決別したのに対して、雄一は最後まで社会の中で悶々としてる」

「世界と社会……」

 昔、理解できないまま読むのを挫折した、カントの本に似たようなことが書いてあったような気がする。


「雄一は酷い奴だよ。好きな女の子を自らおとしいれる羽目になったときも、人が一人死んだときも何もしなかった。それが自分の逃避先であるリリイとネットの自分のサイト、いわば聖域が穢されたとき初めて行動する。どこまでも自己中心的で卑屈だ。お兄ちゃんはむしろ星野のほうに感情移入してしまうよ」

「え……それは無いよ、星野に感情移入なんて……」

 私は驚いてお兄ちゃんを否定した。

「感情移入っていうか、憧れだな。世界に突き抜けたいっていう」

「あっ、それなら解るかも」


 そう言った後、私の感情はまた、ふっとエアポケットに入った。

 雄一は逃避している。リリイ・シュシュという世界の調べに憧れを抱きながら……草むらでCDウォークマンに耳を傾ける彼の姿が、クリスティーナ・リッチをネタにオナニーする自分と重なった。

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