第3話

 脱サラする、という話を耕作から聞かされたのは一年ほど前で、やっぱりその時も、宗一朗の部屋で飲んでいた。宗一朗は「ダッサラって何?」と聞いたものだったが、そんな宗一朗の反応をものともせず「会社辞めて、商売始める」と耕作は続けた。

 一瞬、宗一朗は理解が追いつかずぽかんとした。一生つつがないサラリーマン生活を送ろうと決心している宗一朗にとって発想の埒外だったから。

 アジアっぽい雑貨を売る店、とか、知り合いの若い女を店長にすえて、とか、仕入れはコネがある、とか。そんなふうに耕作は事業計画らしきものを熱心に語っていたが、宗一朗は、そんなんでダイジョブなのかなあ、と思いながら酒を飲んでいた。

 その仕入れ先の「コネ」であるところの「女社長」が耕作の交際相手だと知った時は驚いた。仕事上の人脈で、そんな関係になるとは、というのが宗一朗の感想だった。後から聞いた話によれば、その「女社長」に背中を押される形で耕作は独立を決めたらしく、仕事上のフォローも度々してもらったという。

「彼女には世話になったからな。慰安旅行だ」

「公私ともに?」

「そう、公私ともに」

 宗一朗の揶揄の調子に耕作はまったく気がついていない。世の中それぞれに、それぞれの事情を抱えた人たちがいるわけだし、問題はないのだろう。そもそも耕作の色恋沙汰などどうでもいいではないか。

「女社長……常盤って言ったっけ?」

「『さん』をつけろよ」耕作は笑ってチキンステーキの最後の一つを口に放り込んだ。

「まあ、一段落したというだけだ。軌道に乗ったとは言い難いし、とりあえず資金繰りが無難になってきた、というところだ」

 そこで耕作は「あっ」という顔をした。

「すまん、全部食っちまった」

 チキンステーキの載っていた空の皿を顎で指す。

 宗一朗は頷くと立ち上がって台所へ行き、スープ用のボウルに中華スープをよそい、ビールを持って戻って来た。中華スープの肉だんごと、たっぷりの野菜をビールのツマミにするつもりだった。もう少しビールが飲みたかったのだ。

「俺は日本酒に移る」耕作は自分の持って来た一升瓶の封を切った。酒は澤乃井の純米大辛口である。

「グラスくれ。いつものアレ」

 言われる前に宗一朗はもう一度台所へ戻り、いつものグラスを取り出していた。

 そのグラスは五年前の初夏の頃、新井薬師の境内で開かれていた骨董市で買ったものだった。宗一朗は骨董に興味があるわけでもないのだが、買い物帰りにたまたま通りかかり、ひと目見て気に入ってしまった。二千円の値札を見て逡巡する様子の宗一朗に、店主が「千五百円でいいよ」と声をかけた。店主は「昭和初期のものだよ」と言った。厚底でゆがんだガラス。その重みで持った時に、手の中にしっくりと収まる。日本酒が八勺ほど入るだろうか。たたずまいが見飽きない。結局、宗一朗は二つ買い込んだ。そうした衝動買いは宗一朗にしてはめずらしいことだった。耕作が飲みに来た時、このグラスで酒を出してやろう。帰る道々、そう考えていた。

 耕作は宗一朗からグラスを受け取ると一升瓶の細い口を片手で持ち、器用に杯を満たした。

「慰安旅行はどこに行くんだ?」

「魚の美味い、海のそばがいい。王道の熱海あたり」

 耕作はひと口酒をすすった。

「王道?」

「昔のリゾート地だろ。車で行くのに適当な距離だし、梅も見頃だろうし、彼女のリクエストでもある」

 耕作は、さっそくブリの刺身にわさびをのせている。

「漁師がやってる地魚を食わせる美味い店をリサーチ済み。来宮神社に参拝して、梅園に行って、夜はその店で美味いものを食って、スマートボールでもやったらばっちりだろう。みやげは何がいい?」

 なんと楽天的な、宗一朗は思った。不倫(と言っていいのだろう)という言葉からイメージされる、定型的な行状と切り離された、このカラッとした感じ。

 もっとも宗一朗にとって「不倫」などというものは、遠い異国で起きている紛争のように、日常から切り離された出来事で(でも確実にあるらしいことで)、ドラマや小説からのありきたりのイメージでしか想像できないものだった。それが身近な人間の、身の上に起こったことで、ずい分と不可思議な感慨を持った。

「熱海がいいだなんて、なんでだろ」

 宗一朗は自分が抱いた不可思議な感慨をごまかすように、肉だんごをひと口かじり、ビールを飲んだ。

「そういう世代? って歳でもないか」

「そういう世代?」

 宗一朗は気になって尋ねた。確か年上だと耕作は言っていた。

「干支が俺と同じだ」

「干支が同じ?」

 自分の立て続けのオウム返しに宗一朗は苦笑しながら、たまげたなあ、と思った。年上で干支が同じということは……。いやいや、とその感情をすぐに打ち消す。歳の差なんて関係ない、というありきたりな言葉が浮かぶ。ありきたりということは、広く世間様に受け入れられている観念ということで、つまるところ、これも王道ということだ。話の筋道がどこか違うような気もしたが。

「よかったな。がんばれ」宗一朗は言ったものの、何がよかったのか、どの方向にがんばればよいのか、皆目見当もつかず、まあどうでもいいか、とアオリイカの刺身をつまんだ。耕作を見るとグラスにわずかに残った日本酒を眺めている。

「アジの干物」宗一朗が言った。

「は?」

「アジの干物がいい。みやげ」

「そうか。了解」耕作はマグロの赤身に箸を伸ばした。「塩辛出してくれ。作ってあるんだろ?」

 宗一朗は眉根を寄せた顔を耕作に見せて立ち上がった。その顔を眺めて、耕作はグラスに残っていた酒を干した。

 塩辛を出したのを機に宗一朗も日本酒に移った。日本酒を飲みながら、塩辛やインゲンの白和えをつまむ。

「俺がごぶさたの間に行きつけのスナックができたらしいな。なんて言ったっけ」耕作が言った。

「ビアンカ」

「そうそう、ビアンカ。今度連れてけ」

「別に構わないけど、大した店じゃないぞ」

 その時、部屋にチャイムの音が鳴り宗一朗と耕作は顔を見合わせた。

「誰が来たんだ、こんな時間に」

 耕作が立ち上がり玄関へ向かう。何かの勧誘か? 誰が来たにせよ面倒な応対になりそうなので宗一朗は、そのまま耕作にまかせることにした。

 ドアを開ける音の後、何らかの話し声が聞こえてこないことを不審に思い、宗一朗が立ち上がって玄関を見遣ると、よく見知った顔が耕作と向かい合って棒立ちになっていた。

「加世?」宗一朗は驚いた。

「ト、トリックオアトリート?」

 加世はぎこちない笑顔で、どうにか応じたようだった。

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