7/30 第三夜「パシフィック・リム」
現実逃避なのは最初から判ってたんだ……
百合先輩に告白するのはとても勇気がいった。人生において自分がレズビアンだと完全に自覚したのは、百合先輩の股間を舐めたい……もとい……先輩を愛していると気付いたときだった。そしてそのとき、私のその愛が、一般的な社会認識としてマイノリティであり、ときには気持ち悪がられ、差別されることさえあることを、知っているくらいには私は成長していた。
「でもごめん……私、好きな男子がいるの」
私にうれしいって微笑んでくれた百合先輩の、そのあとの言葉。傷ついた私は逃避したんだ。百合先輩がいる、一般的な、マジョリティが幅を利かす、社会から。
日曜日だけどお兄ちゃんは接待ゴルフに出掛けてる。今どき接待って時代遅れだよね。私は昨日と同じお昼前に起きて、家事を済ませて「バッファロー‘66」をぼーっと流し観ていた。
クリスティーナ・リッチは可愛いなあ。いっかいだけ、オナニーした。あとはぼーっと画面を見てた。
お兄ちゃんは平日より早めに帰ってきた。
「今日は手巻き寿司にしようと思って、刺身と小百合の好きな焼きアナゴ買ってきたぞ」
お兄ちゃんは上機嫌で寿司ネタを一旦冷蔵庫に入れる。接待ゴルフはつまらなかったはずなのに、お兄ちゃんは明るく、いつものように前向きだ。そんなお兄ちゃんに私は随分救われてる。大好きなお兄ちゃんが買ってきてくれた、大好物の特上アナゴをネタに使った手巻き寿司を、おなか一杯食べると、幸せ感が少し増した。
「お兄ちゃん、今日接待で辛かったから、大好きな映画観て、ストレス発散するぞ」
あっ、やっぱり辛かったんだね。。。
食後、お兄ちゃんが持ってきたDVDのタイトルは、「パシフィック・リム」。
◇『パシフィック・リム』◇
「2013年のアメリカ映画、131分。監督はギレルモ・デル・トロ。お兄ちゃんの好きな監督の一人だ。オタク受けするオタク映画を撮らせたら右に出るものはいない。キャストは主演にイギリス出身のチャーリー・ハナム。ヒロインに菊地凛子……菊地凛子はワールドワイドに活躍してる、日本を代表する名女優だ。彼女の幼少期を名子役の芦田愛菜が演じてる。他にはイドリス・エルバ、チャーリー・デイ、バーン・ゴーマン、マックス・マルティーニなどだな」
DVDのパッケージには、破壊された街をバックに堂々と立っている巨大ロボットの姿。東京タワーがあるけど日本が舞台なのかな? 足元には生物の尻尾のような物体。ヘリも飛んでいる。
「ジャケ絵は日本限定ポスターを元にしたものだよ」
お兄ちゃんが私の視線を追って言った。
映画が始まる。
◇
海の底に開いた異次元のゲートから巨大生物、”怪獣”が襲来し、人類を襲った。次々と現れる怪獣に、人類は巨大人型ロボット兵器、”イェーガー”を開発し対抗する。チャーリー・ハナム演じるイェーガーのパイロット、ローリー・ベケットは兄のヤンシーと共に、出現した怪獣、『ナイフヘッド』を倒しにアンカレッジに向かうが……
冒頭から怪獣が街を襲うシーン。物凄い実在感だ。ディティールが凄くて細かいところまで徹底的に造り込まれてる。どこまでが現実でどこからがCGなのか判別できない。クールなデザイン、派手な破壊演出、胸躍る音楽……これは、男の子が大好きなやつだ……女子の私が見ても心を奪われ、興奮する。
日本人女性が登場してきた。この人が菊地凛子ね……ちょっと私のお母さんに似てる。魅力的で、私はまた、別の意味で興奮する。
人間ドラマを絡めて、次々と見せ場が展開し、クライマックスの死闘。あっという間の131分だった。
◇
「壮絶だったね……」
私はエンドロールが終わるのを待たずに、お兄ちゃんに話しかけた。お兄ちゃんは物凄く満足そうな表情で余韻に浸ってるようだ。
「ディティールが……」
「凄いだろ。『神は細部に宿る』っての、分かるよな」
元から子供っぽいところがあるのだけど、今夜はそれに拍車をかけた様子だ。
「ドリフトっていう仕組みが面白かったわ」
「うん、この作品は戦闘シーンに目が行きがちだけれど、脚本も凄く練られてて、骨太だしツボを押さえてる。適宜に配置された見せ場配分も絶妙だけど、パイロット二人が意識を共有して、繋がりが深いほど強くなるっていう、ドリフトの概念の設定が、印象的な人間ドラマを展開する源泉になってる。しかもドリフト技術はまさかの応用で……」
「その発想は私も凄いと思った」
お兄ちゃんは私の同意を得て一段とヒートアップする。
「ただ、この映画の見どころはやっぱり、でっかくて、かっこいいロボットが、でっかくて、かっこいい怪獣と、街を破壊しまくりながら戦うところだよ。雨の夜の香港市街戦なんか激アツだ。観客は難しいことなど何も考えずに、画面から流れつづけるクールで刺激的で膨大な情報の洪水に身を任せるだけでいいんだ。あと、大事なところは、特典映像で監督自身が語ってるんだけど、日本のロボットアニメ、怪獣映画に物凄く影響を受けてて、それら既存の作品に対する愛が溢れてるってことだ。監督を筆頭に製作者側のロボット愛、怪獣愛が、映画にのめり込めば、のめり込むほど、胸に迫ってきて……ゲホッ、ゲホッ……あと、吹き替え版の声優の人選も……ゲホッ……」
「お兄ちゃん、落ち着いて……」
暴走気味なお兄ちゃんの語りに思わず笑ってしまった。
「とにかく子供に戻って夢中になれる、お兄ちゃんの大好きな作品の一つだよ」
子供に戻って……。
お兄ちゃんが目を輝かせているのを見て、それがお兄ちゃんの本質なのだと気付いた。「パシフィック・リム」に限らず、お兄ちゃんにとって映画とは、昨日話題にしてた、"世界との戯れ"なんだ。世界と直結していた子供時代に二時間だけ戻って、社会で戦う新たな力を養う。それは建設的な現実逃避。
私はどうだろうか。私がクリスティーナ・リッチをネタにオナニーするのは現実逃避であると同時に、世界との戯れでもあるはずだ。根源的な生物の欲望として根ざす、性衝動。マイノリティではあるけれどそれはきっと世界と直結する行為だった。
そこまで考えた途端視界が開けた。昨日観たリリイ・シュシュ。星野は沖縄で世界へと突き抜け、目覚めた。お兄ちゃんが憧れていると言った世界との直結。お兄ちゃんは二時間だけだけど……やってみたら面白いかもしれない……社会との円満な決別……常時における世界との接触……現実逃避から回復するのではなく、反対側に突き抜けてみる……私の躰に一瞬震えが走り、何かが目覚めた気がした。
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