3. ホワイトデー

 多分料理はおいしいのだと思う。だけど緊張してしまって、味なんか一切分からない。


 ホワイトデーに、水谷さんと一緒に食事。

 ホワイトデーに、水谷さんと一緒に食事。


 夢か幻か異世界か。部長、水谷さんに直帰でいいと言って下さってありがとうございます。これからはもっとちゃんと息子さん自慢の相槌を打ちます。



 水谷さんは、さも思い付きで選んだようにこの店に入ったが、迷いなくこの店を選んでいたし、何となく、前からこの店を知っていたんじゃないかと思う。

 仕事帰りに一人でふらりと入る感じの店じゃない。気取り過ぎず、適度に落ち着いたお洒落な店。

 デートで入るような店だ。


「この店、当たりでしたね。水谷さん凄いです」


 それでもそんな思いは封じ込め、にこにこと彼の演技につきあう。それに私は今、彼の恋愛遍歴を詮索している心の余裕はないのだ。



 ✨✨



「そうだ。お礼が遅くなったけど、バレンタインの時のチョコ、おいしかったよ、ありがとう」


 私が緊張でわけがわからなくなっている間も、水谷さんは始終落ち着いた様子だった。

 そして食後の紅茶が運ばれてきた時、彼は私を見て、そう言って微笑んだ。


 一瞬、心が舞い上がりかけたが、急に不安に突き落とされる。


 わざわざ言ってくれたのだから、多分本当に食べてはくれたのだろう。でも。

 

「そうでしたか……? 私、あのお店のチョコレートが好きなんですけれど、甘すぎませんでしたか?」


 バレンタインデーの後、冷静に考えてみて思った。

 幾ら甘いものが好きだと言っても、あんなにストレートに甘いチョコレート、水谷さんの口には合わなかったんじゃないだろうか。私はあのお店のチョコレートが一番おいしいと思うのだが、水谷さんみたいな人は、ビターでカカオの風味が強いものの方が好きなんじゃないか。

 だから、今更聞いても仕方がないが、そう聞かずにはいられなかった。

 けれども。

 

「ううん、確かに甘かったけれど、俺チョコは甘い方が好きなんだよね。特にあれはミルクの風味が印象的だった」


 彼はそう言って、はにかみながら俯いた。


 ――もしかして、甘いチョコレートが好きなのが、ちょっと恥ずかしかったのかな。


 そういうわけじゃないのかもしれないけれど、もしそうなら凄くかわいい。彼の意外な一面をまた見られて、嬉しくなる。

 でもとにかく、よかった、おいしいと思ってもらえて。私は胸をなで下ろし、つい今までの不安を口にしてしまった。

 

「実は私も、チョコレートは甘いのが好きなんです。だから有名なお店のものより……あれ、うちの近所のお店のものなんですけれど、あれが一番おいしいって。でも、水谷さんのお口に合うかなあって、ずっと不安で……。だって、水谷さんってクールだし、大人な感じだから、ああいうの食べないかもって……」


 あ、うっかり「クールで大人」なんて、本人の前で言ってしまった。こんなこと人から言われたら困るよね。でもそこはさすが大人というか、水谷さんは私の言葉に、さらりと「本当においしかったよ」とだけ言って微笑んだ。



 ✨✨



 私は臆病だ。

 臆病で、子供だ。

 だけどもう、耐えられない。


 食事の時間が終わりに近づく。このままお店の前で別れて、また今までと同じ日常が繰り返される。

 ブラックデーから十一カ月、私は一体何をしていたのだろう。


 少しだけ、勇気があれば。

 でも、それでどうなるというのだ。

 だめなのは分かっている。釣り合わないのも、相手にされないのも分かっている。


 だけどもう、耐えられない。


「私、あのチョコレート、他の皆さんには差し上げなかったんです」


 水谷さんは黙って頷いた。


 言うの? まさか言うの私?

 こんないきなり。なんの覚悟もない状態で。

 でも、言うチャンスは、今しかない。

 言ってどうするの? 

 でも言わないで耐えられるの?

 どこまで言えるか分からない。

 頑張れ私。

 前を向いて。


「あのお店のチョコレートは、私の中で一番で、だから、水谷さんに、差し上げたいなって……」


 水谷さんが、少し驚いたような表情でこちらを見ている。

 なんとなく、察したのだろうか、今の言葉で。


 なら。

 もう、後戻りはできない。


 行け、

 私。



「私の中で一番のチョコレートだから、水谷さんだけに、差し上げたいな……って……」




 そこまで言って、私はたまらなくなって俯いた。

 だめだぁ、もう限界だ。これ以上はもう言えない。

 頬が熱い。水谷さんの方を見られない。

 分かってくれたかな。分かってくれたよねやっぱり。

 分かっちゃった、よね。

 どうしよう、どうしようこれから。明日も明後日も同じ職場で仕事するのに。


 暫くそのまま、時間が過ぎていった。


 水谷さんが動く気配がする。

 私の目の前に、右手が差し出される。

 私の大好きな、大きな手。長くて繊細な指。


 その指が、

 私の顎に触れ、

 そっと私の顔を引き上げた。



「……みずたに、さ……」



 ……ええぇ……え……と……

 何これ、

 何これ、

 今、私の身に何が起きているの!?


 これってあれ!? これってあれだよねやっぱり!?

 私の顎、私の顎を、

 み水谷さんが、水谷さんが、

 く、って、く、ってしている!


「氷室さんありがとう。嬉しい」


 動転して動揺して一瞬さっきの中途半端な告白が頭から飛んでしまった私の顔を、水谷さんは真っ直ぐに見つめた。

 彼の視線が、真っ直ぐに私の瞳を捉える。

 長い指が私の顎をそっと撫で、離れていく。


 その感触に、体の奥が、ぞくりと熱く震える。


「俺も、氷室さんにとっての一番は、誰にも渡したくない」


 私にとっての一番。

 私にとっての一番を……。


 ちょっと待って。

 水谷さん。


 待って。

 まだ、頭が追いつかない。


「氷室さん」


 私のもつれた心をよそに、水谷さんの真っ直ぐな視線が私を射抜く。

 今、私の目には彼の姿しか見えない。私の耳には彼の声しか聞こえない。

 

 彼の引き締まった唇が僅かに開く。

 そして、

 言った。



「好きだ」



 ✨✨



 彼の言葉に、私の目から、ころりと涙が零れた。

 それを合図に、次から次へと涙が溢れ出す。


「そんな……どうしよう、嬉しい……」


 ありえない。

 まさか、こんなことが、こんなことがあるなんて。

 水谷さん。絶対に手の届かない人だと思っていたのに。

 ブラックデーの頃なんか、それこそ彼に恋をしているって自覚出来ただけで嬉しくなってしまっていたのに。


 そんな、彼が、まさか。

 中途半端な私の勇気が、こんなことに……。



「水谷さん……私もです……」


 頭の中は、ぱっとひらけたように明るいのに、涙が全然止まらない。心の中の幸福メーターが振りきれて暴走が止まらない。

 顔を上げ、水谷さんを見る。私の顔を見て、彼が優しく微笑む。

 それを見てまた涙腺が全開になる。



 やがて、周りの人がこちらを見ていることになんとなく気が付いた。

 ふと水谷さんの方を見ると、ポケットに手を入れている。ハンカチを差し出そうとしているらしい。

 それを見て急に頭が回転しだした。

 だめ、だめです水谷さん。ハンカチは絶対に借りられません。

 私今、顔がぐちゃぐちゃのはずだ。折角お昼休みにいちからやりなおしたメイクはズルズル。ハンカチなんかで涙を拭ったら、涙と一緒にマスカラの粉やファンデーションがばっちりべっとりついてしまう。


 涙腺が急速に閉じていく。

 私はバッグから自分のハンカチを取り出した。

 


 ✨✨



「凄い! ここの紅茶、一度飲んでみたかったんです!」


 私の涙が落ち着いた後、水谷さんはバレンタインデーのお返しだと言って、紅茶と小さなチョコレートをくれた。

 私が紅茶好きなの、覚えていてくれたんだ。しかもこの紅茶、自分ではなかなか手が出ないような憧れのブランドのものだ。

 誰もが知っている有名なものではないけれども、紅茶好きなら一度は飲んでみたいブランド。私は何度も頭を下げてお礼をした。


「喜んでもらえてよかった」


 嬉しくて何度もお礼をする私を見て、水谷さんは少し困った様な表情を浮かべた後、そう言った。


「でも、俺、紅茶の味ってよく分からないんだ」


 ああ、そういえばコーヒー派なんだ。今、水谷さんの目の前に置かれているのもコーヒーだ。


「コーヒーばかり飲んでいて、紅茶を飲む機会があまりなかったから。だから氷室さんが、教えてくれるかな」


 教える? 教えるっていう程、私も詳しいわけじゃない。淹れ方だって、そこそこでよければそんなに難しいものじゃない。一体、どういう意味だろう。私が少し首を傾げると、彼は言葉を続けた。



「この紅茶を、氷室さんと二人で飲みたいんだ」



 …………。


 ……えーと……。


 それって……。


 それって、もしかして……。


 私の家で、一緒に飲もう、っていうこと?



「…………じゃあ、この缶、今は開けないでおきます」


 そうだ。頑張れ私。慌てるな。冷静な大人の女になるんだ。法律上はいい大人なんだから。


「何度も開けると、香りが飛んじゃうから。だから……」


 もらった紅茶缶をいじりながら彼を見る。

 冷静に。さあ微笑んで。


「水谷さんが、うちに来てくれた時に、開けますね」


 


 ✨✨



 三月の夜はまだ寒い。店から出た後、冷たい空気に体をこわばらせた。


「手、つないでいいかな」


 水谷さんが、そう言って手を差し伸べた。

 私の大好きな手が、私の手を取るために、私の前に出されている。

 少し躊躇った後、左手を差し出す。


 その私の手を、彼の大きな手が包み込むように強く握った。


 彼を見つめる。

 彼は私を見て、少しはにかむ。

 その表情に、私の心臓が、きゅっと小さな甘い叫び声を上げる。


 この手を、絶対に離したくない。

 私達は微笑み合い、駅に向かった。



 ✨✨



 二年後。


 彼の手が、一瞬だけ離れた時があった。

 


 ✨✨


 

 私は、彼以外と腕を組んでいる。

 ゆっくりと歩く。

 真っ直ぐな道を、一歩一歩、ゆっくりと歩く。

 視界には、白いベールがかかっている。


 白い光が、満ち溢れている。



 隣を見る。

 私と腕を組んでいる、礼服を着たお父さんは、少し寂しげな微笑みを浮かべている。



 教会の中には、白い光が満ち溢れている。



 そして

 祭壇の前には、これから永遠に手を取り合って生きることを誓う、水谷さんが立っている。


 


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BLACK→WHITE 玖珂李奈 @mami_y

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