第7話

 五月の連休が明けた頃から宗一朗の部屋には、毎日のように加世が来るようになった。もちろん夕飯を食べに来るのである。平日はロング缶のビールを一本飲むくらいで普通に食事をする。不本意ながら仕事の反省会の様相を呈する時もあるけれど、それはごくまれで大抵は他愛もない話をして、食後に緑茶を一杯飲んで加世は帰る。おかげで米の消費が以前より明らかに増えた。宗一朗は今まで買っていた五キロ入りの米をやめ、十キロ入りの米を買うようになった。住んでいるアパートのすぐ近くに米も売られている、酒のディスカウントストアがあるのは幸いだった。十キロの米をかついで長い距離を歩かなくてすむ。

 金曜日の夜には加世は必ず日本酒の四合瓶を提げて来たので、金曜日の宗一朗は酒の肴になる、日本酒に合う料理を作るようになっていた。宗一朗は料理を作るのが好きだったし、それを人にふるまうのも好きだった。加世は食べっぷりもいいので見ていて気持ちがいい。代り映えのない日々を送っていた宗一朗の(それは宗一朗の好むところなのだけど)、ほんの少しだけの生活の変化だった。

 日曜日の夕方、宗一朗はいつものように食材の買い出しをしていた。今日は簡単にカレーを作っておいて明日、夕飯として加世に出してやろう、と思う。そして「出してやろうじゃなくて、食べるのは俺だ」と苦笑した。来なかったらその時は冷凍しておけばいい。

 ジャガイモ、玉ネギ、ニンジン……その時ふと大和イモが目にとまり、とろろにすって今夜のツマミにしよう、と思う。一度加世にまぐろの山かけを出したことがあった。加世は心底申し訳なさそうな顔をして「宗さん、ごめん。私、とろろだけはダメなんだ……」と「だけ」を強調して言った。あの時の加世の顔は愉快だった。宗一朗は一人笑いしながら買い物かごに大和イモを入れ「あ、卵が切れそうなんだ」と今度は声に出して言った。

 部屋に帰った宗一朗はまずシャワーを浴び、それからカレーの下ごしらえを始めた。カレーの具材を煮込んでいる間にツマミの用意をする段取りだった。みじんに切った玉ネギを炒める。飴色になるまで炒めるのは面倒なのでそこまではしないけれど、ここでたっぷりとバターを投入するのがポイントだった。肉は鶏もも肉。宗一朗はチキンカレーが好きなのだった。火の通りにくいニンジンを別の鍋で下茹でしておくのも工夫のひとつだった。鍋に入れた具材をとろ火で煮込むところまで調理が進むと、宗一朗は卸金で大和イモをすりおろし始めた。

 三十分後、用意はすっかり整った。とろ火で煮込んでいたカレーにはカレーのルーを溶き入れ、既に火は落としてある。日曜日の夜はいつもあまり気合が入らず、出来合いのもので済ますことが多い。

 テーブルの上には、とろろの入った小鉢と乱雑に切られた刺身の皿がのっていた。魚をおろして刺身にする時に出てしまう、半端な身を詰め合わせたパックだ。一パック三百五十円がタイムセールで半額になっていた。宗一朗は中身をじっくり吟味し中トロの切れ端が入っているものを目ざとく見つけると、それを選んで買ってきた。今夜のツマミの目玉だ。

 缶ビールのプルタブを起こしたところで部屋のチャイムが鳴った。「日曜の夜に加世が来るとはめずらしい」と思いながら玄関のドアを開けた。

「なんだ、耕作か」宗一朗は言った。最近、来客が多い。

「おう、俺だよ」耕作は憮然としながら部屋へ上がり込んだ。「カレーのいい匂いがするな」

「それは明日の分だから、飯、炊いてないぞ」

「ああ、いいよ。持って来たから」

 耕作はレジ袋から焼き鳥とサッポロラガーの缶ビール、六缶パックを取り出した。耕作がこんなふうに唐突に訪ねてくることはめずらしいことではなかった。このところ自分で商売を始めたとか、例の女性関係とか、そのあたりの事情が重なってしばらく足が遠のいていただけだ。少しは落ち着いたということか。

 宗一朗が自分から人を訪ねることはまれだ。小学生の頃から今でも耕作との付き合いが続いているのは、耕作が定期的に訪ねて来てくれるからだと思っている。最近それに加世も加わったので、ずい分とにぎやかな思いをしている。人疲れする、というほどではないけれど新しい人間関係を築くのは骨が折れる。

 台所からビール用のグラスを勝手に取って戻ってきた耕作が宗一朗の前に座り、自分のグラスにビールを注いだ。

「ハツ、買って来たぞ。好きだったろ?」

「合鴨は?」

「ある」

 そんなことを言い合った後、二人は真顔でグラスをぶつけた。

 加世と食卓を囲むのも悪くはないが、気の置けない相手と飲む酒の方が気分は落ち着く。加世は今夜、何を食べているだろう。また惣菜を買って来たり、外食をしていたりするのだろうか。

「昨日、加世と飲みに行ったよ」耕作がネギ間をかじりながら言った。

「宗さんの部屋に行ったら留守だった、なんて言ってたぞ」

「あれ、そうか。連絡くれればよかったのに」


 昨日、土曜日の夜、宗一朗は久しく行っていなかった「ビアンカ」へ行ってみようという気分になっていた。ずっと仕事が忙しく、しばらく行かなかったので行かないことが習慣化してしまいそうだったから。これはイカン、と宗一朗は思った。今日はミヤさんの、あの形のよい丸い頭を見に行こう。

 頭の形のよいスナック「ビアンカ」のママは、向井美也子という名前なのだけど「ママさん」と呼んだ宗一朗に「ママって呼ばれるのは好かないのよねえ」と言った。最初は「美也子さん」と呼んでいたのだけど、いつの間にか縮まって「ミヤさん」になった。他の客もそう呼んでいたことだし。

 その「ミヤさん」に今日は会いに行こう。午後七時になると宗一朗は文庫本と財布をポケットに突っ込み家を出た。いつものように飲み屋の並ぶ通りを歩き、宵の口の浮かれた空気を味わってから「むくろじ」へ入る。「ビアンカ」が開くのは午後九時である。それまで一人飲みと読書を楽しもう。「ビアンカ」では乾きものくらいしか出ないから、ここでちょっとつまんでいこう。メニューをにらみ、今日のプランを考える。たまにミヤさんが家で作ったという煮物を、タッパに入れて持って来ることがあり、宗一朗は何度か食べたことがある。そのおいしさに、自分も会得しようとレシピを聞いて作ってみるのだが、なかなか同じようにはできない。

「味付けは目分量だから」ミヤさんは言うけれど、味付けよりどうしたら根菜類をあれだけしっとりと、やわらかく煮ることができるのか、そこが知りたかった。

「経験でしか得られないものもあるのよ」ミヤさんは言った。


「昨日は外で一人飲みしてた」

「一人? じゃあ『ビアンカ』にも行ったのか」

「まあ、行った」

「連れてけって言っただろ」

 耕作は一応抗議するが、その声音にさほど不満げな響きはなかった。

「すまん。一人で落ち着いて飲みたかったから」宗一朗も大してすまなそうにでもなく答え「合鴨くれ」と言った。


 宗一朗が「ビアンカ」の扉を押し開いた時「あら」というのが、ミヤさんの第一声だった。L字型のカウンターに五席だけの小さな店。L字型の、短い方の辺の右隅が宗一朗の定位置になっていた。

「どうも」と答えて座る。

「相変わらず顔色悪いわね。ちゃんと食べてる?」

 ミヤさんはおしぼりをテーブルに置き、棚にあるはずの宗一朗のボトル(神の河)を探しながら言った。

「しばらく仕事が忙しかったけど今はもう落ち着いていて、自炊してちゃんと食べてますよ。料理をふるまう相手も増えたし」

 探しだした宗一朗のボトルと水割りのセットをテーブルに並べながらミヤさんは「へえ?」と言った。

 宗一朗が、ここひと月ほどの出来事をかいつまんで話すとミヤさんは神の河の水割りをマドラーで混ぜながら、もう一度「へえ」と言った。

「じゃあ、毎日の夕飯が楽しみだ。そのコ、加世ちゃん?」

 ミヤさんの口から出た「加世ちゃん」という名前を聞いて、まるで加世が一人の普通の女性であるように感じられ、宗一朗は不可思議な気分になった。当たり前のことなのに。仕事で労苦を共にした会社の同僚に対しては男女の感覚がなくなるんだろうなあ、と宗一朗は思った。それではあらためて加世を見直してみたらどうだろう。少しの間考えて、それは困難だったのでやめることにした。今日はミヤさんとの会話とお酒を楽しむのだ。

「楽しみというほどでは……食費もかさむし。でもまあ、楽しいかな。そうだ、今度食費を請求しよう」ミヤさんから手渡された水割りをひと口飲んで言った。「だから今日は一人飲み。あまり度々だと疲れちゃうから」

 ミヤさんは今度は「おやまあ」と言った。「人には添うてみよ、って言うわよ。昔から」


「やっぱり合鴨はうまいな」宗一朗が言った。「加世とはどこで飲んだんだ?」

 耕作は手を脂だらけにして手羽先と格闘していた。指をなめながら宗一朗に目で訴えるので、ティッシュを渡してやる。口を動かしながらティッシュで手を拭きビールを飲み干すと耕作は言った。

「刺身を日本酒でやりたがってたからな。『喜久八』にしたよ」

「いいところに連れてったなあ」

 宗一朗は驚いた。宗一朗もたまにしか行かない、割り合い値の張る寿司屋だ。

「加世のヤツ、遠慮なしによく食べ、よく飲んだよ。だから一緒に飲んでて楽しいんだけどな」

 率直な物言いに宗一朗は感心した。この感覚が一人の普通の女性として見ている、ということか……いや、ちょっと違うような気もする。

 宗一朗がビールを飲み干し二本目の合鴨に手を伸ばす。その時、また部屋のチャイムが鳴った。

「鍵、開いてるよー」耕作が玄関に向かって声を上げる。そして宗一朗に「呼んだんだ、加世」と言った。

「こんばんはー」と入ってきた加世は「あれ、カレーのいい匂いがする」と言った。

「昨日はごちそうさま」

 耕作に向かって言うと、持っていたカンバス地の大きなトートバッグから「一ノ蔵」の純米酒、四合瓶とタッパを取り出した。

「ツマミ、作ってみたよ」

 真面目な顔でタッパをテーブルの上に置く。タッパを開けると肉じゃがが入っていた。

「肉じゃがはやめろって言ったのに」耕作が顔をしかめる。

「料理はしないって言ってたのに、よく作ったなあ。まだ温かい」

「料理の冷めないキョリに住んでいるので」加世は言った。

 宗一朗が肉じゃがに箸をつけジャガイモを口に放り込む。その様子を見守る加世。固唾を呑むというのはこういう顔を言うのか、と思い宗一朗はおかしくなった。

「加世」

「はい」

「これ、味見したのか」

 宗一朗が眉根を寄せた顔を加世に向けた。

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