第10話

 翌日、日曜日の一日を宗一朗は落ち着かない気分で過ごした。

「合カギ、ありがと!」だって? 深く考えずにカギを渡したのはうかつだったろうか。いやいや、加世はきちんとした分別のある大人だ。きっと冗談に違いない。突拍子もないことをする時もあるけれど。帰宅してドアを開けたら加世がいる、といった事態が起こり得るだろうか。食事の用意を期待するのは無理だろうけれど、教えたらやるかもしれない。そういうのも悪くない。そう思った途端、その考えに苦笑した。

 くり返し同じことを考えてはため息をついていた宗一朗だったけれど、夕方になれば腹もへる。シャワーを浴びて、夕飯にはそうめんを茹で、日曜日にしては多めの酒を飲み、その日は寝た。

 宗一朗の日曜日の懊悩は、月曜日の出社後すぐに杞憂だったことが判明する。宗一朗が自席に着くと、すぐに近づいてきた加世が「はい、これ」と言ってカギを渡してきたのだ。その時の宗一朗の顔は、加世から見ればずい分と珍妙な表情をしていたに違いない。加世は控えめに吹き出した。「勝手にカギを持っていくわけないでしょ」

「それは……そうだよなあ」曖昧にうなずく宗一朗。

「勝手にスペアを作ったりもしてないし」

「えっ?」

「冗談だよー」

 加世は軽やかな足取りで自分の席へ戻ってゆく。

 加世の背中を見送りながら、とりあえず宗一朗はホッとした。「カギを返して」というひと言を、自分はなかなか言い出せないだろうと感じていたからだった。そのホッとした気分の中にあった、ほんの少しのひっかかりは、実はスペアのカギを作っているんじゃないか、という疑念とは全然別のもので、最初のドミノが倒れ損ねたような(倒し損ねた?)、落胆にも似ていたけれど、宗一朗の意識の中では、それは明瞭な形を取らなかった。

 椅子に座った加世は「さてと」と、声に出して言ってしまう。今週の仕事の予定を確認し「ちょっとハードそうだな」と続けてつぶやく。「スペア」の発言は、あの時とっさに出た言葉だったけれど、今、考え直してみると、それも面白かったんじゃないかと思い、いやいや、と首を振る。それはイタズラのレベルを少しだけ超えているだろうし(少しだけ?)、私はきちんとした分別のある大人なのだ。

 仕事に取りかかろうとパソコンのキーボードに手を置き、その手を止めてふと思う。今週は宗さんも忙しいだろうし、夕飯をごちそうになれないかもしれない……。そうだ、耕作にたかるか! その思いつきに加世は、一人でにやりとしてキーボードを叩きはじめた。


「喜久八」で常盤と飲むのはひさしぶりだ、と耕作は思った。最後に来たのは加世とだったか。結局にぎりは頼まずに、刺身と、からすみやらかに味噌やら、珍味のようなものばかりを食べていた。最後に、メニューに茶碗蒸しがあることに気がついて、頼まなかったことを加世はずい分と残念がっていた。その落胆ぶりに、また連れてきてやると、約束したっけ。

「何笑ってるの?」常盤が言った。顔がほころんでいたらしい。

「ああ……。茶碗蒸し頼もうかな、と思って」

「いいわね。私も」

 常盤が耕作の猪口に酒を注ぐ。燗にした「一ノ蔵 本醸造」。常盤は、どんな時でも燗酒を好むので、自然と耕作も常盤と飲む時は、燗酒を飲んでいた。猪口の酒をひと口飲んで、耕作は隣に座る常盤の横顔の、アゴのあたりを見た。その視線をたどるように常盤がこちらを向いたので、至近距離で視線がかち合うことになり、どきりとする。

「どうしたの?」常盤が言った。

 うろたえた耕作は、すぐに返事ができず「えーっと……」と言って言葉を探した。

「この距離で見ると、やっぱり年相応に――」

「ストップ!」常盤はひとつ、咳払いのフリをした。「そういう君の、ストレートなところは好きだけど、何でも正直に言うものじゃないわ」

「ああ、ごめん」耕作が素直にあやまると、常盤はにっこりして「茶碗蒸し、二つください」と、カウンター越しに主人に注文した。

「深大寺はどうだったの?」

「小学生の頃の夏休みを思い出した。そんな雰囲気のところ。宗一朗も一緒だったし」

「加世ちゃんの目的は達せられたのかな?」

「さあ。目的なんかあったのかな。昼間に会うことが目的、とは言ってたけど」

 加世のことは耕作が「酒の肴」に面白おかしく(少々誇張して)話していたので、常盤も知るところとなっていた。宗一朗のことは、それ以前から「酒の肴」にしている。

「ジャマだったんじゃないの」

「えっ、俺が? そんなふうじゃなかったけどな。小学生の遠足みたいな感じで。ぶらぶら歩いてお参りして、暑かったけど木陰が気持ちよくて。もちろんビールは飲んだけど、蕎麦屋だったから日本酒も頼んだら、ちょっと飲み過ぎた。帰りの電車の中で、みんな寝てたよ。でも中野に戻ってから、もう少し飲んで、それからひどい夕立にあった」

「ふうん」と言って猪口を差し出した常盤に、耕作が酒を注ぐ。その猪口を常盤は口元に持っていった。「ホント……、夏休みの小学生みたい」

 耕作が加世からのメールに気がついたのは、その夜、家に帰ってからだった。


 加世の夕飯は、その日で四日続けてのカレーだった。酒のツマミとして食べるのではなく、食事というだけならば何でもいいか、と考えて日曜日の夜に作り置きしておいたものだった。市販のカレールーを一箱使って作ったら、できあがった量に驚いた。作り方の説明書きを見直すと「十皿分」と書かれていたのだった。

 鍋ごと冷蔵庫につっこんで、まあ、いいかと、毎晩食べていたものの、さすがに飽きがきた。半分残してビールを飲むことにする。肉じゃがの失敗に教訓を得て、材料が同じで、おそらく失敗する可能性がかなり低い、カレーを作ってみたのだ。小学生のキャンプの定番料理だし、独自の工夫も凝らさなかったのが功を奏したのか、普通に食べられる。それでも、もう少し何らかのインパクトが欲しいなあ、と加世は思った。

 ビールをひと口飲み、スプーンの先で所在なげにつついていたカレーのジャガイモをすくって口に放り込む。しばらくにぎやかにご飯を食べていたせいか、何だか味気ない食事だ。

「お刺身食べたい。やっぱり」とつぶやいて、加世は仕事の段取りを考え始める。

 明日、もう一時間余計に残業して報告資料を取りまとめておけば、明後日の仕事は……。課長への依頼事項はいいとして、あの件は誰かに振れるし、明後日までに終わらせないといけない残る仕事は……。うん、金曜日は七時までには仕事を終えられるかな。いや、終わらせる。そう思うと加世は浮き立つような気分になり、丁寧にグラスにビールを注いた。

 宗さんは今週ずっと遅いだろうなあ。調整とか考えずに愚直に仕事をするからなあ。ビールを飲みながら、加世は耕作宛てのメールを打ち始めた。

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