第6話

 翌週の金曜日に加世が出社すると、宗一朗が坂井課長と雑談していた。おや、めずらしい、と思いながら加世は「おはようございまーす」と声をかけた。席に着き、漏れ聞こえてくる会話を聞くともなく聞く。慰労会の相談をしているようだった。

 そういう幹事なら若手に任せればいいのに、宗さんも人がよくて頼まれやすい質だから、と加世は思った。自席へ戻った宗一朗に近づいて加世は聞いた。

「慰労会、どこでやるの?」

「聞いてたか。それなりのチェーン居酒屋にするよ。凝った店に行っても仕方なし」

「中野での慰労会は?」

「ああ、そうだな。『むくろじ』でいいか」

 初めて聞いたことのように言うな! と思いながら加世はその日の仕事を始めた。耕作から加世に連絡が入ったのはそんな時だった。約束していた飲み会、今日あたりどう? といったもの。一ヶ月以上放置しておいて当日に誘ってくるとは、細かいようでわりと雑だ。とはいえ、その日は特に予定もなかったので加世は承諾の返事をした。

 加世はJR中野駅の北口改札前に立っていた。耕作との待ち合わせは午後七時。改札から出てくる人、入っていく人、たくさんの人が加世の周りを流れてゆく。その様子をぼんやり眺めていると、これだけいるたくさんの人が誰一人自分のことを知らない、という当たり前の事実に思い至り、奇妙な心細さを感じた。だから十五分遅れてやって来た耕作の顔を見た時、ほっとするような心持ちになり、遅刻の非難を忘れてしまった。こんなのは私の柄じゃない。

「遅刻ですよ」一瞬の後、気持ちを立て直して加世は言った。

「すまん、出がけに面倒な電話が入っちまって」耕作は謝ると「行くか」と言って一番街の入り口に向かって歩きだした。

 暖かな春の宵、週末の浮かれた空気が通りに満ちていた。さざめきながら歩く大勢の人たちに、まぎれそうになる耕作の背中に、加世は小走りで追いついくと「早いですよー」と言った。

「あ、悪い」耕作は歩をゆるめ、ふれあいロードを左へ曲がった。

「宗さんは、まだ仕事中でした」並んで歩きながら加世は言った。

「あいつ要領悪いからな。加世はよかったのか?」む、呼び捨て。

「平気だよ。私、要領いいから」加世は敬語抜きで応じてみた。

 耕作はまるで頓着しなかった。「そりゃよかった。あ、ここだ」

 指さした店は「むくろじ」だった。

 加世は初めて入る店の中を見回した。ほどよい暗さの照明、四人掛けのテーブル席が余裕をもった間取りで八つ、仕事帰りの勤め人ふうの先客が二組いた。カウンターがなくクローズドキッチンなのは意外だった。宗さんが一人飲みする店なのに?

 手近なテーブルに着いた耕作の向かいに加世は腰かけ、壁に貼られたメニューを見上げた。

「仕事の後の一杯はまず生ビールを飲むとして、馬刺しを中心にメニューを組み立てると、芋焼酎のロックもいきたいし……」

 はきはきと加世は言った。

「さつま揚げときびなごの唐揚げも頼むか」

「賛成! あ、もうソラマメが出てる!」

「分かった、分かった。ソラマメも頼もうな」

 耕作は加世の打てば響くような受け答えに相好を崩し、店員に向かって片手を挙げた。

 運ばれてきた生ビールの中ジョッキをぶつけ合うと、加世は半分近くを一気に干してテーブルに置き、大きく息を吐いた。目を上げると耕作がまったく同じ動きをしており、顔を見合わせると口を揃えて「うまい!」と言った。耕作が笑う。

「いい飲みっぷり。この前の食いっぷりもよかったし、そうでないと手応えがないからな」

「手応え?」

「ごちそうする甲斐があるってことだ」

「ごちそうさま!」加世が素早く言うと耕作は鷹揚にうなずいた。

「ずい分と忙しかったみたいだけど、私なんかと飲んでるヒマ、あるの?」

 加世はきびなごの唐揚げを頭からかじりつつ、少々詰問口調で聞いてみた。

「時間は作るもんだ」

 耕作の三杯目の生ビールがじきになくなるところだった。

「宗一朗のところで飲んだ時、うまい酒が飲めそうな相手だ、と直感したからな」

「私が?」

「そう。最初の直感って大体あってる」

「あー、同感、かも」

 加世は耕作のジョッキを確認し、そろそろ芋焼酎に切り替える頃合いでは、と目で訴えてみた。馬刺しは芋焼酎と一緒に頼もうと考えていたので、まだ注文していない。耕作は加世に向かってうなずくと店員を呼び、黒霧島のロックと馬刺しを注文し「加世は?」と言った。

「赤兎馬をロックで」間髪入れずに答えると加世はソラマメを皮ごと口に放り込んだ。

 既に店内は満席になっており、適度な喧噪がほろ酔い加減の加世の耳に心地よかった。耕作がメニューを眺めている。

「熱海はどうだった?」加世が聞いた。

「ああ、梅が終わりかけだった」耕作が答える。

 一応、梅園と来宮神社にも行ったけど、のんびり温泉につかって地魚をつまみに飲めればよかったから。行くならやっぱり海のそばだろう? レンタカーだよ。出発も午後からゆっくりだから、宿に入って少し休んだらもう飲む時間だ。兄弟でやってる居酒屋で、伊豆の山で獲れた鹿の刺身をサービスしてくれたよ。ショウジンガニの味噌汁も。え? ああ、小さな磯ガニだ。食べるところはないな。出汁を取るだけだ。夜の通りは暗くてしんとしてて、活気がないようだったけど、その寂れた空気がよかった。スマートボールをしたら彼女が喜んでた。一軒ぽつんと明かりが点いてた中華料理屋があったから、締めのラーメンを食った。彼女? 彼女は餃子とビール。

 黒霧島のロックをかたむけながら、耕作は淡々と話した。

 そのシチュエーションで餃子を食べるとは、彼女さん、なかなかやるな、と加世は思い、まじまじと耕作の顔を見た。耕作は加世と目が合うと、語り過ぎたか、といった照れた顔をして通りかかった店員に一ノ蔵と塩辛を頼んだ。

「あれ、日本酒?」加世が聞く。

「ああ、ちょっと飲みたくなった」

 時計を見ると午後十時を回っている。ずい分と長居をしたものだ。

「俺のことより、その後『キョリ』はどうなったんだ?」耕作が聞く。

 一升瓶を抱えてきた店員がテーブルにグラスを置き、酒を注ぎ始めた。

「ずっと仕事が忙しかったからなー。変化はないよ」

 酒がなみなみとグラスに満たされる様子を眺めながら、加世は言った。

「先週、花見をしたよ。哲学堂公園で偶然会ったんだ。宗さん、ビールとお弁当を持ってたけど一人で花見するつもりだったのかな」あの時は疑問も持たずに一緒にビールを飲んだけれど。

「料理好きだからな。自分で作った弁当とビールを持って一人でぶらりと出かけるらしい、陽気のいい時期は。デジカメ持ってたろ?」

「カモ撮ってた」

 耕作は笑った。

「ただ歩くだけでもつまらないから、と言ってたよ。歩きながら街角の風景を撮ったりするらしい。でもカメラに凝る様子もなさそうだけどな」

「宗さんらしい」

 耕作はなみなみとグラスに注がれた酒を一滴もこぼすことなく、器用に杯をあおった。その様子を加世は感心したように眺めた。

「宗一朗とはつき合いが長いからな」耕作がグラスを置いて言った。「ふらふらしてるだろ、あいつ。主体性がないというか、流されやすいというか」

 加世は思いあたる節があることを知らせるように、笑ってみせた。

「悪い女にひっかかってばかりだから心配で……」ん?

「それで私の品定め?」

「まあ、そうだ。いや違う。あ、ちょっとはあるか。でも加世とは飲んでみたかっただけだ。面白そうなやつだと思ったから」ふうん。おどけたように言っているけれど、案外本気?

「あいつ、あんな調子で仕事はできるのか」

「うーん」

「おいおい」耕作が笑いながら困った顔をする。

「いや、普通にできてるよ」加世も笑いながら答えた。

「でも、なんと言ったらいいか……愚直なタイプ?」

「愚直か。ああ、言い得て妙だな」そう言って耕作は腕時計に目をやった。「宗一朗、来ないなあ。連絡はしたんだが」

 さらに三十分ほど飲み、加世と耕作は店を出て家路についた。宗一朗はとうとう来なかった。

 帰り道、早稲田通りに出たところで加世は信号待ちをしている、見覚えのある後ろ姿を見つけた。

「おつかれ!」

 加世がにこやかに声をかけると宗一朗が驚いた顔で振り向いた。「お、ずい分長いこと飲んでたんだな」

「店に来いって言ったろ」

「仕事が終わらなくて遅くなったから帰る、って返信したぞ」

「なるほど、愚直、ねえ……」耕作がつぶやく。

「なんだ?」

「いや、なんでもない」

 話しながら信号を渡り薬師あいロードに入る。居並ぶ店の大方は明かりを落としている。時々、この時間まで営業している飲食店から喧噪が漏れ聞こえてくる。日付も変わろうかというこの時間、道行く人たちも同じように家に帰るところなのだろう。薬師あいロードを抜け、そのまま真っ直ぐに中野通りの五差路まで歩くと「じゃあ、またな」と言って、耕作が自宅のマンションへ入っていった。

「オレは買い物してから帰るわ。コーヒー豆切らしてて。じゃあ、また」

 宗一朗は、ちょうど信号が青に変わった五差路を渡りだした。渡ったところにあるコンビニエンスストアに入るらしい。

「それじゃ」加世は言って宗一朗の背中を見送った。

 自宅に向きかけた足をふと止め、加世は店内を眺めた。ガラス張りの店はそこだけ四角く切り取られたように、夜の中に白々と明るい。宗一朗の歩き回る様子がよく見える。目的の商品を見つけたらしい宗一朗がレジに向かって歩きだす。背中を丸めて財布をのぞき込み、支払いをしている。一週間前には盛りを誇っていた中野通りの桜が、景気よく花びらを散らせていた。風がなくてもよく散ること。加世は背の高い桜を見上げた。街灯に陰影をつけられた桜から、ひらひらと花びらが舞う。

 目を戻すと店から宗一朗が出てくるところだった。それを見て信号は赤だったけれど、素早く左右を確認し加世は走って五差路を渡った。

「宗さん!」

「帰ってなかったのか?」

「酔い覚ましのコーヒー、飲ませてもらおうと思って」

「えっ? ああ、いいよ」

 桜の花びらが降りかかる下を並んで歩き始める。

「それに……終電なくなっちゃったし」

 加世が宗一朗を見上げると、宗一朗は眉根を寄せた顔を加世に向けた。

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