第5話
朝からかかりきりだった仕事にようやく方がつき、引き継ぎ部署への申し送りが済むと午後二時になっていた。加世は自動販売機でコーヒーを買うと、その紙コップを片手に自席へ戻り「腹へった」とつぶやいた。鞄の中から出勤途中に駅の売店で買ったサンドイッチを取り出す。遅い昼食を取るつもりだったけれどあまり食欲がない。この一週間、残業続きで深夜の帰宅が多かった。疲れ、たまってるなあ、と加世は思った。こういう時こそ宗さんの手料理を食べたいものだけれど。
加世の所属する部署は今、決算期の三月に向けて多忙を極めていた。同じ部署の宗一朗も当然日々忙しく働いている。こうなる前に、もう一度くらいごちそうになっておくのだった。来週あたり飲みに行こうという耕作の言葉に、加世は律儀にも連絡を待っていたのだ。あれから一ヶ月経つ。耕作からの連絡はなかった。まったく。
宗一朗との会食後の翌月曜日、出勤してきた宗一朗に「またごちそうしてねー」とは言ったものの、その場では社交辞令的なやりとりをしただけで、今後の展開が望めるような会話はなかった。その後は、せいぜいバレンタインデーの時に、いわゆる「義理」レベルのチョコレートを渡したくらいのものだ。「消えもの」をもらえるのは嬉しいと言っていたし。
この繁忙期が過ぎたら慰労会でもしよう、と宗一朗は言っていたけれど、それは三月の末か四月に入ってからになるだろう。それこそ社交辞令っぽいし、来月まで覚えているか怪しいものだ。仕事が忙しくなると周りが見えなくなるタイプだから。
加世がサンドイッチをひと口かじると、突然カレーの匂いがただよってきた。顔を上げると自席で弁当箱を開ける宗一朗の丸まった背中が目に入る。宗一朗も今から昼食にするようだった。
「宗さん、匂うよー」加世が隣のシマから小声で呼びかける。
「みんな出払ってるし、いいかな、と思って」宗一朗が振り返る。「カレーを一食分だけ作るって、しないだろ。匂うのを承知で、残りをカレー弁当にしてみた」
「連絡くれれば食べに行くのに」
「そっか。次からは頼むよ」
「カレーの刺激臭で食欲が出てきた。このところ食欲がなかったんだ」
「刺激臭って……」
それから宗一朗は、ふと思い出したように「そういえば、耕作とは飲みに行ったのか?」と加世に聞いた。
「いやー、連絡ないよ」それは覚えていたか。
「この前の日曜日、夕方うちに来たんだ」
その時は熱海旅行のみやげの、アジの干物を置いていっただけだという。耕作も仕事が忙しいそうだ。
「熱海旅行って、この前言ってたデートの相手と行ったのかな?」
「そう。勘がいい」
普通だと思う。仕事が忙しく、そのデート相手との、あれやこれやも忙しい。そんな中、よく私まで誘うものだ。友達百人いるタイプかしら。
「慰労会は、どこか外で飲もうよ」加世は言った。
「いいよ。『むくろじ』でいいかな……」終わりの方は半ば独り言のように宗一朗はつぶやいた。
私の連絡先知ってるのかな? その時、加世は思った。
四月に入った最初の土曜日。その日はしばらく続いた休日出勤もなく、加世はひさしぶりの朝寝を満喫した。決算期の繁忙期がようやくピークを越えたところだった。よく晴れた休日の午前十時。中野通りの桜は満開。加世は散歩することに決めると、勢いよくベッドを下りて身支度を整え始めた。桜の咲く頃は毎年仕事が忙しく、加世は働き始めてから花見というものをしたことがない。もっとも、花見にそれほど興味があるわけでもなかったけれど。
表に出た加世は、哲学堂公園に向けて中野通りを歩きだす。背の高い桜並木を見上げると、薄いピンク色の花の間から青空がわずかにのぞく。春の日差しが顔に当たって心地いい。深夜の帰宅や休日出勤がひと月ほど続き、疲れもたまっていたけれど爽快な気分だった。ひさしぶりに日の光を浴びたような気がする。日光って大事だな。加世は中野通りを軽やかに歩き続ける。陸橋の作る日影に入った時、一瞬ひやりとして春の浅さが感じられた。なんか、うきうきする。加世は思った。今日あたり哲学堂公園は花見客でいっぱいだろうな。
十分ほど歩くと哲学堂公園が見えてきた。中野通り沿いの入り口から入ったところが桜広場になっている。予想通り、この時間から花見客でにぎわっていた。目いっぱい花をつけた幹のように太い枝が、公園の際を流れる妙正寺川を、覆うように伸びている。加世は浮き立つような気分のまま歩を速める。手前にかかる小さな橋の上に見知った人物が見えた。あれ、宗さんだ。
宗一朗は手のひらサイズのデジタルカメラを川に向け、何やら撮影をしていた。加世は川底が深いわりに水の少ない川をのぞき込む。カモがいた。
「カモ、撮ってるの?」
加世が話しかけると宗一朗が驚いたように振り向いた。
「奇遇だな。どうした?」
「散歩。仕事もひと息つけたし、桜もきれいだし、天気もいいし。宗さんは?」
「俺も花見」
宗一朗が肩からかけているナイロンのトートバッグが大きくふくらんでいる。酒やツマミが入っているに違いない。
「鴨肉、おいしいもんねー」
「いや、そういうつもりじゃないんだけど……まあ、鴨肉はうまいよな」
宗一朗が川にいるカモを指さす。
顔全体が緑色の大きなカモがいるだろ。あれがマガモ。一番うまい。マガモとアヒルの間の子が合鴨で食肉として売られてるヤツ。目のところだけが緑で小さいのがコガモ。今までここでは見なかったな。グレイのシックな色合いで尾羽がぴんと立ってるのがオナガガモ。みんな冬に渡りをして来て、まだ北へ帰っていない居残り組だ。
話しながら歩きだした宗一朗の後に加世はついていく。
「マガモ、食べたことあるの?」
「昔、親父が狩猟をやってて。結構食ったよ」
あっちは満席だからと、川を挟んで桜広場の対面にある、細長い公園に入る。こちら側の公園にも花見客がちらほらといた。宗一朗は空いているスペースを見つけ、小さなビニールシートを広げて座り込んだ。向かいの桜の木の下の宴が見える。古式ゆかしい重箱のお弁当を用意している人、携帯コンロで煮炊きをする人、宅配ピザを頼む人。
「こっちからだと、桜全体がよく見える」
「私は桜の下で、花に埋もれたいなあ」広げたビニールシートの上に、缶ビールや料理の入ったタッパを並べている宗一朗に加世は言った。「私もご相伴にあずかっていいの?」
「え? いいよ。そのつもりだろ」
すっかりそんなふうに思われていたか。無理もない。料理を食べに突然自宅を訪ねたのだものな。加世は心の内で苦笑して「ありがと」と言った。そして桜の方を向いている宗一朗の隣に座った。
「外で飲むにはやっぱりビールだな」
宗一朗がビニールシートに並べたサッポロラガーの缶ビールを手に取った。紙コップのようなものは持ってきていなかったので缶をぶつけて乾杯する。べこん、とマヌケな音がした。一気に飲み干したいのに缶からは、なかなかビールが出てこなくてもどかしい。加世が大きくあごを上げてビールを飲み「もどかしー」と言って笑った。
タッパには唐揚げとポテトサラダ、もう一つにはいなり寿司が四つ入っていた。朝食を取っていなかった加世は、お腹が鳴り急に空腹を感じる。
「お腹へっちゃって。いきなり米もので申し訳ない」いなり寿司に手を伸ばす。
「酢飯はツマミになるだろ」宗一朗は唐揚げをつまんだ。
「何、このおいなりさん。ふっくらしてておいしい」加世は一つ目を、あっという間にたいらげる。
「普通に作れば、そうなるよ。売られてるヤツは飯が冷たくて固くなってるし、油揚げも薄くて味付けが濃いし」そう言った宗一朗はビールを飲みながら、唐揚げとポテトサラダばかりを食べている。
「じゃあ、このおいなりさんも宗さんの手作り?」
「見て分からないかなあ」宗一朗は一本目の缶ビールをのどを見せて飲み干した。
「こっちの小さいタッパは何?」
「それは春の味。わらびの辛し和えとふき味噌」
「山菜ってヤツ? 食べたことないよ」
「ホントか? 天ぷらが王道だけど俺は煮たり炒めたりする方が好きだな。こしあぶらが一番好きだ。今度食いに行こうか」
今日はよくしゃべるな、と加世は思う。仕事の忙しさが一段落して気分も軽いのだろうか。
「そんなことより、豊島園……じゃなくて西武園はいつにする?」
「西武園? なんだっけ、それ」
やっぱり。別に西武園にこだわりはないけれど。「まあそれはいいとして、宗さん、私の連絡先知ってる?」
「知ってるよ」
宗一朗が取り出した携帯電話を操作する。その様子はどこかたどたどしい。
「あれ、登録されてない。それじゃ」
宗一朗が加世に携帯電話を渡す。ああ、私に登録しろと言っているのか。加世は自分の携帯電話を取り出した。これでようやく直接訪ねなくても連絡が取れる。
哲学堂公園は四時に閉門だ。日が傾けばまだ肌寒いだろう。こうしていられるのもあと二時間くらいかな、と加世は思う。とりあえず、あと一ついなり寿司を食べよう。宗一朗が自分の分をくれるかもしれない。軽い散歩のつもりだったけれど思いがけず宗一朗の手料理が食べられて、花見もできた。今日あと少し。悪くない時間が過ごせそうだ、と加世は思った。
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