第9話

 宗一朗は今日「ピクニック」に行くつもりだった。近所を歩き回る場合は「散歩」、何らかの交通機関を使った移動を含む場合は(それが近場であっても)「ピクニック」と、宗一朗の中には明確な基準があった。先々週の深大寺行き以来、一人で遠出をしたいという気分が、日々増していた。「ピクニック」の場合、早朝からお弁当を作る。行き先が近場であっても七時には家を出たいと考えている。街が動き始める頃の、微速前進するような空気が宗一朗は好きだったのだ。

 昨夜、米を研いで炊飯器のタイマーを午前六時にセットした頃には、日付の変わる時刻が近づいていた。そろそろ寝たいのだけど、部屋には持参の「朝日山」を、さっきまで飲んでいた加世が、舟をこぎだしている。どうやら流しで洗い物をし、米を研いでいる間に、そのような事態になったらしい。さて、どうしたものか。明日が休日なので油断していたか。いつも小気味よく飲むので、飲み過ぎていることに気がつかなかった……。さて、どうしたものか。宗一朗は同じことを、もう一度思った。

 結局、酒が入っていたこともあり、考えるのも面倒で、睡眠時間が優先とばかりに、加世の肩に毛布をかけ、ベッドに潜り込んだ。冷房は消すことにした。毛布をかけられた加世は「ん……」とうめくような声をたて、くずおれるように畳の上にうつぶせに伸びた。宗一朗はベッドから下りて加世の頭を持ち上げ、その下に二つに折った座布団を差し入れると、またベッドへ戻った。

「ありがと……お母さん」加世が小さくつぶやくのが聞こえた。

 宗一朗が目を覚ますと、米の炊けるいい匂いがしていた。午前六時に五分前。もっと早く起きるつもりだったのに。やっぱり深く眠れなかったのだろう。夜中に時々目が覚めたし。

 ベッドから下りた宗一朗は、毛布の下で胎児のように丸くなっている加世をまたいで洗面所へ向かった。早くもセミが鳴き始めている。南向きのテラス窓にかけられた遮光カーテンが、真夏の朝日を遮り、部屋の中をぼんやり明るくしていた。部屋の空気はまだ動き始めていない。宗一朗は顔を洗うと、やかんを火にかけた。

 宗一朗がJR中野駅から中央線の下り電車に乗った時、時刻は八時半を回っていた。加世はどうも寝起きが悪いようだ、と思う。何度か声をかけたけれど、起きる気配のない加世には、仕方なく書き置きを残して部屋を出ることにした。自分の弁当を作るついでに加世の分のおむすびも握り、玉子焼きと一緒にテーブルへ置いた。

「腹がへってたら食べてください。みそ汁はインスタントだけど。戸締まりして、カギは持ち帰って。予備があるから」

 テーブルの上には書き置きとおむすびと玉子焼き、インスタントのみそ汁とお椀、宗一朗の部屋のカギが並んだ。

 空いていた席のひとつに腰かけ、宗一朗はうとうとし始める。車内の適度な混み具合と、その乗客が醸す喧噪と、効き始めた冷房が心地よかった。立川で青梅線に乗り換えて御岳まで行こう。御岳渓谷を散策してお弁当を食べよう。玉堂美術館に入るのもいいかもしれない。渓流沿いに歩けば、きっと涼しいはずだ。そんなプランを考えながら、宗一朗は眠りに落ちていった。

 下車駅に近づくと不思議と目が覚めるものだ。宗一朗は思った。立川駅の手前でも、奥多摩行きに乗り換える青梅駅の手前でも、自然に目が覚めた。乗り継ぎがうまくいって、一時間半で御岳に着くことができた。

 駅の改札を抜けて大きく伸びをする。そのままヒザの屈伸運動をした。これからの散策に無意識に備えたのかもしれない。駅前は観光客が多かった。登山の格好をした人、もっと軽装で宗一朗と同じように散策を楽しむために来たと思しき人、四角い分厚いマットを背負った人。

 あのマットを背負った人たちは何をしに来たのだろう。初めて見た時、耕作に聞いたことがある。

「あれはボルダリングとかいう競技らしい」耕作はそう答えた。渓谷の大きな岩を手足の力だけでよじ登る。落ちた時の安全のために、下にマットを敷いておくそうだ。宗一朗は、酔狂なことをする人があるものだ、と思ったものだった。

 駅の正面に見える橋を渡り、その途中で宗一朗は川を見下ろした。激しく流れる渓流を、派手なオレンジ色のカヌーが下ってくる。素早くパドルを操り、ごつごつした岩に挟まれた隘路をすり抜けてゆく。見事なものだ。宗一朗は思った。急流をすり抜けると、その先にある淵にカヌーはのんびりと浮かんだ。ミッションを成功させた、といった様子だ。次のカヌーが下ってくる。それを横目に見ながら、宗一朗は橋を渡りきった。

 川原に下りた宗一朗は渓流沿いの遊歩道を下流に向かって歩く。東京もここまで西の山の中まで来ると、だいぶ涼しい。大きな岩の上に飛んできた尾羽の長い鳥が、その尾羽を振りながら岩の上を歩く。腹のあたりが黄色い。キセキレイだ。宗一朗はポケットから手のひらサイズのデジタルカメラを取り出して、構える。自分のカメラの性能では、小さな鳥を撮るには無理がある、と知りつつもシャッターを切って満足し再び歩きだす。加世はもう起きたかな。宗一朗は思った。

 三十分ほど歩くと、隣の駅に近いところまで来てしまった。少し早いけれど昼飯にしようか、と思う。川原にはビニールシートを敷いた、主に家族連れのグループが弁当をつかっていた。そのグループたちから適度なキョリと思われる場所に、宗一朗もビニールシートを敷き、トートバッグから弁当を取り出す。もちろん駅の売店で缶ビールを購入済みである。プルタブを起こし、乾いたノドにひと息に流し込もうと思っていたけれど、小さな缶の口からはビールが一気に出てこず、もどかしー、と思う。思って一人、笑った。哲学堂公園の加世との花見を思い出したのだ。玉子焼きをひと口かじり、またビールを飲み、今度は紙コップを持ってこよう、と思った。

 加世と頻繁に夕飯を共にするようになって、三ヶ月ほどになる。加世が唐突にウチにやって来たのは、まだ寒い頃だった。新しい人間関係を築くのは骨が折れる。そんなふうに思っていたはずだったのに、いつの間にかずい分と馴染んでしまった。たまに馴染む者が現れるから困る。鮭のおむすびを食べながら宗一朗は思う。いつものパターンだと、そろそろ立ち去られる頃合いなのだけど、加世とはそうした特別な関係でもないので、立ち去られるというのも妙な話だ。関係の変化を望んでいるわけでもない。むしろ現状維持の方が、細く長く、この良好な状態を続けられる。宗一朗は鮭のおむすびを食べ終わり、二本目の缶ビールのプルタブを起こす。ひと口飲むと、二つ目のおかかのおむすびにかじりついた。

 めずらしく真面目なことを考えてしまった。宗一朗は反省する。深刻ぶるのは嫌いなのだ。こんなこと、耕作に話したら喜んで酒の肴にすることだろう。ああ、それがいい。今度、耕作と飲む時に話してやろう。宗一朗は名案が浮かんだ、という気分になって気持ちよく缶ビールを飲んだ。一人で飲んでも二人で飲んでも、どちらにしてもやっぱり缶ビールはうまい、と宗一朗は思った。

 結局、玉堂美術館へ入るのはやめにした。三十分かけてもう一度、来た道を戻らねばならない。帰りは最寄り駅の沢井から電車に乗ればいい。ここでもう少しのんびりしよう。ビニールシートに寝そべって空を見上げる。顔に当たる日差しは、じりじりと焼かれるほどではない。出かけた先で缶ビールを飲み、お弁当を食べて昼寝をする。今日、宗一朗がしたかったのは、こういうことだったのだ。どんなふうに誰と関係を築こうと、これだけは宗一朗の譲れないところだった。電車の中で、あれだけ寝たのにな。次第に眠気の差してきた宗一朗は、そんなことを思った。

 寝過ぎてしまった。いつもより多めに飲んだ酒のせいだろう。近くにある酒蔵の売店で、追加で買った日本酒も四合瓶の半分ほどを飲んでしまった。のんびりし過ぎると帰るのが億劫になるので、いつも午後三時には帰りの電車に乗っているのだ。

 帰るのが面倒だなあ、という気分になりかけ、これはいかん、と思う。何より行楽帰りの人たちで、電車が結構混むのだ。どこかの店でもう少し飲んで、時間をずらして帰ろうか、とも思ったけれど、一刻も早く自分の住む街、中野に帰りたいという気分にもなっていた。

 そんなふうに「ピクニック」の先で飲んでから帰る、というプランを考えたのは一度や二度ではなかったけれど、実行されたことはない。つまるところ、いつもと違った行動をとることが、宗一朗は苦手で、迷っている分だけ時間が無駄になるのだった。三十分ほど時間を無駄にした後、宗一朗は立ち上がり、ビニールシートをたたみ始めた。

 宗一朗が自分の部屋のドアを開けたのは午後六時半だった。テラス窓から見える外の風景は、西日に赤く染まっているけれど、西側に窓のない部屋は、うす暗く、しんとしている。ひぐらしの鳴く声が耳につく。そういえば今朝はここに、加世がいたんだっけ。

 テーブルの上を見る。

 自分の書いた書き置きには、加世の字で「合カギ、ありがと!」と追記されていた。

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