BLACK→WHITE
玖珂李奈
1.ブラックデー
四月十四日。
この日がきっと、はじまりだったんだよね、なんて、今でも思う。
✨✨
私が今の部署に異動になって、二週間が経った。
今のところ、異動して困っている事と言えば、五人いるグループの中で女子社員が私だけなので、お昼のタイミングによってはひとりランチになることくらい、かもしれない。異動当初の不安と異なり、同じグループの人達は皆、優しく色々教えてくれる。だからあっという間に職場に馴染むことが出来た。
だが、グループリーダーの水谷さんとは、未だに馴染めていない。
私の右隣に座っている水谷さんは、一言で言うと「クール」だ。
仕事は丁寧に教えてくれるが、ちょっとした雑談をふっても、淡々と返されてしまうし、そもそも雑談にあまり乗ってくれない。
最初、その態度に少し悲しくなったが、彼はきっと仕事中に気を散らすのが嫌いなんだ、と思い、あまり話し掛けない事にした。
がつがつしてはいないのに、仕事は確実にこなしている。
必要最低限の会話しか交わさないが、私が困っていたり、ちょっとしたミスをしかかっていると、さりげなく手を差し伸べてくれる。
見ていないようで、私の事をきちんと見てくれている。
いつか、水谷さんと馴染むことは出来るのだろうか。
水谷さんはきっと、馴染む馴染まないなんか仕事に関係ない、と思っているのだろう。そんな事を気にしてしまう私は、まだまだ子供なのだろうか。
物凄く年上、というわけではない。けれども私は彼の、その落ち着いた物腰や冷徹な仕事ぶりに、大人とはこういう人のことを言うんだろうな、と思う。
そして気が付くと、その姿を目で追ってしまっている。
水谷さんは時折、PCの画面を見ながら、右手を顎のあたりに軽く添えて考え事をしている。
真剣なまなざし。
顎に添えられた、大きな手。
長く繊細な指。
私は、彼のその仕草と横顔が好きだ。
✨✨
今日は四月十四日。ブラックデーだ。
詳しいことは知らないが、ブラックデーは、バレンタインデーもホワイトデーも縁のなかった男女が、黒い服を着て黒い麺を食べたりブラックコーヒーを飲んだりする、韓国発の記念日のようなものらしい。実際に本場でどの位の人が実行しているのか知らないけれども。
で、私はばっちりブラックデー対象者だ。
私は恋愛に対して物凄く臆病で、なかなか恋人が出来ない。
友達は皆、「氷室さんはかわいいんだから、彼氏なんかその気になればすぐに見つかるよ」なんて言ってくれる。でも、どの程度本気にしたらいいのかよく分からない。
だから恋愛話は、いつもおいてけぼり。
そんな時、ああ、やっぱり、私はお子様なんだなあ、なんて思ってしまう。
今日のお昼休みは、うっかり一人になってしまった。
しかたがない、じゃあ、「ひとりブラックデー」でもしようかと思い、会社の近くの韓国料理のレストランに入った。
狭い店内の狭いテーブルに通され、メニューを渡された。でも、頼むものは既に決まっている。
「
「黒い炸醤麺を食べる」のが、ブラックデーの定番アクションらしい。思い切って頼んでしまうと、不思議と何かが吹っ切れたような気がする。私は店内を見渡しながら、料理が出て来るのを待った。
しばらくすると、隣のテーブルに人が通された。
その人を見て、私の視線も思考も一瞬停止した。
水谷さんだ。
水谷さんは、午前中いっぱい外に出ていた。今、戻って来た所なのだろう。私には気づいていないようだ。
私と向かい合うように席に座る。
長く繊細な指で、ネクタイを少し緩める。
疲れたのだろうか、軽く目を伏せ、ふっと息をつく。
すっきりと広がった睫毛が、目元に淡く影を落とす。
その仕草を見て、私の心臓がひとつ、大きく動く。
彼はメニューを渡そうとした店員の手を遮り、注文した。
「炸醤麺ひとつ」
その時、私と目が合った。
✨✨
うわ、気付かれた。当たり前か。
私が注文していた炸醤麺がテーブルに置かれた。私は半笑いになって「お疲れ様です」と、これでいいのか今一つ分からない挨拶をしてみた。
「炸醤麺……」
炸醤麺お好きなんですか、と聞こうと思った時、いきなり脳裏に一つの考えが浮かんだ。
水谷さん、まさか、ブラックデーだから炸醤麺頼んだの?
そんなばかな、と心の声を慌てて打ち消す。
そんなこと、するわけないじゃない。
それにそんなわけ、ないじゃない。
結婚はしていない。
でも、きっと彼女はいる。
水谷さんは、いつもぱりっとスーツを着こなしていて、身だしなみに隙がない。
前にちらりと一人暮らしだと言ってはいたけれど、その姿を見ていると、水谷さんの家には、スーツの手入れをしてくれたり、着崩れを指摘してくれる彼女がいるんだろうな、なんて思う。
きっとその人は、落ち着いた大人の女性なんだ。
私みたいな、お子様じゃなくて。
だって、水谷さんにはそういう人がお似合いだもの。
自分の目の前にある炸醤麺を見て、恥ずかしいような、悲しいような気持ちが湧き上がる。
「ここの炸醤麺、おいしいよね」
私が勝手に妄想を膨らませて勝手に落ち込んでいる時、水谷さんは私の炸醤麺を見てそんなことを言った。
「あ……えーと」
ああ、やっぱり、好きだから注文しただけなんだ。そりゃそうか。えーとでもどうしよう、私、実はこの店で炸醤麺を注文したのって初めてなのだ。
「中華の
あ、今私、余計なこと言っちゃったかも。水谷さんの嗜好を否定したように聞こえたらいやだなあ。そんなつもりはない。うわー次のセリフをどうしたらいいんだろう。えーとえーと。
仕方ない。言っちゃおうか。
「あの……水谷さん、ブラックデーって知っていますか?」
「ああうん、なんか聞いた事あ……あっ」
その時、タイミングを計ったかのように水谷さんの注文した炸醤麺が運ばれて来た。
水谷さんは自分のテーブルに置かれた炸醤麺を見て、何とも言えない微妙な笑みを浮かべた。
「あれ……今日なんだっけ」
「……そうです」
「……そうか……」
自分の炸醤麺と私の炸醤麺を交互に見て、呟く。
「じゃあ、丁度良かったのかもなあ、これ」
水谷さんの言葉が、耳を通して頭の中に、お寺の鐘のようにぐわんと響く。
「えっ!?」
「えって、いやだから……うん」
俯いて、私の炸醤麺を見る。
「あ……私は分かって、注文していて……」
「えっ!?」
「えって、あのですから……はい」
互いに互いのテーブルを見る。
目が合う。
どうしたらいいのか分からず笑ってみる。
私の笑みを受けて、水谷さんは少し照れたように微笑み、俯いた。
その彼の不器用な仕草が意外で、私の心臓がまたひとつ、大きく動いた。
✨✨
その後、二言三言会話を交わし、気まずいことこの上ない雰囲気の中、黙々と食べた。
人生初の炸醤麺の味は、覚えていない。ただ、想像していたよりも甘かったと思う。
水谷さんも気まずかったのか、びっくりするようなスピードで食べて、さっさと会社に戻ってしまった。
お店を出て、空を見上げる。
「ブラックデー」なんて名前がついているけれども、その日の空は抜けるような青空だった。
澄みきった空と柔らかな春の光。
私の心は真っ白い羽根を広げて、青空へと軽やかに舞い上がる。
信号が青に変わった。
歩き出す。
このまま空に向かって歩き続けてしまいそうだ。
頭の中では、微笑みながら俯く水谷さんの姿を何度も思い浮かべている。
早く会社に戻らなきゃ。歯を磨いて、メイクを直して、早く机に戻らなきゃ。
毎日悩まされている「午後二時の睡魔」も、今日はきっと襲ってこない。
だって眠くなっている場合じゃないもの。
まあ、異動初日から、薄々気づいてはいたけれど。
やっぱりね。
私、水谷さんが好きなんだ。
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