第12話

 立秋を過ぎたばかりの午前六時、土曜日の朝だった。日中はまだ真夏の暑さだけれど、この時間の空気には、ほんの少し秋の気配が感じられるかな、と宗一朗は思う。

 仕事は休みだというのに宗一朗は、玄関から二間続きのキッチンに立ち、弁当を作っていた。といっても、ポテトサラダは昨日の夜に作ったし、鶏ハムも後は切るだけ。いなり寿司のための油揚げも煮付けてあった。今朝やることは、炊けたばかりのご飯で酢飯を作り、油揚げに詰めるだけだった。酒のツマミになる料理を、宗一朗は考えていたけれど「行楽弁当」というコンセプトに則って、いなり寿司も作った。炊きあがった、釜に入ったままのご飯の上から寿司酢を回しかけ、手早くしゃもじで切る。しばらく置いて味を馴染ませてから、油揚げに詰める段取りだ。

 加世との待ち合わせは哲学堂公園に十一時だから、まだたっぷりと時間はある。それまでどうするか。一週間分溜め込んだ汚れ物を洗濯するのは必須として、ひさしぶりに部屋の掃除でもするか。宗一朗は、酢飯をしゃもじで切る手を休めずに、そんなプランを立て、さて加世は何を作ってくれるのかな、と思った。

「ランチをしましょう」と加世が言ったのは、この前の月曜日。宗一朗の部屋で夕飯を共にしている時だった。「ランチというのは昼飯のことか?」宗一朗が当たり前のことを聞き返すと、加世はまじめな顔でうなずいた。

「お互いにお弁当を、いや、ツマミを作って持ち寄って、それを食べかつ飲む。そんなイベント的なヒルメシだよ」

 まじめな顔をくずさないまま加世はそう続けた。その言葉と、いつもと違ったきまじめな顔が、どうにもちぐはぐで、宗一朗は笑いだしそうになったけれど、きまじめな顔に気圧されて「そ、そうか」と言うにとどまった。

「料理、作るようになったのか?」宗一朗が聞くと、加世はまた黙ってうなずいた。

 料理を作るのに、そんな悲壮な決意が要るのか。それとも作り慣れていない料理というものを、人に食べてもらうという緊張感からか。その場の妙な空気に感化され、宗一朗もそんなふうに思った。

 宗一朗は洗濯機を持っていない。いつも、歩いて三分のコインランドリーへ行く。洗濯槽に衣類と洗剤を放り込み、二百五十円を投入すると一度アパートへ戻る。三十分後に取りに行くまで家の掃除だ。今日のプランはそうなっている。六畳のキッチンと二間続きの居室。家具や物の少ない部屋は、掃除機をかけるだけならあっという間だ。掃除機をかけ終わったタイミングで、コインランドリーへ洗濯物を取りに行き、ベランダへ干す。今の時期なら乾くのに大した時間もかからない。出かける前に取り込めるだろう。

 そこまでの家事を終え、ベッドに腰かけて煙草に火をつけ、ひと息つくと宗一朗は手持ちぶさたになってしまった。加世との約束の時間まで、まだ二時間ある。

あれ、どうしたことか。宗一朗は思った。こんなふうに手持ちぶさたになる感覚を持ったことがなかったから。いつもなら好きな本を読むか、散歩に出かけるか、昼飲みをするか(今日、その選択はないけれど)。仮に部屋で、ぼーっとしていても、それを手持ちぶさたと感じることはなかった。加世と約束しているからなのか? コントロールされているみたいな気がするなあ……。宗一朗は不可思議な気分になったけれど、一瞬の後、態勢を立て直し、トイレと風呂場を掃除しようと決めた。それでもまだ時間があるようなら、シンクとガス台も磨いてしまおう。宗一朗はジーンズの裾をまくると、立ち上がって風呂場に入っていった。

 宗一朗は中野通りを歩く。すぐ近くに住んでいるのだから、一緒に行けばいい、と宗一朗は言ったけれど、待ち合わせ場所で落ち合うのがデートというものでしょう、という加世の主張を受け入れる形になった。そういえばあの時、加世は「デート」という言葉を使ったな、と思い出す。確かに今まで、二人でどこかへ出かけたことはなかったけれど、もう何度もウチで飯を食っているのに。何度もどころか、常態化しているのに、と宗一朗は思った。

 背の高い桜並木が濃い緑の葉を茂らせ、歩道に木陰を作っている。深大寺と違って、この辺りは木陰でも暑い。葉の間から、ちらちらと差す夏の光は同じなのに。陸橋の下を歩きながら宗一朗は、ジーンズの尻ポケットからハンドタオルをひっぱりだし、額の汗をぬぐう。ビールをおいしく飲めそうだ。宗一朗は思う。

 哲学堂公園の、中野通り側の入り口の、手前にかかる小さな橋の上に加世は立っていた。肩にカンバス地の大きなトートバッグをかけ、川底が深いわりに水の少ない川をのぞき込んでいる。カモでも見ているのか。宗一朗に気がつくと、大きく手を振って小走りにかけ寄ってくる。今からそっちへ行くのだから、わざわざ来なくても。この暑いのに。「ツマミ、作ってきたよー」加世は宗一朗の目の前で立ち止まり、朗らかに言った。

「どうした? 自信作ができたのか」

「見てのお楽しみ」加世は「ふふ」と不敵に笑った。この前の緊張感は、どこへいったのか。

 入り口を入ったところの桜広場に人影は見えなかった。

「人、いないねー」

「これだけ暑いんだ。みんなクーラーの効いた家の中にいるんだよ」

 桜広場の脇を抜けた先に、小さな池のあるこじんまりとしたスペースがある。小首をかしげたタヌキの石像がいて、地面から生えたような丈の低い石柱に「唯物園」と掘りつけてあった。元々の自然を生かして造られた公園は、急傾斜の崖が雑木林になっていて、その木陰に東屋があった。当たり前のように東屋のベンチに座る。ここに差す木漏れ日は、アスファルトの上よりは、やわらかだ。

 加世がカンバス地の大きなトートバッグから、ツマミを入れたタッパを取り出し、テーブルに並べる。もう一度不敵に笑うと、次々にふたを開けてゆく。

「ソラマメに合鴨の塩焼き、筑前煮。どうかな?」

「驚いた。筑前煮なんか、よく作れたな。信じがたい。味見はしたのか?」

「まあ、食べてみてよ」堂々たるもの言いだ。

「あっ、まずはビールだね」

 そう言うと、アルミホイル製の簡易的なクーラーボックスのファスナーを開けた。350mlのサッポロラガーの缶ビールが六缶入っていて、その上に保冷剤までのっている。へえ。ずい分と気がきく。宗一朗はまた驚く。

「今日はプラコップもあるよ」加世は続けてプラコップも取り出した。宗一朗はもはや言葉もなく、プラコップにビールを注ぐ加世の様子を眺めていた。

「はい」渡されたプラコップを、あわてて受け取る。

「それじゃ、真夏日に」加世がプラコップを掲げると、宗一朗は「乾杯」と言った。

 加世の持って来たプラコップはロングサイズだったので、ひと息に干すというわけにもいかなかったけれど、それでも宗一朗は三分の二を飲み「うまいなあ」とつぶやいた。こんなシチュエーションで飲んだらうまいに決まっている。さあ、加世の作った料理を食うか。宗一朗は筑前煮に箸を伸ばした。鶏肉とこんにゃくを一緒につまみ、口へとはこぶ……。続けて里芋。

「加世」

「はい?」

「これ、ミヤさんが作ったものだろう」

「分かっちゃったかー」バレることが分かっていたような顔で言う。

「あの日以来、たまに一人で行ってるんだ。このランチのことを話したら、分けてあげるって言うから、遠慮なく」

 ミヤさんの筑前煮を食べられることは、宗一朗にとっても喜ばしいことだったので特に異存はない。

「筑前煮は、これで完成」加世は言って、別のタッパから取り出したきぬさやを、筑前煮の上に散らせた。「このきぬさやは、私が茹でたの」

「それより、オレの『神の河』はどうした?」

「大丈夫。この前空けちゃったけど、次を入れておいたから」

 その言葉を聞いて宗一朗は安心する。

「ミヤさんは『宗君につけとく』って言ってたけどねー」

 そう言って加世は「ぷっ」と吹き出すような顔をした。「宗君だって」自分で言った、言葉の語感を面白がるようにつぶやく。

 まあいっか、ボトルの一本や二本。と言っても、この先加世が「ビアンカ」に通い続けるとなると、それでは済まなくなるか。宗一朗の、その思いを察したかのように「もちろん、酒飲みの筋は通しますよ。私は」と加世は、冗談とも本気ともつかない顔で言った。

「ひとつ、よろしく」宗一朗も半分冗談、半分本気のように答え、ソラマメを皮つきのまま口に放り込む。その様子を見た加世は「宗さん、ソラマメは皮ごと食べる派でしょう。そう思って茹で時間を長めにしたんだ。皮がやわらかくなるように」と言った。

「それ、ミヤさんからの情報だろう」

「また、分かっちゃか。私も皮ごと派なんだけどね。ソラマメは茹でただけだし、合鴨は塩を振って焼いただけ、筑前煮はミヤさんからのおすそ分け。私のラインナップはそんなものだよ」

 加世は宗一朗が並べたタッパから鶏ハムをつまみあげた。

「さあ、どんなお味かなあ」と、プレッシャーをかけることも忘れない。ひと口かじると「うん、おいしい」と言った。

「ミヤさんの鶏ハムの方がうまかったって、顔に出てるぞ」

「またバレた? あっ、いえいえ。おいしいのはホントだよ」

 鶏ハムを食べながら、ビールを飲む加世の様子を見ていると、まんざらウソではないのだろう、と思う。そういえば、夕飯を共にしている時、加世はいつもこんなふうな顔をしていたか。すっかり馴染んでしまったな。

「合鴨もうまいよ」二本目の缶ビールのプルタブを起こしながら、宗一朗は言った。

「どーも」答える加世は、なんだかはにかんでいるように見える。

「塩を振って焼いただけだけどねー」と、また同じことを言った。そして、くるりと表情を変えた。「今日はとっておきがあるんだよ。見たい?」

「もったいつけるなよ」

 加世は今度は得意満面といった笑みを浮かべた。今日はころころと、表情がよく変わる。

 加世は脇に置いてあった、カンバス地の大きなトートバッグから日本酒の四合瓶を取り出した。

「田酒!」宗一朗が感嘆の声を上げる。

「友達の住んでいるアパートの近くにある、酒のディスカウントストアに、いつも置いてあるんだなあ、これが。不思議でしょ」

「どこだ、そこは」

「練馬だよ。谷原ってとこ。最寄り駅でいうと、西武池袋線の石神井公園駅」

「わりと近いな。今度、買いに行きたい」

「駅からは結構歩くんだ。一緒に行こうよ、お酒の買い出し」

 酒瓶は重いから、荷物を持ってくれる人がいると助かるし、などとうそぶきながら、田酒を注ぐために、新しいプラコップを取り出すと、加世は「そのリアクション、買って来た甲斐があるなあ」と言って納得するように、うんうんとうなずいた。

 いつも自分の部屋でやっていたことを、屋外でやっているだけなのに、場所が屋外というだけで、ずい分と感覚が変わるものだ。なんだか楽しいぞ。でもたぶん、この楽しさは、酒を飲んでいる時間のうちにしか、存在しないのだろうな。かと言って、ずっと酒を飲み続けるわけにもいくまい。宗一朗は思う。そんな思いも加世に注がれた田酒をひと口すするごとに、押し流されてゆく。

「加世」

「なに?」

 宗一朗は、うまく言葉を続けられず「ずっと飲んでいられたらいいよなあ」と言った。これじゃ、意味が分からないな。

 加世は一瞬、不思議そうな顔をした後「それじゃ、アル中になっちゃうよ」と、至極真っ当なことを言った。「東屋に住まうわけにもいかないしさ」

 もちろん、ここになんか住めるわけがないけれど、加世はそういうつもりで言ったわけでもないだろう。そう思って宗一朗は、「そりゃ、そうだ」とだけ答えた。

 小さな子供のはしゃぐ声がして、そちらへ目を向けると、四、五歳くらいの女の子が、おぼつかない足取りでちょこまかと走ってくるところだった。その後ろを母親らしき女性が、日傘を差して、大股で歩いてくる。

 宗一朗たちの目の前を横切った女の子は、タヌキの石像の前で立ち止まると、一層大きなはしゃいだ声を上げ、小さな手のひらで、その頭をはっしと叩いた。

「なに、これー」言いながら、何度も頭を叩く。

「やめなさい。かわいそうでしょ」

 追いついた女性が、日傘を差したまま器用に女の子を抱き上げた。女の子が叩いていた石像を繁々と眺めると「何かしら、これ」と言って、女の子を抱き上げたまま小道の先へ歩いていった。

「タヌキでしょ、あれ」加世が言う。

「だよなあ」宗一朗が答える。

 宗一朗は田酒を飲んでいる。加世も田酒を飲み始めた。鶏ハムもポテトサラダも、合鴨もソラマメも、次々と二人の胃袋に収まってゆく。

「なんだか楽しいぞ」

 宗一朗は先程の感慨を今度は口にしてみた。それに答えようとした加世も、うまく言葉を続けられない様子で「あ、おいなりさん、ちょうだい」と、なぜか照れたように言った。手でつまんだいなり寿司を口元に持ってゆく。その手をふと止めて「耕作に連絡してみよっか」と、いたずらっぽく笑った。

「お、呼び捨てか?」宗一朗も笑った。


 その日の午前中、耕作は吉祥寺で仕事をしていた。昼に仕事を終えた後、常盤と二人で中野に戻ってから一番街のチェーン居酒屋で昼食がてら飲んでいた。

「昼から飲むビールはうまい。特に今の時期。さらに仕事を片づけた後」

 耕作は屈託なく言った。常盤は一杯目の生ビールを干した後、燗酒に切り替えて、手酌でちびちびとやっている。ホヤの塩辛をツマミに。

「私も一杯目はビールがいいけど、一杯だけで十分ね」常盤は言う。

 雑居ビルの一階にあるチェーン居酒屋は、窓から炎天下を歩く、道行く人たちが見える。店内は、内装が凝っているし、照明も落としてあるけれど、日の光が窓から入ってくるので、昼間は思うようにその効果を上げていない。昼間に飲むならこんなところがいい、と耕作は思う。さっきまで近くのテーブル席にいた、草野球帰りと思われる(野球のユニフォームを着ていたので)、五、六人のグループが帰ってから、店内の喧噪が奇妙にしんとしていた。その奇妙な静けさに、耕作はまたも「郷愁」を感じていた。

「小学生の頃の夏休み、宗一朗の家によく遊びに行ったんだ」耕作は言った。

「うん?」

「縁側に座ってスイカを食べた。縁側は深い軒があって、そのせいか、家の中が薄暗いんだ」耕作は店内を見回した。「こんなふうに」

 視線を戻した耕作は隣に座る常盤の方へ体を向けた。

「縁側の目の前の庭は、真夏の強烈な日差しでまぶしくて、でも振り向くと家の中は薄暗いんだ」

「ふうん……。それで?」

 耕作はジョッキに三分の一ほど残っていた生ビールを干した。

「それだけ」

「なあに、それ」常盤が笑った。

 その笑顔を耕作は、いいな、と感じたので、この話をしてよかったと思った。

「永い付き合いよねえ。耕作と宗一朗君とは。私たちは、あとどのくらい、こんなふうに飲んでいられるのかしら、ね」

「来年も再来年も、その先も。ずっと飲んでると思うよ、たぶん」

 常盤がまた笑った。

「そうね。そうかもしれないわね」

 その時耕作が「ん?」という顔をして、ポケットから携帯電話を取り出した。

「加世からだ。哲学堂公園で宗一朗とランチ中、だって」

「仲いいのねえ、あの二人」

「今から来ないか、って言ってる」

「私も一緒に?」

「そうは書いてないけど……。行ったらおもしろいんじゃないか。初対面だし」

「おもしろい、ねえ……。あの二人も、そう言いそう。あなたたち天下泰平ね、ホント」

 そう言うと常盤は、伝票を手にして立ち上がり、薄暗い店内を会計の方へ歩きだした。

 常盤の突飛な行動に一瞬ぽかんとした耕作が、あわてて立ち上がって後を追う。振り向いた常盤は「行きましょうよ。哲学堂公園」と言った。

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