第11話
宗一朗が昭和新道を歩いている。今はもう、午後十時を過ぎたろうか。今週はずい分と働いた。帰宅が遅くなることを見越して、夕飯を作り置きしておいて正解だった。疲れがたまっているけれど、少し飲んでから帰ろう、と思う。そう考えると足取りも軽くなった。加世はずい分前に帰っていった。「お先にー」と言った時の浮かれた調子を含んだあの声、きっと飲みに行ったのだろう。
いつもなら「ビアンカ」に行くのは二軒目だけれど、時間も遅いしまっすぐ向かうことにした。腹がへってはいたが、食べ物のメニューがないわけでもなし。今日に限って特別メニューがあったらいいな、と思う。宗一朗は昭和新道をはずむように歩いた。
加世から来るメールには、たいてい「飲みに連れてけー」という一文がある。その用向きを伝えるためにメールをしてくることばかりだから、それは当然のことで、耕作はそのストレートな物言いに爽快ささえ感じていて、受けて立ってやる、という気分になるのだった。見透かされているのだろうか? いや天然だなあれは、と思う。今、目の前で旺盛な食欲を見せている加世の要望で、二人は一時間ほど前から「喜久八」で飲んでいた。
「お刺身、食べたかったんだよー」加世は涙を流さんばかりに言う。
「大げさだな」
「いっぺん五日続けてカレーを食べてみてよ。私の気持ちが分かるから」
「捨てちゃえばいいだろ」
「そんなことはできないよ!」
加世はそう言うと、中トロにわさびをのせて醤油の入った小皿に浸し、口へはこぶ。
「今日の仕事、何とかやりくりできてよかったよ。おいしいものが食べられて。宗さんは、まだ仕事してたけど、先に帰ってきちゃった」
加世は前回来た時に、飲んで気に入ったという「王禄」を冷やで飲んでいる。
「相変わらずだな、宗一朗は」耕作はブリの刺身に手を伸ばす。
「この前、あんなもんでよかったのか?」
「あんなもん? あ、塩辛と、あと稚鮎の天ぷら」加世はツマミを追加することも忘れない。
「深大寺に行った時」
「えっ、楽しかったよ? 結局しこたま飲んじゃったけど。目的も果たせたし」
そうか、あんなもんでよかったのか。今度、常盤に話してやろう。
「宗さんって、基本的に一人が好きなんだよね」加世が言った。
「まあ、そうだな。昔から」
「この前、御岳を一人でぶらぶらしてきたみたい」
「またずい分と足を伸ばしたな」
最近は近所の散歩ばかりだけど、もっと若い頃は、よく一人旅をしてたよな、あいつ。一時期アウトドアに凝って、用具を揃えてソロキャンプなんかもしてたっけ。普通の温泉旅行になら、何度か一緒に行ったことはあるが。ひさしぶりに宗一朗と、一泊で温泉旅行なんていうのも悪くない。耕作がそんなことを考えていると「稚鮎の天ぷら、ほろ苦くておいしいよ」と加世が言った。
「俺も食うぞ。全部食うなよ」耕作が応じる。相変わらず気持ちよく食べ、かつ飲むヤツだ。
「あの日はね、宗さん、寝ている私を置いて、朝から御岳に行っちゃったんだよ」加世は杯をあおる。
「そっか、ひどいヤツだな……」ん? 寝ている私? 朝? どういうことだ、それは。
「ちょっと待て。宗一朗と話す」
耕作は携帯電話を取り出すと右手を額に当て、左手で操作を始めた。
加世は稚鮎の天ぷらを一心にほおばっている。
耕作からの電話を受けた時、宗一朗は「ビアンカ」で「神の河」の水割りを飲んでいた。幸運なことに今日のビアンカには、鶏ハムに煮玉子、ポテトサラダまであって、宗一朗を大いに喜ばせた。もちろんミヤさんの手作りである。
「今どこで飲んでるんだ?」電話口でいきなり耕作は言った。
「ビアンカだ」答える宗一朗。なんだ? 唐突に。
「今から行くからそこにいろ。加世も連れてく」そう言うと耕作は、慌ただしく電話を切った。
「耕作が加世を連れてくるって」宗一朗はポテトサラダをつまみながらミヤさんに言った。宗一朗の好みの、粗くつぶしたジャガイモに黒コショウが振ってある。
「へえ、ウワサの加世ちゃんと耕作君に会えるんだ」
ミヤさんが期待に満ちた顔になる。何度かせっつかれてはいたものの、宗一朗はまだ、耕作を「ビアンカ」に連れてきたことはなかった。
「場所、分かるかなあ」
「このへんを飲み歩いてるんでしょ。分かるわよ」
ミヤさんが「神の河」の瓶に片手を添えて、こちらを見る。勝手に酒を作ったりはしない。宗一朗は浅くうなずく。こういうところがいいんだな、この店は、と思う。街角でミヤさんから名刺を渡されたのが「ビアンカ」に通うようになるきっかけだった。少々強引かと思いもしたけれど、初めて来て飲みながら話すうちに、ほどなく馴染むのが分かった。話の内容それ自体よりも、話の転がる方向とか、話す時の間合いとか、そうしたものが馴染むのだった。世の中、声のトーンですら気に障るヒトがいるものだから、宗一朗はすっかり嬉しくなってしまった。
「耕作君と加世ちゃんは、今二人で飲んでるのかしら」
ミヤさんが宗一朗の前に、作った水割りを置く。
「たまに二人で飲んでるみたい」
グラスに口をつけると、ほのかな甘い香が鼻に抜ける。
「ウワサの加世ちゃんは、なかなかやるコなのね」
「なかなかやる、というのか。無自覚に周りを巻き込むタイプ?」
「あらまあ、なるほどねえ。主導権を握れてないのね」
人の気配に入口を振り向くと、ドアのカウベルを鳴らして、耕作と加世がにぎやかに入ってきた。
「私、スナックって初めて入った」
加世は店内を見回す。縦長のオーディオラックの上に置かれた液晶モニタに電源は入っていない。その下に設置されているのは、レーザーディスクのカラオケセットなのだけれど、そういう器械を加世は知らなかった。七十年代を思わせる内装やランプシェードの形が、加世の目には新鮮に映った。
「こういうの、何て言うんだっけ。レトロ?」小声で耕作に聞く。
「場末って言うんだ」耕作が答える。
カウンターの右隅に座る宗一朗の隣に加世は腰かけた。その隣に耕作。ミヤさんに水割りを作ってもらうのを三人で並んで待っている様子がなんだか滑稽だ、と加世は思った。
「お、布のコースターだ」耕作が言った。「布は水を吸ってくれるから、布のコースターが好きなんだけど、使ってる店をあまり見たことない。手入れが大変でしょう?」
「洗濯機に放り込むだけよ。一枚ずつアイロンなんてかけてられないし、どうすると思う?」
ミヤさんは、もったいつけた顔で笑った。「ズボンプレッサーを使うの!」
「そうだったのか。細かいところによく気がつくなあ」
宗一朗が布のコースターをつまみ上げて耕作を見る。「というか、コースターなんて気にしたこともない」
感心する様子の宗一朗を見て、そういうことではないんだな、と加世は思う。初めてのお店で、初対面のママさんに対する「つかみ」みたいなものなんだよね、あれは。たぶん。
それにしても。他愛のない会話をして(比較的)高いお酒を飲んで、ツマミは柿の種とか、さきイカくらいのものだろうし、男どもは何が面白いのかな、こういうお店。加世は思い「あっ」と声を上げた。
「なんだ」
「どうした」
耕作と宗一朗が交互に聞く。耕作さん、年上好きだった……。
「なんでもない」加世は水割りのグラスに口をつける。
「お口に合うかな」
ミヤさんが加世の前に鶏ハムとポテトサラダを置いた。
「何ですか? これ」加世は割り箸を手に取って尋ねる。
「まあ、鶏の胸肉ね」
ひと口かじった加世は、宗一朗に目を向けると「おいしー! 何これ」と言った。
「鶏ハムというものだ」答える宗一朗。
「何でお前が偉そうなんだ」耕作が笑う。
「正直なコねー」ミヤさんも楽しそうに言う。
「ここはミヤさんの作るツマミがうまいんだ。いつもあるわけじゃないんだけど。ミヤさんの気が向いた時だけ?」
そう言う宗一朗に、加世はスナックに対する考えを改めざるを得ないか、と思った。宗一朗が嬉しそうに見える。自分の気に入っている店を他人に紹介できる嬉しさだろうか。
「宗さんも作れる? これ」
「作ったことはあるよ。こんなにうまくできないけど」
「今度作ってね。お酒にも合うし。これで飲もうよ」
「分かった、分かった」
「私も食べてみたいなあ。前から言ってるけど」ミヤさんが言うと、宗一朗は眉根を寄せた顔を作ってみせた。
「そんなことより宗一朗」耕作が割って入る。
「お前とうとう……加世を泊めちゃったのか」
あらま。勘違いさせるような言い方しちゃったかなあ。でも「とうとう」って。
「へ? まあな」こともなげに答える宗一朗。
「そっか、なるほどねー」
そう言った耕作の反応を見て、加世はハタと思い至った。この二人、お互いに分かっててこんな会話をしているんだ。
「ふうん」納得したようにつぶやいて正面を向くと、カウンター越しに身を乗り出すようにしているミヤさんと目が合った。
「加世ちゃん!」
「はい?」その気勢に加世はたじろぐ。
「私なんか、何度言っても料理を食べさせてもらったことないのに、しょっちゅうごちそうになってる上に、宗君の部屋に泊まっちゃったの?」
「宗君!」加世と耕作が声を上げる。
「宗君だって……」
あからさまに吹き出すのは申し訳ない、という表情で加世が言う。
「どこかで聞いたことがあるような名前だな」
「呼び方は、どうでもいいだろ」
「君付けで呼ばれたいんだよね、宗君は」
今度は加世は、盛大に吹き出した。「そうなんだ?」笑いながら宗一朗を見る。
「学生気分になりたいのか」耕作の意見は厳しい。
「議員だって君付けで呼ばれるだろ」
そんなことはどうでもいいのだけれど、宗一朗の違った一面が見られた気がして、加世は満足した。結局耕作は、宗一朗と飲みたかっただけなのだろう。それとも三人で「ビアンカ」で飲みたかったのか。男どもはミヤさんと楽しげに話している。
こんなふうにいつまでも飲めたらいいな、と加世は思う。
そんなことできるのかな、とも。
「今度、一人で来てもいいですか?」加世はミヤさんに言った。
「もちろん。宗君のボトル、飲んじゃっていいわよ」ミヤさんが朗らかに答えた。
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