2.バレンタインデー

 仕事が終わって外に出る。途端に切り裂くような寒さが体を襲い、私は思わず首をすくめて身ぶるいした。

 もうすぐバレンタインデーだ。今からチョコレートを買いに行かなきゃ。



 私の会社には「義理チョコ」という面倒な習慣がある。部課長には女子社員全員でお金を出し合ったチョコレートを贈り、各グループの男子社員には、そのグループの女子が個人でチョコレートを購入して渡す。女子社員が少ない上に管理職全員男性だから、結構な出費だ。


 でも、今年のバレンタインデーの「義理チョコ」は、いつもと違う。

 なにしろ、「義理チョコ」のうちのひとつは「義理」じゃないのだもの。


 取り敢えず今日三つ、同じチョコレートを買った。どんなにチョコレートに疎い人でも絶対知っている、あの有名店のものだ。

 やはりというかさすがというか、結構な値段だったが仕方がない。と極端に値段の差がついてはまずい。


 翌日は土曜日。掃除と洗濯を一通り終わらせた後、駅前のケーキ屋さんに向かった。

 創業ウン十年らしいこの店は、「パティスリー」じゃなく「ケーキ屋」だ。店内には、少し懐かしい感じのケーキ達が行儀よく並んでいる。私は前に予約していたチョコレートを受け取った。


「義理チョコをわざわざ予約して買うなんて、大変な職場だねえ」

「あ……いえ、でも、ここのチョコレート、おいしいですし……」

「うん、ありがとね。でもさあ、会社の奴にあげるんなら、ウチのチョコより、分かりやすいブランド物の方が喜ばれるんじゃないの? ま、僕がそんなこと言っちゃおしまいだけどさ」


 ご主人の言うことはもっともだと思う。そういう意味もあって、「三人」には分かりやすい一流ブランドのチョコレートを買ったのだ。


 でも、水谷さんは、違う。

 水谷さんには、どうしてもここのお店のチョコレートをあげたいのだ。



 ブラックデーを境に、水谷さんと私は、ぽつぽつと話が出来るようになった。

 水谷さんは相変わらずクールで、仕事中に雑談を振っても淡々と返されてしまう。でも以前より少しだけ打ち解けてくれた、と思う。

 おかげで私の方でも余裕を持って彼を見られるようになった。そのためか、ブラックデーに見せた不器用な表情の他にも、彼の意外な面を色々知ることが出来た。


 その中でも一番びっくりしたのが、水谷さんはお酒が一滴も飲めず、しかも甘いものが好きだ、という事だ。

 見た目の雰囲気から、仕事の後は、行きつけのバーで、一人グラスを傾けているんじゃないかなんて勝手に思っていた。そしてあの長く繊細な指でグラスを持ち、引き締まった唇を僅かに開いてお酒を流し込む姿を想像しては、勝手に盛り上がって一人にやにやしながら自宅の床を転がっていたなんてことは内緒だ。


 だから、もしかしたら、このチョコレートを受け入れてくれるかもしれない。


 このお店のチョコレートは、私のとっておきだ。

 最近のビターなチョコレートと違い、ミルクの風味の強い、かなり甘いチョコレート。私の乏しい男性イメージからは、あまり受け入れてもらえなそうな味だ。

 でも、どんなに有名なブランド物より、私はこのお店のチョコレートが好きだ。

 だからこそ、水谷さんにあげたい。

 水谷さんだけに、あげたい。


 特別なチョコレートは、特別な人だけにあげたいんだ。



 ✨✨



 なんて、気合を入れていたのに。

 単なる職場の義理チョコ配りに紛れた私のとっておきは、

 「あ、ありがとう」という淡々とした返事をもらっただけで、淡々と流されてしまった。



 ✨✨



『ばっかじゃないの!? 小学生だってもっとぐいぐい押すよ!? 義理チョコと同じテンションで渡したら、そういうリアクション取られるに決まっているでしょ!?』


 口の悪さにかけては誰にも負けない友達は、電話の向こうから怒鳴り散らしてきた。


「でもぉ……。ひとりだけ大きい箱ので、違うブランドにしたんだよぉ……」

『だから何!? その人、係長なんでしょ? え、グループリーダーだっけ、まあいいよそんなのどうでも。あのさ、要はグループの中の偉い人ならさ、一人だけ大きな箱のチョコレート渡されたら、普通、ああ、役職でサイズを分けたんだなって思うだけだよ』

「うん……新人君も、同じ事言っていた。『リーダーとその他で分けているんですね』って」

『その時、違うんだよアピール、なんかした!?』

「しないよぅ、だって人前だし」

『じゃあもうそれでおしまいだよ。一人マイナーな店のもの渡されたら、ああ、大きいの渡したかったけれど予算の都合で店変えたんだな位に思われるだけだって。その人今頃さ、「甘っ!」とか思いながら、夕飯代わりにモリモリとチョコレート食べているんじゃない? で、それでおしまい』

「えぇ……」

『あのさ、それならまだいいんだよ。でもその人、あれなんでしょ、イケメンでしゅっとしていて仕事が出来てクールで大人なんでしょ? 絶対嘘だと思うけれど』

「本当だよぅ」

『一体どこの少女漫画の設定だよそれ。嘘じゃなければ、慣れない恋愛で目の前に変なフィルターがかかっちゃっているんだろうね。でも本当だとしたら、そんないい男が、ずっと彼女いないって、おかしくない?……だからさ、その……あんまり言いたくないけど、その人、きっと今日……』

「うん……いいよ、分かっている」


 スマートフォンを握り、ぼんやりとベッドの縁にもたれかかる。

 さっきまで聞こえていた友達の大声が止むと、急に静寂が私の体を押し潰す。


 分かっている。


 いくら私のとっておきでも、義理チョコと一緒に渡したら、気持ちが伝わるわけがないことくらい。

 そして仮に気持ちが伝わっても、どうしようもないことくらい。


 チェストの上に乗った鏡に映っている、自分の顔を見る。

 私の顔。

 ブスではない、と思う。今まで何人かに、かわいいと言ってもらった。

 だが、だからどうしたというのだ。


 もう成人して何年も経つのに。

 未だに「かわいい」私を、あの水谷さんが、相手にしてくれるわけがない。


 私の心を思い切り込めたチョコレート。

 でも、その心にはきっと気付いてもらえない。

 「うわー、甘いなー」とか言いながら、好きだと言っていたコーヒーをがぶがぶ飲みながら流し込んでいるか、

 私のチョコレートを鞄に入れたまま、

 別のひとからチョコレートをもらっているか。



 私は、いつの間にか泣いていた。



 泣き虫なんだ、私は。子供だから。

 ブラックデーの時、水谷さんに彼女がいないことを知ったのに。少しだけ距離が縮まったのに。

 そのチャンスを何も活かすことなく、だらだらと一年近くを過ごしてしまった。

 挙句、バレンタインデーにチョコレートを渡す時もあんな態度を取って。


 もう、本当に嫌になる。

 臆病な自分に。どうして私は、あと一歩が踏み出せないのだろう。


 こんなに、

 こんなに、好きなのに。



 ✨✨



 そうして、何事もないまま一カ月が過ぎた。

 勿論、私と水谷さんの距離はそのままだ。


 水谷さんは相変わらずクールだ。異動したての時は、仕事を教えてもらうために色々話す事もあったが、今ではそれも少なくなってしまった。


 それでも私のことは、きちんと見てくれている。

 時折優しい気遣いを見せてくれる。

 ふとした時に、柔らかな微笑みを見せてくれる。


 そんな時、心がふわっと浮かび上がり、やがて切なさに泣きたくなってしまう。


 もうやだ。

 恋って、どうしてこんなに苦しくて、愛おしいんだろう。



 ✨✨



「氷室さーん、はいこれ皆からのホワイトデーのプレゼントです! 俺が選びました俺が!」


 新人君が大声で主張しながらプレゼントを渡してくれた。

 そういえば今日はホワイトデーだった。なんとなく覚えていたが、どうせ私には関係ないと、気にしていなかった。

 恐らく皆でお金を出し合ったのであろうプレゼントは、かわいいスイーツの詰め合わせだった。私は一人一人にお礼を言って回った。


 水谷さんにもお礼を言った。

 皆にしたお礼と同じテンションで。

 水谷さんは、曖昧に首を振っただけだった。



 ✨✨



 今日、私にとってはホワイトデー以上に大事な用事がある。

 午後から、水谷さんと二人で取引先に行くのだ。

 別に仕事だし、今までも同じようなことはあった。それでもやっぱり、どこか嬉しい。


 お昼休み、いつもなら簡単にメイクを直すだけなのだが、今日は食事をさらっと済ませて、メイクを一旦落としていちからやり直してみた。

 だからどうというものでもないのだが。でも、いいのだ。



✨✨



 仕事が一通り終わった。今日はこのまま家に帰っていいと言われている。ここから帰るとなると、いつもよりちょっとだけ早く家に着くからちょっとだけ嬉しい。


「水谷さん、また会社戻るんですか?」


 昨日そんなことを言っていた。大変だなあと思いつつ聞いてみると、水谷さんは首を横に振った。


「なんか戻らなくていいって部長に言われてさ」

「あ、そうなんですか。良かったですね。じゃあこのまま帰るんですね?」


 私の言葉に、水谷さんはちょっと考えるようなそぶりを見せた。


「いや」


 そして、

 言った。


「どうせならこの辺で夕飯食べていかない?」

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