第8話

 JR三鷹駅の改札前に耕作が一人で立っていた。南側のデッキに目をやると真夏の日差しを照り返す路面がまぶしかった。予想はしていたけれどこの炎天下を長く歩くのは難儀だな、と思う。以前ここへ来たのは何年前だったか。その頃に比べると駅ビルができ、南口はきれいに整備され、今も再開発が進行中でしみじみと時の流れを感じてしまう。そんなふうな感じ方をすることは耕作にはまれだったので、それが感傷だということに、その時耕作自身は気がついていなかった。

 ここで十二時に待ち合わせ、と言った加世はまだ姿を見せない。時計を見ると十二時にはまだ五分ほど間があった。


 一昨日、木曜日の夜のこと。耕作が宗一朗の部屋を訪ねると加世が宗一朗と夕飯を共にしていた。「いらっしゃい」と、無邪気な笑顔を見せる加世に耕作は、まったく驚いたりしていませんよ、という表情を作って、買ってきたサッポロラガーの缶ビール六缶パックを差し出した。いらっしゃい、だって?

 缶ビールを受け取って振り向いた加世に宗一朗は「もう少し飲むか。でも、ツマミがないな」と言った。

「今日は豚の生姜焼きか」皿の上に少しだけ残っていた料理を見て、耕作が言うと「早い者勝ちだよー」と加世がおどけた。

 三人で酒を飲み始めれば「もう少し」で済むはずもなく、耕作が買ってきた六缶パックの缶ビールはすぐになくなり、宗一朗の買い置きの日本酒(澤乃井、純米大辛口)を飲み始める頃には日付の変わる時刻になっていた。

 休みの日、昼間にどこかへ出かけたい、と加世が言いだしたのは、そんなふうに酒がだいぶ入ってからのことだった。


「おまたせー。早いね」

 加世が十二時ちょうどに改札を出てきた。仕事帰りに何度か加世と会ったことのある耕作は、休日のリラックスした様子の加世に、おや、と思った。いつもと違う。なるほど、仕事帰りの時はまだ会社用の空気を体にまとわりつかせていたのだろうな、と思う。

「宗一朗はまだ来てないぞ。ところで、何で深大寺なんだ?」

「……あの時言ったのに。覚えてないの?」

 加世は大げさに呆れた顔をしてみせる。

 私たちいつもお酒を飲んでばかりでしょう。それは当然夜で、大人にとっては普通のことで、もう少し「キョリ」を詰めるには昼間に会わないと。加世の意見はそういうものだった。

「ああ、そういえば」言われて耕作は思い出す。

「前に行ったことがあるんだけど、宗さんが撮りたくなるような風景だし、蕎麦屋でお酒も飲めるし、それに縁結びのお寺でもある」加世は言った。「西武園よりいいかな、と思って」

「休日に昼間から蕎麦屋で飲むのは魅力的だな。この炎天下をあまり長く歩きたくはないが」

「大丈夫。歩けない距離じゃないけど、ここからバスに乗るし、あの界隈もそれほど広い範囲じゃないよ」

「それなら助かる。昨日も飲んでて少々寝不足なんだ」

「それでも蕎麦前で飲むのは――」

「――もちろん楽しみ」

 そう言い合って思い出したように二人同時に改札を見ると、約束の時間に十分遅れた宗一朗が、こちらへ歩いてくるところだった。

 加世に先導される形で炎天下に踏み出した耕作は、その暑さに一瞬目まいがした。だから五分待って三番乗り場から冷房の効いたバスに乗り込んだ時、心底ほっとした。一人掛けのシートに座った耕作の後ろで、二人掛けの席に座ろうとしている加世と宗一朗が、窓側にどちらが座るかということで揉めている。いや、揉めているのじゃなく――じゃれあっているのか、あれは。耕作はやれやれと思い、背もたれの固いシートに深く沈み込んだ。

 バスは三鷹市を南へ下る。駅前の商業区域を過ぎると、小振りの雑居ビルやら住宅が車窓から見られるようになり、道幅が広くなって車の交通量が増えてくる。景色がすっかり郊外のそれになり、住宅街が緑地然としてくると平たい土地にお椀をかぶせたような、緑の塊が現れた。

「あそこか?」耕作が後ろの席を振り返ると、二人はそろってうたた寝をしていた。道理で静かだと思った。窓側に座る加世の顔に真夏の強い日差しが当たっていて、寝苦しそうなしかめっ面を作っている。夏休みの子供だな、まるで。耕作は思った。

 バスを降りた途端、蝉時雨が降ってきた。木陰で聞く蝉時雨は不思議とうるささを感じない。予想していたほど暑くはない、と耕作は思った。わずかに吹く風が心地よかった。生ぬるいものの、アスファルトに固められた街に吹く容赦のない熱風とは違う。加世と宗一朗が伸びをしながらステップを降りてきた。

「こっち、こっち」先に立って歩きだした加世が手招きをする。「あっちが参道なんだけど、こっちから行こう」

 加世はバス停から参道とは反対の方向へ歩く。最初の角を右へ曲がると細い道の続く先は鬱蒼とした雑木林になっていた。緑の葉を茂らせた、見上げるような背の高い木々。耕作は実際に、その木々を見上げる。街路樹にはない高さだ。生い茂る葉に隠されているのに、不思議と空を高く感じる。

「夏休み、だな」誰にともなく宗一朗がつぶやいた。

「そうだな」耕作が応える。

 子供の頃、宗一朗とクワガタやカブトムシを捕まえに行った、あの夏の鎮守の杜を思い起こさせる。神社の脇から細い道を上がって行くと谷戸地に棚田があって、道沿いを湧いた水が細く流れていた。

 耕作と宗一朗は、夜に子供だけでそこへ行ったことがあった。三十年近く昔の夏休みのことだ。羽化したばかりのカブトムシが狂ったように林の中を飛び回る様子に二人は驚喜した。体や顔にぶつかってきて、羽音がうるさいくらいだった。ひと振りするだけで網の中にたくさんのカブトムシが入ってくる。興奮して虫かごにあふれんばかりのカブトムシを捕まえた。

 しばらくすると急に辺りがしんと静かになった。あれだけ飛び回っていたカブトムシが一匹も見当たらない。真っ暗な夜の林の中、二人の子供は急に心細くなった。どちらから言うのでもなく、帰る道を歩き始める。その直後、林の中で耕作と宗一朗は、満天の星空と見紛うばかりのホタルの乱舞を見たのだった。宗一朗も覚えているだろうか。

「ここだよ!」

 加世の声に耕作は我に返り、加世の指さす方を見る。

 参道へと横から入る道が続いている。鬱蒼とした木々にトンネルのように覆われた薄暗い道のその先は、真夏の日差しを浴びたまぶしい風景で、往来する参拝客が、古い作りの門前茶屋の店先を物色し、買い物をしたり、物を食べたりしている。どこからか、水の落ちる滝の音も細く聞こえていた。

 思わず「郷愁」という言葉が浮かんだ耕作は、照れ笑いのような表情で宗一朗を見た。宗一朗はポケットから取り出した、手のひらサイズのデジタルカメラで、その風景を撮っていた。

「いいな、これ」耕作が言った。

「ああ」宗一朗はシャッターを切った。

「もう少しさ、いいカメラだとサマになるんじゃないかな」

 カメラを構える宗一朗を見ながら、加世が耕作に話しかける。「宗さんらしいけど」

 お寺に来たからには敬意を払う意味でも、まず本堂を参拝すべし、という加世の主張に従って本堂へ向かう。賽銭を入れ両手を合わせた加世と宗一朗は、目を閉じてずい分長いこと頭を下げていた。一体何をお願いしているのか。

「女は好きだよな、こういうの」

 顔を上げた加世に耕作が言うと、加世は、えへへといった顔をして「どうかな、ここは?」と宗一朗に聞いた。

「すごくいいな。こういう風景」宗一朗は鷹揚に答える。

「私の見立て通りだったでしょう」加世は今度は耕作に向かって言った。

「大したもんだ。いつのまに、そんなふうに通じ合うようになったんだ」

 一緒に仕事をしていて、毎日のように夕飯も共にしているのだから、通じ合うようにもなるのだろう。同じ釜の飯を食うことは偉大だ。宗一朗自身が、何か特別な行動をしているわけでもないだろうし。耕作はその時ふと、なぜか常盤のコトを思い出した。

 境内を脇の門から出ると、寺の裏手へと回り込む、曲がりくねった細い上り坂だった。その途中から別れる遊歩道へと足を踏み入れる。右手に崖を見上げる小道は、左手の鬱蒼と茂る木々の木陰になっていて心地よい風が吹く。とはいえ、耕作はそろそろ蕎麦前で飲みたい気分にもなっていた。

 遊歩道の道沿いに、崖に穿たれた穴に祀られた、小さな祠があった。その前に並んでいるベンチに耕作は腰かける。加世と宗一朗は、肩を並べて祠をのぞき込んでいた。

「加世ー、そろそろ飲みたいぞー」耕作が二人の背中に声をかける。

 加世は笑顔で振り向くと「この菩薩様、海から引き揚げられたんだって!」と言った。

「どこの蕎麦屋に行くんだ?」

 応答しにくい加世の言葉を無視する形になってしまったが、まあ、いいだろう。宗一朗は対応できているのだろうか。

「水生植物園の入り口の脇にある蕎麦屋。量がすごいんだよ。そろそろ行こうか?」

 加世が宗一朗を見る。宗一朗は少し先で柵に体をあずけ、体を伸ばし、左手の林の中へカメラを向けていた。何を撮っているのか。

 加世は耕作に、にやりとしてみせると「お酒飲もうよー!」と言いながら、宗一朗の背中に自分の肩をぶつけていった。「わっ!」と奇声を上げる宗一朗に加世は「ここ、ホタルがいるんだって。下草の間に、水が流れてるでしょ」と言った。

 夏休みの子供というより、まるで兄妹だな、耕作は思った。

 参道へ戻り、バス通りへと抜けると目的の蕎麦屋はすぐだった。

「あれ、雲が出てきた。雨雲っぽい」加世が言った。

 耕作もつられて上を向く。

「本当だ。ひと雨くるな」

 加世に連れられて入った店でメニューを開く頃、耕作の予想通り夕立がやってきた。会話が聞き取りにくくなるほどの雨音だった。

「すごい雨だな」宗一朗が少し大きな声で言う。

「これで涼しくなるだろう」耕作も声を大きくした。

 立て続けに鳴る雷に、いちいち加世は体をぴくりと震わせる。

「ちょっと苦手なんだよなー、雷」

 開け放たれた引き戸から見える水生植物園が、降りしきる大粒の雨に煙っている。うるさいくらいの雨音の中、注文した生ビールがテーブルに置かれ、三人でジョッキをぶつけ合う。

「あれ?」加世が言った。

 耕作と宗一朗は加世の視線の先を見る。黒いレインコートに赤い傘を差した女性が、水生植物園へ入ってゆくところだった。

「この土砂降りの中を、なんでまた」耕作が言った。傘だけじゃ濡れるだろうからレインコートは正解だ。よく見ると足元もゴム長だ。考えられている。

「私、雷が鳴っている間は、外に出たくないよ」加世が言った。

 黒いレインコートにゴム長を履き、赤い傘を差した女性は、ゆっくりとした足取りで水生植物園へと歩を進めてゆく。

「何か大事な用件でもあるんじゃないのかな」宗一朗が言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る