第2話

 宗一朗は振り返って隣のシマの課長席を見た。左手に持った紙コップを口元にあてたまま(自販機で買ったコーヒーを飲んでいるのだろう)、パソコンのモニタをにらみつけていた。その表情から今朝の機嫌はうかがえない。

「どう思う?」宗一朗は小声で加世に聞いた。

「あいさつしたら、普通に返事が返ってきたよ」

 何の参考にもならないな、と宗一朗は思い、右肩を二回ぐるぐると回して席を立つ。

「がんばれ。まだ機嫌はよさそうだよ」

 加世も小声で言って、こぶしを握って見せた。

 去年、他の支社から異動してきた課長の坂井は、宗一朗にとって一つ年下の上司になる。年上の部下がいてはやりにくかろうと、宗一朗はそれなりに気を遣っていた。それが無用な気遣いだと理解するのに三日とかからなかった。坂井課長はきちんとした大人だったのだ。ゆるぎない定見を持っている。宗一朗はそんなふうに思い、そういうタイプは苦手だ、と加世に言った。

「それだと世の大方の人が、苦手になっちゃうよ」加世は答えたのだったが、世の大方の人はあれほど気性が激しくあるまい、と宗一朗は思うのだった。

 一度、部下を叱責する場面に遭遇したことがある。その様子に宗一朗は、この世の終わりかと震え上がった。そして「本当は気が小さいのに虚勢を張ってるだけだよ、あれは」という、加世の見解に驚いた。

 加世の見解はともかく宗一朗はその後、坂井課長に話しかける時は、タイミングに気をつけようと思ったのだった。タイミングといっても、機嫌の良し悪しを顔色からうかがうだけのことなのだが、奥さんとちょっとしたいさかいをした程度で、この世の終わりに来られてはかなわない。それが、故意に皮相的な見方をしていることだと、宗一朗自身にも分かってはいるのだけど。

「加世の言う通りだったよ」坂井課長に顛末を報告し、自席に戻った宗一朗は言った。今朝は奥さんとのいさかいもなかったようで、宗一朗の、報告書の提出遅れの言い訳に「今日中に提出してください」とだけ、わりと穏やかな声音で言ったのだった。

「でしょ? 今朝はそういう顔だったから早いうちがいいと思った。午後には悪くなりそうだったから」

「天気予報みたいだな」

「なんとなく分かるのよねー」

 坂井課長が異動してきて一週間ほど経った頃「あの人とはうまくやっていけそう」と加世は言ったのだった。ほんの少しのつき合いで、なぜそんな判断ができるのか、宗一朗は不思議でならなかった。

「気が合うとは言ってないよ。でも、わりと好きかも」

 加世はそう言っていたが実際その後、比較的なごやかに話す加世と坂井課長を見るにつけ、宗一朗は大したものだと思うのだった。


 宗一朗がJR中野駅北口の改札を抜けたのは午後六時だった。帰宅途中にスーパーで買い物をする。まずは鶏胸肉に豆腐、中華スープを作るための野菜類はあるから、他に何を買うか。店内を歩き回りながら思案する。今日のメニューはチキンステーキ(ニンニク抜き)、中華スープ、インゲンの白和え、厚焼き玉子も作ってやろう。昨日漬けておいた塩辛が、ちょうどいい漬かり具合のはずだ。刺身と日本酒は耕作が持ってくるだろうから、ビールを買って帰ろうと思う。アパート近くの、酒のディスカウントショップでサッポロラガーの瓶ビール(大瓶)を四本買おう。そう考えると一刻も早く家に帰って、酒を飲みたい気分になり、つまみはもう十分だろうと自分を納得させ、そそくさと会計を済ませた。すっかり日の落ちた中野通りに出ると、宗一朗は浮き立つような足取りで家路を急いだ。

 帰宅すると宗一朗は、まずシャワーを浴びた。きれい好きというわけでもない。子供の頃からの習慣なのだが、今ではすっかりビールをおいしく飲むためになっている。大して時間もかけずにシャワーを終えると、濡れた髪もそのままに調理に取りかかった。あと三十分で耕作が来る。

 水を張って火にかけた小振りの寸胴鍋に、皮をむいて刻んだ根菜類を放り込み、ついでのようにインゲンを入れた。白和えを作るためのインゲンを一緒に茹でてしまおうという魂胆らしい。そして鶏胸肉を取り出してまな板に置くと、フォークで何度も突き刺して粗塩をすり込んだ。鉄のフライパンに油をひいて火にかける。火が通った頃合いを見計らって鍋からインゲンだけを取り出し、刻んで豆腐と和える。塩を振り、ごま油を少々たらす。この味付けが宗一朗の作る白和えのポイントで、耕作も気に入っていた。手慣れた料理のいつもの手順に、宗一朗は次第に調理に没頭していった。

 ニンニクをまな板の上に置いたところで、ニンニクは抜きだったな、と思い出し、そのままフライパンで焼き始める。小気味よい音と香ばしい匂いが、ほどなく狭い台所を満たした。

 アパートのチャイムが鳴った時、宗一朗は厚焼き玉子を焼いていた。

「鍵、開いてる――」宗一朗が言う間もなく、耕作が入ってくる。

 手には日本酒の一升瓶と平たくふくらんだレジ袋を提げている。刺身の盛り合わせだろう。耕作の好きな厚く切ったブリが、たっぷり入っているに違ないない。

「いい匂いだな」

 耕作が、とろ火で煮込まれている鍋をのぞき込む。「キャベツより白菜がよかったんだが」

「俺はキャベツが好きなの。そこの引き出しに卸金が入ってるから、大根おろせ」

 耕作が引き出しを開けると、つやつやと銀色に光る、大振りの卸金が現れた。

「立派な卸金だな。これも女からのもらいものか?」

「いや。合羽橋で千円で買ったもの」

「ふうん」

 耕作は、食器棚から小鉢を取り出すと宗一朗と並んで立ち、大根をおろした。大の男が二人で立つと狭い台所はかなり窮屈である。その狭さをものともせず耕作はごしごしと大根をおろす。小鉢の大根おろしがうず高く盛り上がる頃、卵四個を使った厚焼き玉子が出来上がった。

 耕作はあぐらをかいて卓袱台の前に座り込み、持参したレジ袋から使い捨ての容器に盛られた、刺身を取り出した。チキンステーキ、厚焼き玉子、大根おろし、そして刺身が並べられた様子に宗一朗は満足そうに頷くと冷蔵庫から取り出した瓶ビールと、グラスを二つ、それらの隣に置いた。

「お前、嬉しそうだなあ」耕作が手渡されたグラスを受け取る。

「飲む前はね」宗一朗がそのグラスにビールを注ぐ。

 続けて自分にも注ぐと「おつかれ」と言って杯をあわせた。そのビールを二人がそろってひと息に干すと、すぐに二杯目を宗一朗は注いだ。二杯目もひと息に空けた耕作が「ようやく人心地がついた」と言って、一口サイズに切り分けられたチキンステーキに箸を伸ばした。

「ニンニク入りの方がうまいな、やっぱり」

 宗一朗が何をか言わんや、という顔をする。

「女に気を使っても仕方ない、ってことだ」

 悪びれた様子も見せずニンニク抜きのチキンステーキをビールで流し込み、二つ目に箸を伸ばす。「ひさしぶりの宗一朗の手料理なのに、な」

 耕作は空いたグラスに自分でビールを注いだ。

 宗一朗が耕作と飲むのは三ヶ月ぶりだった。それまでは週末ごとに訪ねて来られたもので、一人静かに飲みたい夜は、宗一朗は外に飲みに出ることにしていた。とは言え、どこにいても連絡がついてしまう昨今、携帯電話の着信を無視できず、結局一緒に飲むことになる。ともあれ、久方ぶりに訪ねて来た旧友に、旺盛な食欲を見せられることは、料理を作った宗一朗にとって嬉しいことだった。

「明日のデートって、例の女社長?」宗一朗が水を向ける。

「まあ、そうだ」

 三ヶ月前、耕作は「今日は行けない」と律儀にも断りの電話をしてきたのだった。

「別に待ってないよ」という宗一朗の言葉に頓着せず「女ができた」と、身も蓋もないことを言う。

「しばらく行けないけど、悪いな」それだけ言うと早々と電話を切ってしまった。女と会っている最中に電話を寄越したのだろうか、忙しないことだ、宗一朗は思った。結局その後も耕作は何くれとなく連絡してくるので、自然と事情を知ることになった。

「仕事が一段落したからな。それでこうして飲みにも来られる」耕作は厚焼き玉子に大根おろしをのせて口にはこぶ。「温泉旅行を計画中」

「女社長と? 彼女、家を空けられるのか?」

 厚焼き玉子を咀嚼中の耕作は、うんうんという感じでうなずいた。例の女社長(確か常盤という名字だった)が既婚者だということは聞いている。離婚訴訟中だと言ったっけ?

「彼女は個人事業主。社長じゃない」耕作は言った。

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