ガーデンハウス
@sakamono
第1話
立春を過ぎたばかりの午前六時は薄暗い。それでも最近、少し日の出が早くなったかな、と宗一朗は思う。ベッドから起き出して顔を洗い、さっと身支度を済ませると、玄関から二間続きのキッチンに立つ。身支度に十五分、後片づけを含めて弁当作りに三十分。それが時間配分の目安だった。九時からの始業と通勤時間を考え合わせると、午前六時の起床は早過ぎるのだけど、一度身についてしまった習慣を変えることは、宗一朗には困難だった。
塩鮭の切り身をガスコンロのグリルに入れて火をつける。卵を溶きながら、鉄製の玉子焼き器にも油をひいて火にかける。使い込まれた玉子焼き器。もう十年使っていて、その重さや柄の握り具合が手によく馴染んでおり、これでなければうまく焼けない、と宗一朗は思っていた。
この玉子焼き器は彼女にもらったものだと、以前、耕作に話したことがあった。鉄製だから手入れが大事なのだと。
「十年前の? 物持ちがいいねえ」
感心したようなもの言いだったけれど、確かその後、未練とかなんとか、そんな言葉が続いたような覚えもあるので、どちらかといえば揶揄の調子だったかもしれない。
だから今、焼き上がった鮭と玉子焼きをのせてある皿と、通勤鞄に合うように細身に作られた二段重ねの弁当箱も、それぞれ三年前、半年前につきあっていた女性からもらったものなのだが、それは言わないでいる。
「いいものは使い込むほど味が出るし、安いものは使い込むほど愛着が湧く」宗一朗は思う。
弁当を詰め終わると宗一朗は、使った玉子焼き器を、たわしでさっと水洗いして火にかけ、水気をとばした。軽く拭いてキッチンペーパーで油をぬる。
実際、宗一朗の周りには元交際相手からの贈り物があふれていた。ものを捨てられない質なのだ。食器やシャツや生活の細々したもの。女子は贈り物をするのが好きなのだろうか。消え物ならいいのに。食べ物は血となり肉となるけれど、物は即物的だ。そんなふうに宗一朗は思う。
弁当箱を通勤鞄に入れると宗一朗は煙草に火をつけ、濃いめに淹れた緑茶をすすった。昼の弁当はしっかり作るものの、朝はまったく食欲がなく、緑茶一杯と煙草一本で済ませている。煙草は十六の頃から二十年続く習慣だった。耕作に勧められたのがきっかけで高校生の頃には、二人で隠れて煙草を喫ったものだったが、一年前に耕作は禁煙に成功している。
宗一朗の手料理を食べに来る度に「この部屋煙草臭いな」と言う耕作に、宗一朗は眉根を寄せて閉口の意思を表示して「節煙中だよ」と応じていた。
午前七時になると通勤鞄を肩にかけ、宗一朗は部屋を出る。二年前に外壁を塗り直した賃貸アパートは築三十五年で、古い建物が持つ特有の空気までは隠しきれていないので、あざやかなベージュ色の壁が、どこかちくはぐに映る。宗一朗は、ソーラーライトのキーホルダーが付いた部屋の鍵をポケットから取り出した。今週の初めに加世からもらったものだった。
「こういう実用的なものか、食べ物をもらえるのが一番うれしい。でも、なんで?」
キーホルダーを、すぐにアパートの鍵に取り付けながら宗一朗が聞くと「お近づきのシルシ」と、加世はすまして答えたのだった。
前日の日曜日、近所のスーパーで買い物を終えた宗一朗は帰り道で偶然加世に会った。
「あれ、宗さん?」
名前を呼ばれて振り向くと買い物袋を手にした加世が立っていた。自宅近くの路上で会社の同僚に会った宗一朗は驚いた。「加世がなんで、こんなところに?」
「私も新井に住んでいるんだよ」
なんとなく一緒に歩く形になり、二人で新井薬師の境内を抜け、中野通りを右に折れる。
「ずい分と食材を買い込んでるね。お弁当を作ってるのは知ってたけど、自炊も毎日?」
買い物袋からのぞく長ネギの先をつついて加世が言う。
「毎日作る。日曜日に一週間分の食材を買い込むから、それでこの量」
買い物袋を持ち上げて見せる。
「すごいね。私、料理はさっぱりだから」
見ると加世の持っている買い物袋には、インスタント食品や総菜ばかりが入っていた。
「うち、ここだから」
アパートの前まで来た宗一朗は、そう言って不自然にあざやかなベージュ色の建物を指さした。
「本当にうちの近所だ。私はこの踏み切りを渡ってすぐのところ。あ、それじゃまた明日!」
鳴り始めた警報機にあわてた様子で走り出すと、加世は踏み切りの向こうへ消えていった。
その中野通りを宗一朗はJR中野駅へ向かって歩いていた。私鉄の新井薬師前駅の方がアパートからはずっと近い。それでもJR中野駅まで十五分かけて歩くのは、通勤に使う東西線の始発駅だからだ。
「おはよう」
上から声が降ってきたので顔を上げると、マンションの二階のベランダから顔を出した耕作が、こちらへ向かって手を振っている。
「今夜は七時でいいか?」耕作が言った。
「ああ、いいよ」
宗一朗は少しだけ歩をゆるめ耕作を見上げ、ベランダの下を通り過ぎた。
「料理にニンニクは使わないでくれ。明日デートだから」
背中から耕作の声が追いかけてきた。宗一朗はチキンステーキのニンニクは抜こう、と思った。
職場の席につくなり、加世が寄ってきた。
「昨日、宗さんが帰った後、課長が探してたよ。あの報告書、出した?」
「どっちの課長?」
「坂井さん」
ああ、あの件か、と思い出した宗一朗は、眉根を寄せて加世の顔を見た。
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